鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、1

2022年06月04日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9
異常潮位に就いては、上記に記した有ります。

その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??
その時刻を正確に科学的に解説した方が居ます。
その日時が干潮であろうと、満潮でも、、、如何でも良い事!!  机上の科学的と現実は違っていたのです。
何故なら、、、
『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!
と書かれている。

新田義貞が黄金の太刀を海に投げ入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!
それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!
更に 梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれている。
依って
 異常潮位であり、通常の干潮の時刻を問題にすること自体が見当違い!
異常潮位はどの程度の割合で起きるのか?
それも記事にしてあり、結構頻繁に(年に一度や二度あり、詳細はグラフをご覧ください)有ります。違った立場の異なる『太平記』や『梅松論』の著者が、同じように異常な干潮を記載しているのを無視した。数少ない古文献の重大な記載を信用せずに、平常の潮汐観測資料 で語った間違えを犯している。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)が計算の結果、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

恐らく、古文献を見て無いのか?難しくて読み切れなかったのか?  古文を解釈出来ないママ史実を誤認した研究者のレポートに成りますが、余りにも初歩的な間違えです。渡渉(水の中を歩く)の必要も無く平らな岩礁が浮き上がりその上を由比ヶ浜まで歩けた訳です。

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『現』稲村ケ崎 新田伝説検証。

2022年05月20日 | 稲村ヶ崎伝説

明治の迅速図です。

ご覧の通り、稲村ケ崎が海に突き出た岩礁は記載されていません。

細かい処迄明治政府は調べる余裕が無かった事がウカガエます。

下図は現代の詳細な地図で、海際の桃色に示した場所は波蝕台で平場です。

この桃色の平場が鎌倉街道の痕跡の様に誤解した人が居り、挙句は胸まで漬かりながら渡渉を試みたのが明治の話で、渡れたので「新田伝説は単なる伝説では無い!現稲村ケ崎の脇を渡渉したのだ!!」っと言う古文献を無視した誤解が生まれた! 更に碑迄作られて今日に至ります。

上図の桃色の平場は、人工的な平場ではなく、波蝕台で波浪が岩を削った2m幅の平場で数か所で途切れており道の痕跡では無い。これ等の水面上に出た平場を断ち切る海蝕洞が在り、は数千年を要する侵食ですから、千年後程度の変化は微小です。水面上にでた桃色の平場は道としての資格は無く、古典に書かれた一般的老若男女が通行できる稲村路では無い根拠です。
稲村路は別な処に存在します。

さて、下の稲村ケ崎の航空写真ですが、
海底の岩場には、進行方向を邪魔する溝が多数有り、安易に渡渉するのは困難です。
新田軍が渡渉する時、鎧、武器を持ち胸まで漬かって歩き、溝に足を取られれば、胸の深さでも溺れます! 更に鎌倉軍は船を出し、横弓を仕掛ける準備をしていた。
結果は、新田軍の渡渉はこの場所からは無理と言う訳です。

下の写真は稲村ヶ崎の東側で、詳細な地図に示された桃色の平場は 水際の白い岩場であり、海蝕洞に断ち切られている。稲村路と呼ばれる街道の痕跡では無い根拠です。

下の写真は崖の崩れ状態から関東大震災前の大潮で浮き上がった岩礁で、今の埋め立て地です。波さえなければ問題なく胸まで海に浸かる事なく岩盤の上を通り 鎌倉市内に攻め込めるわけです。

更に、下の写真は同じ場所の明治時代の潮干狩り風景です。岩場が比較的平坦な岩場で在る事に注目してください。 これならば、鎌倉市内に向け新田軍は多人数でこの岩床上を通り攻め込める。

以上が、写真によるマトメです。 

腰まで潮に漬かり、水中を渡渉した訳では無く、この場所を由比ヶ浜に向けて攻撃した訳です。 間違えは、古典に書かれた稲村路を調べずに 憶測で稲村ケ崎の水際と決めつけた事です。

詳細は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

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稲村伝説!【稲村崎成干潟事】

2022年05月13日 | 稲村ヶ崎伝説

2022/5/9 前後のテレビで「鎌倉殿の13人」絡みの解説が在り、稲村ケ崎を新田義貞が渡渉した話を肯定した解説をしたと知人から聞きました、、、
歴史的根拠の「太平記」「梅松論」や「吾妻鑑」に記述された事を理解出来なかった様です。
記述の真偽が問題なら地形や遺構を調べれば間違いが証明できる話です。
私の反論は、既に書き散らかしたが、、、
カテゴリーに「稲村伝説」を作り、マトメテ読み易いようにしました。

◆稲村ガ崎の古道を検証 上巻(2014年11月19日 | 切通し
 〇記2006/11/02  稲村ガ崎の古道を検証1〜5
◆稲村ガ崎の古道を検証 下巻(2014/11/18)
 〇記2006/12/04 稲村ガ崎の古道を検証7〜10
◆稲村崎成干潟事 上巻(2014年11月28)
 〇2010/07/01記 稲村崎成干潟事 序〜5
◆稲村崎成干潟事 中巻(2014年11月28)
 〇2010/07/18記 稲村崎成干潟事6〜10
◆稲村崎成干潟事 下巻(2014年11月28)
 〇2010/09/28記 稲村崎成干潟事 11〜15
◆稲村ガ崎の戦い 上巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 中巻(2015年07月13)
◆稲村ガ崎の戦い 下巻(2015年07月13)

  以上が新設カテゴリーの内容です。

当方は、此の番組の内容は知りません!  ご質問等はコメント欄へお願いします。

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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」

2022年03月19日 | Weblog

頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 (野﨑幸夫) 様、

コメントを読ませて頂きました。断片的には知って居ましたが、頼朝落馬の地が在ったのは初めて知りました。

史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

源頼朝落馬の地
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm

 源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。

極楽寺坂の切り開かれた時代は、
深沢(現・鎌倉市西部)にあった寺院を1259年に、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた極楽寺に移した。其の後に忍性(入寺は1267年)が極楽寺切通を切り開いたとされ、頼朝死後の話しです。
頼朝生前の街道として、稲村路は鎌倉市営プール後ろの崖を横切る道で馬が通るには危険が有る道と考えられる。

頼朝が通った道と考えられるのは、

古代東海道が在り、化粧坂から梶原(又は大仏切通し)、深沢、手広、大道(藤沢)、辻堂四ツ谷、平塚古代東海道痕跡より足柄峠へほゞ一直線の古代東海道(紫色のライン)と考えられ、富士の巻狩りにも使用した道です。
海岸寄りの道の詳細は不明ですが、天然記念物「旧相模川橋脚」と言う鎌倉時代と考えられる遺構がある。
古代東海道の藤沢引地川の辺りから「旧相模川橋脚」へ向かう道(赤色ライン)が分かれたと考えます。
その中間地点と考えれば、、辻堂の頼朝落馬地点の表示も矛盾がないかな?    そんな事を考えました。

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鎌倉の味わい方!

2022年02月26日 | Weblog

小学生の頃、藤沢駅前から自転車に乗って鎌倉を探索して走ったのが始まりで1950年代の話です。
当時は、江の島の華やかな賑わいとは違い、鎌倉は異質で静かで落ち着いた別世界でした。 単なる山道では無く人手が加わり、行く先々に意外性がある景観の山道でした。
鎌倉は、深緑の細い土道で、薬研堀の道や切通の道を好奇な目で楽しめました。
今思えば、その道は、崖=切岸 坂道 切通し等の造形の変化が面白さの一部で在ったし、思いがけない場所のお寺で在った訳です。今でもその山道の風情は色濃く残って居ます。


 鎌倉市街は 新田義貞の鎌倉幕攻めで、焦土と成り 残った建築は円覚寺の舎利殿のみで、鎌倉時代を偲ぶ建物は消えました。
それ程に、鎌倉時代を偲ぶ建築物は消え、明治初頭の市街は大半が畑でした。

絵図の如く、鎌倉市街は八幡様の参道、長谷、極楽寺下の坂ノ下辺りに観光客目当ての家が建つ状況が示され他は畑と成ります。
新田義貞の鎌倉幕攻め以降 その時代を示すオリジナルなモノは、市街を囲む山の切岸を含めた鎌倉城の痕跡ダケと言う結果です。

鎌倉に思いを寄せて訪れる方は、観光ガイドを片手に小町通りの飲食店やお寺巡りをして頼朝を偲ぶのでしょうが、、  私は、、街並みや商店街が楽しくて行く事も多い。 お食事のお勧めは、駅前小町通りの角の「不二家」がお勧めで、マニアックな方なら、「樹」や「エレッジ・カフェ」がお勧めです。

 

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鎌倉殿の13人 の結末は?

2022年02月01日 | Weblog

文献が少ない為に為に起きた「誤り」と言うのが有ります。
研究テーマに沿った文献を調べ、不明な部分は想像で埋めて一冊の本に仕上げたのが鎌倉の歴史研究書です。

理工科系統では、研究テーマに沿った文献を調べ実験で検証し、不明な部分は新たな研究対象と成ります。
要は、鎌倉の歴史研究書は想像記述が多く、根拠の無い記述が多いと言うのがこのブログに書かれた事です。

現地の地形や切岸の構造等を知って居れば、古文献から引用した「誤解」はトテモ少なかったと考えます。
残念ながら、鎌倉の地形を把握するには広大過ぎて判りにくく、研究書は無い。
臆測で書かれた「誤り」は、鎌倉の地形を知らずに書かれたモノです。

「鎌倉殿の13人」も古文献の根拠より、誤解を積み重ねた現代鎌倉研究書の引用が多いと思います。鎌倉終焉で 鎌倉城の記述や、稲村ヶ崎の故事が在ると思います。
どの様に話が展開するのか、、
疑問がお有りでしたら、、お知らせください。

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鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、

2022年01月28日 | Weblog

年明け最初の記事です。
このブログも多数の方がご覧になられ、嬉しい限りです。
現代の100年に渡る鎌倉研究の本は、憶測に満ちた研究が多数を占めます。
鎌倉終焉にて、幕府の文書は灰塵と成った訳です。

●軍忠状
●十六夜日記
●梅松論
●太平記
●吾妻鏡
●関東御教書

これ等の古文献等が鎌倉を語る文献の主流と考えますが、、如何でしょうか?
古文献に頼る為に、不明な部分を憶測するのが現代の研究書です。

当方は、文献よりも鎌倉の現状の遺物、「切岸」「谷戸」鎌倉城の範囲を考察!
その方向を優先し、文献は後回しと成っています。

文献に詳しい方、
反論の有る方、
ご遠慮なく「コメント」を下さい!
由比ヶ浜の 元寇防塁等は、 これ等の反論から見直された話です。

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鎌倉時代の波打ち際 29

2021年12月26日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ヶ浜に元寇坊提に相応する崖が存在した!

逗子の海岸にも同様な元寇坊提に相応する崖が在り、

更に七里ヶ浜にも元寇坊提に相応する崖が存在し、明治の時代まで残り、写真に捕らえられている。

では、鎌倉城を外れた海岸はどの様でしょうか? 江の島の砂州は片瀬川ですが、片瀬山迄切岸が存在する事から、片瀬川までが鎌倉城の範囲と考えられ、片瀬川西側の鎌倉城から外れた砂浜(鵠沼海岸)はどの様か?

ご覧のように片瀬川一つ隔てると、普通の砂浜と成ります。

結果は鎌倉城の範囲に防塁は造られたと考えられる。

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鎌倉時代の波打ち際 28

2021年12月08日 | 鎌倉時代の波打ち際

由比ヶ浜の元寇坊提に相応する遺構は鎌倉考古学研究所に依ると 由比ヶ浜南遺跡は「東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。」っと発掘状態を語っている。 四角い鎌倉石で積み上げられたモノと考えられる。
その土塁を西へ延長させると坂ノ下で、関東大震災で崩れた状態が下の写真です。
四角い石材が散乱しているのが確認できる。

同様に関東大震災で崩壊した七里ガ浜の道路と崖の状況は? 下図の状態です!

小動岬が写る崖が崩壊した写真です。

如何でしょうか?
四角い鎌倉石が散乱した状態は、由比ヶ浜(坂ノ下)の画面と同じ状態です。
由比ヶ浜南遺跡と同様に「鎌倉石を使った大規模な土塁」と考える根拠の写真です。

鎌倉時代に造られた道路は総て細い道です。広かった化粧坂の道も狭く作り直した痕跡が在り、朝比奈の切通も同様に狭く作り直した。
七里ヶ浜の道と考えれば広すぎる道ですが、元寇防塁の平場の広さと考えれば矛盾しない訳です。後世に鎌倉と江の島を結ぶ観光道路となったと考えます。

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鎌倉時代の波打ち際 27

2021年12月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

江之島には灯台(昭和20年代に建設)がありません。江ノ電は1910年(明治43年)開業。依って、この画像は明治43年から大正12年の間と考えられる。

 

下の写真は、道路脇の崖の状態です。

下の写真は 江ノ電が無い時代ですが、注目は道の広さに有ります。
・ 化粧坂より葛原ヶ岡神社に向かう旧道、
・ 大仏切通より手広に下る道、
・ 銭洗弁天から葛原ヶ岡神社に向かう山道(山崩れで通行禁止)、
・ 名越の切通の道、
これ等は、皆細い道です。
例外は、化粧坂の道や朝比奈の道が広いのですが、、、鎌倉時代より以前の道と考えられます。

これ等の道と崖の作られた時代は、、、

これ等の重機の無い時代の道路整備は、鎌倉時代以外は考えられない訳です。

更に、鎌倉時代には、広い道路を狭めて使う時代でこの広さは矛盾です。

これは、道路として考えると矛盾しますが、、元寇防塁としたら、
元寇の攻撃をこの平場で武士が弓を持って待ち構える。
更に、その後ろを敵が多い場所に向けて騎馬が疾走する!
その様な戦う為の平場と考えれば矛盾しない。

この山の裏には、騎馬を置ける場所として、鎌倉広町緑地が有ります。
長窪の砦、水堰橋上の台村の平場、更に広町緑地等、通常の守り主体の城とは異質。
攻撃が前提の城と感じます。

問題は、砂浜と道路の間の崖はどの様な、構造なのか?本来なら掘り返さないと判らない話がテーマです。

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鎌倉時代の波打ち際 26

2021年12月03日 | 鎌倉時代の波打ち際

七里ヶ浜の話です。

鎌倉の由比ヶ浜には元寇防塁と考えられる遺構が在った。
鎌倉城の切岸は、片瀬山にも在り、江の島の際迄鎌倉城が存在すると考えられる。
依って七里ガ浜にも元寇防塁が有るのでは、、っと考える訳です。
下の写真は江の島から見た七里ヶ浜で、国道134号線の崖に成っています。
写真左は小動岬で、右端は稲村ヶ崎になります。

ご覧のように国道134号線の崖が、元寇防塁状態です。下の写真は、その一部を拡大しました。

写真に写るのは、国道のコンクリートの壁ですが、、国道が出来る前は、この崖の場所はどの様で在ったのでしょうか?

下は「今昔マップ」と言うアプリケーションです。

明治の地図ですが、既に江の島電気鉄道の文字が在り、七里ガ浜に道が在るだけでは無く鉄道が脇に在ったのです。

この道路の記号は、
一、道路の記号
二、鉄道の記号  緑色の枠内
三、崖の記号   赤色の枠内
の三要素で依り成り立っている。

結果は明治の頃より道の砂浜寄りは、土塁の崖が存在したと考えられる。

問題は、この道と崖の詳細です。

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鎌倉時代の波打ち際 25

2021年11月16日 | 鎌倉時代の波打ち際

google地図に依る 現在の逗子海岸です。

海岸際に国道134号線の崖が延々と続いている。

この崖の成り立ちは、、道路を作ったから??

同じ様な写真ですが、、下の写真を見てください。

同じアングルの絵はがきの写真で、海岸道路が無い時代のモノです。山の位置からほゞ同じ場所からの映像と考えます。

道路が無くても、崖が在った訳です。

Google地図の写した道路は昔は海の上! 由比ヶ浜と同様に、国道によりこの元寇防塁と思われる崖は隠されてしまった。

次は、七里ガ浜です。

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鎌倉時代の波打ち際 24

2021年11月13日 | 鎌倉時代の波打ち際

国道134号線脇の元寇防塁の現状です。
当然の如く、鎌倉石は風化に弱く800年は持ちません!
しかし石垣の基壇は地中ですから発掘すれば証明できるでしょうが、、、
現状は
関東大震災で崩れたモノを修復した石垣が現状と考えます。

以下はgoogle地図から引用します。

前回の道より国道134号に出た場所で、コンビニエンスストアが有ります。

コンビニエンスストアの脇に石垣が有ります。

 

国道に車で出る為に色々細工をしています。

 

坂ノ下の交差点です。

 

この場所には、稲荷神社が有ります。

この神社は、関東大震災後に造られたモノでしょうが、、
神社脇の道に特徴が有りその道の細さは現代では考えられない細さです。
鎌倉の道の細さは特筆ものでして、この坂の下の町の古い路地はこのレベルの細さです。
以前紹介した銭洗い弁天の古い参道も、路地道では無いのに細い道です。

この国道路面の標高は3.8mです。更にこの石垣の高さ約2mを加えると、5.8mです。
関東大震災で海面が1mせり上がっていますから昔は4.8mで、砂浜1.8mと石垣3mと考えています。
鎌倉の元寇防塁は3m程であったという計算です。

 

道路の先に有る信号交差点が稲瀬川の脇の交差点です。

鎌倉に元寇防塁が存在し、由比ヶ浜一帯に造られていたと考えられる訳です。

当然の如く、それは逗子の海岸にも同様な妨提が考えられる訳で、七里ガ浜も同様です。

それを探ってみましょう。

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鎌倉時代の波打ち際 23

2021年11月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

元寇防塁の現代の姿は、自前の写真が在りますが、
Googleマップの方が良く写っている!
先ずは霊仙山 の下より国道134号に出あう間 のストリート写真です。

此れより下はgoogle地図の画像です。  先ずは霊仙山を斜めに横切る白いガードレールの道です。


新田義貞が鎌倉に攻め込んだ時の潮が引き出現した岩礁!
関東大震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた時に使った道です。道の先は現在住宅地であり、その山を削って岩礁を埋め立てた訳です。


其処から東向きに元寇妨塁を見ると、下の写真です。

下の写真 道路の左側の石垣がその防塁です。

 

 

 

下図は、国道134号線が先に見えます。

 

下図は、国道134号線の出会いです。

上図の白い建物は、コンビニのローソンで、その先に石垣が有ります。

次回は、国道134号線脇の防塁です。

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鎌倉時代の波打ち際 22

2021年11月05日 | 鎌倉時代の波打ち際

下図は「鎌倉時代の波打ち際21」の元画像で、関東震災以前(明治、大正時代)の絵葉書です。

この山の岩崩(いわくえ、崖)ですが、萬葉集の防人に行く男が謳ったモノで

かまくらの みこしのさきの いわくえの きみがくゆべき こころはもたじ

この岩崩(いわくえ)の事で、由比ガ浜から見た時に絵に成る場所で、新田義貞鎌倉攻めで黄金の太刀を投げ込んだ海、潮が引き奇跡を起こし海蝕棚が水面から現れた! その海蝕棚上を歩いて攻め込んだ、、この故事に絡む古跡と成ります。

その様な訳で由比ヶ浜から防塁を写す様な写真は、震災の崩壊の凄さを表した報道写真の時だけが興味の対象で、他には探しても無い!

この写真は、稲村ケ崎に続く霊仙山を写した写真の脇にタマタマ写った物です。

場所が判れば、写りは悪くても判別が付けられると考えたのが 下の写真です。

更にもう一枚

以上の防塁が崩壊前の写真となります。
崩壊しても基部はシッカリ残って居るハズですから、、発掘したら痕跡が在るハズです。
現在、鎌倉石は風化に弱く、震災の被害もあり 現代風に他所の石を使って作り直されてる。
元寇防塁のハズが、住宅の波浪避け、高潮除けの必需品と成って生活に溶け込んで現在に至ります。

浜辺より一段高い石垣を組んだ景色は 明治時代では珍しく、観光用鳥観図に描かれた事から、書き手の興味を引いた様子が窺えます。

更に、現状の報告も有りますね、、、

 

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