鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事 中巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月18日   稲村崎成干潟事6

新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け軍を進め針磨橋で、分かれ道となった。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。」と太平記の稲村崎成干潟事に書かれたこの時の布陣を考えてみましょう。

この布陣の基になる情報は、
上記の太平記の針磨橋の場面、新田軍が居ても鎌倉軍は攻撃できず、睨み合った状態。
この根拠から新田軍は稲村路の海に出る処まで使えたであろう状態が一つ。
陣鐘山の伝承が一つ。
新田軍の総攻撃に連動させて、霊仙山を三木党が襲った事の三項目を組み合わせると、、
図の様な布陣が考えられる。

江ノ電稲村ガ崎駅の背後の山で、新田義貞が鎌倉攻めの際に山上に陣鐘を吊るしたという伝説がある。対面する霊仙山の鎌倉軍を鐘の音で威嚇したのでしょう。
尾根は南北に長く、北は、大仏坂に対面する場所で、陣鐘山~一升枡砦~貯水場~大仏坂へ続く尾根です。地図では尾根伝いに攻め込めば良さそうですが、、実際は山城構成の戦う場所で、尾根は占拠しても、尾根伝いに攻め込むことは無理で有ったのです。

新田義貞は陣鐘山の西にある聖福寺に陣を置き、極楽寺坂を攻めたそうです。
この布陣をしたのは、稲瀬川において討取られた浜手の大将大館宗氏であったか、、、新田義貞が稲村に入ってからか?
想像するのは、
稲村ヶ崎から極楽寺坂の防衛線を打ち破る時に、端の海よりの陣地から潰して行くのが常套手段と考えます。
数日を懸けて砦の中の鎌倉軍を追い散らし稲村と陣鐘山を手中に収めた。
勿論、腰越まで新田軍を引かせた話もありますが、、奪われた砦を奪い返すのは、数倍の力が無ければ出来ないことで鎌倉軍は余力が無かったと想像します。
この様な布陣を取っていたなら、針摺橋は敵味方の境です。
そして、霊仙山と稲村ヶ崎の間に稲村路が有る訳ですが、稲村ヶ崎の砦は新田軍が占拠した状態が考えられますが、無視しても稲村路を攻めるには峰の上から谷の下の稲村路は距離が有り過ぎ、鎌倉軍は攻撃できないので、稲村路から稲村ヶ崎の海に出るのはた易き事と考えます。
その後三木党が新田軍総攻撃に合わせて、仏法寺を占拠した記録もあるそうです。


■ 記 2010年07月23日   稲村崎成干潟事7

稲村ガ崎はどの様な砦であったのか?
私自身が、稲村ヶ崎が風光明媚な観光地と認識しても、
戦いの砦としての無骨さを感じた事はは無かったのです。
右の写真は震災前の明治の写真です。
平らな平場と垂直な崖!とても人工的な工作の成された砦!
石組みの城壁より攻めるに困難さを感じる人工的な崖です。
「鎌倉には城が無かった!」其処にあるのは、石切り場や畑の跡だけである!
と陳腐な説を吹聴している人がいるようですが、、
この痕跡と、戦った経過とを、説明して欲しいものです。
この様な防御が無ければ、一日と持たずに攻め込まれる。
決して、、守りが弱かったのではなく、攻め手が強烈であった事と、異常気象に守りを崩されたと想像します。

現状は 木が茂り、、本来の形が見えなくなっている。
手を加えないことが自然保護ではない証明です。
古来より里山は、人の手でコマメニ伐採されていた。
お爺さんは、山に芝刈りに行ったのです。
鎌倉は、樹木を「自然保護」という大儀の放置処分をした。
巨大に伸びた樹木の根が岩盤を破壊し始めている。アンコールワットの二の舞です。


■ 記 2010年07月27日  稲村崎成干潟事 大潮

このグラフは今年の潮位を標高で表したものです。
OKADAとされているのは、伊豆大島の岡田です。
大潮の時は、一日一回1mほど潮が引きます。
大潮の前後数日は、潮の引きが大きいのを確認できると思います。
この様な訳で、大潮の日から多少ずれても潮の引きは、それなりに大きいのです。
大潮の特定日を問題にするのは、海の潮の程度を知らない机上論で、程度の問題を考慮に入れて理論を展開して欲しいものです。
18日に干潮があり、大館宗氏が鎌倉に深入りして討ち取られ、21日の干潮に新田義貞が鎌倉攻めを行った理由でその間4日です。
グラフから見て、、この数日は時間を選びさえすれば潮が大きく引いていた!!
っと ぼ輔は考えるのです、、、

一番の問題は、
「干潟の時刻や日付が合わない! だから太平記の記述が間違えている!!!」
その考えはチョット待て!書いてあるのは太平記だけでは無い事に注意して欲しい。
幾つかの著者が違う本でも、日付は符合している。

日にちの計算は、確実なのか??
当時の暦の日付を西洋暦に置き換える事が確実に出来るのでしょうか??
その辺りに不審を感じる「ぼ輔」です。
書いてあることに誇張は感じても、書かれた事が起きたとぼ輔は考えています。

皆さんは如何に感じますか?

◎◎◎◎コメント◎◎◎
長潮 (三品)
2010-08-04 22:02:23
コメントが遅くなってしまいました。
やっと、謎が解けそうです。
面白いものを見つけました。

下弦の月を過ぎたころは長潮と言うそうです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

今でも、由比が浜は、長潮の時、「潮位も低く、砂浜の利用面積が増える」と
いうことです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

それから、大潮のころは、満潮が明け方三時と夕方五時です。
一方、長潮のころは、干潮が明け方三時と午後三時です。
ということは、戦を始める明け方、薄明のころ、
大潮だと浜が渡れません。長潮だと、ちょうど干潮で浜が
渡りやすいのです。
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/tokyowan/currenttide/currenttideindex.htm

長潮、 (三品)
2010-08-04 22:03:54
URLが一つ違ってました。これです。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kisya/data/2010/20100212-3.html

Unknown (長潮、)
2010-08-05 20:09:38
もう一つも、違ってました。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kaisyo/kaikyo/suisan/index.cgi?mode=serch&basho=28&year=2010&month=7


■ 記 2010年08月02日  稲村崎成干潟事8

陣鐘の峰
この峰を占領しても、鎌倉勢を有利に攻撃する事にはならない。
この峰から兵を繰り出して直接極楽寺坂を攻める事が出来ない。
何故なら、守り易く強固な砦は、攻め込む相手を攻撃するには好都合でも、砦から打って出て相手を攻撃する事は無理な構造です。
よって、極楽寺坂に降りたくても断崖で降りられない。一旦七里ガ浜へ降りてから攻撃する手順が必要です。
利点があるとすれば、唯一「陣鐘の峰」から極楽寺坂のくぼみを通し鎌倉の浜が見れる場所なのです。
軍を指揮する者にとって、とても必要な鎌倉の中の情報が外部から見える場所です。
以前ぼ輔が見たイメージを絵にしてみました。(イメージであり、現在もこの様かは樹木の育成により不明。)
極楽寺の忍性墓上の峰に相当する場所からの景色です。


■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気象庁   気象統計情報より
異常潮位
 近年、日本沿岸では平均的な海面水位が高い状態が続いており、浸水害などの恐れが高まっている。ここでは、数週間を超えて広範囲に潮位が高い(低い)状況を引き起こす異常潮位について、その発生要因、最近の事例、長期的な変化などを解説する。データ解析の詳細は(4)で記述する。
(1)「異常潮位」とは
 通常、海面は1日にほぼ2回、規則的に昇降を繰り返し、その高さと時刻は地球と月および太陽の運行からあらかじめ推測することが可能で、「平常潮位」や「天文潮」と呼ばれる。しかし、実際に観測される潮位は、さまざまな原因で平常潮位と異なり、観測される潮位と平常潮位の差を潮位偏差と呼ぶ。
 潮位偏差を生じる代表的なものには、台風などで起こる高潮や地震で引き起こされる津波があるが、潮位偏差の高い(または低い)状態が広範囲に数週間を超えて長期間続くことがある。これが異常潮位と呼ばれる現象である。この異常潮位という現象は、季節に関係なく発生しているが、平常潮位が年間でも高くなる夏から秋にかけて異常潮位が起きると浸水被害などが発生する。

1 近年発生した主な異常潮位
1999年10月   10月上旬~11月中旬   東海~紀伊   海流の変動  浸水・冠水
2001年7月   7月上旬~9月上旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2001年9月   9月上旬~10月中旬   東海~九州   海流の変動  浸水・冠水
2003年8月   8月下旬~9月下旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2004年6月   2004年6月~翌2月    東海~紀伊   海流の変動
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

以上の文は気象庁のHPより、借用しました。
災害防止の都合上、高潮が問題になっていますが、同様に引き潮も在ると考えています。
海流の問題や、高気圧で海面が低くなる事が書かれています。
発生回数もグラフの通りの回数が発生しています。

いや~! 他人の存在は大事な事で、、、
三品さんの書き込みより大事な事を思い出したのです。
太陰暦です。
昔は、15日の夜は必ず満月であった。
18日は中潮 にて、大館宗氏が鎌倉に侵入。
19日は中潮
20日は中潮
21日は中潮 にて、新田義貞は稲村より鎌倉市内へ。
22日は小潮 にて、鎌倉最後の日
23日は小潮 下弦の月
日付は月の満ち欠けで数えていた当時に日付の間違いは考えられない。
通常の潮の引き方ではなく、異常気象であったと考えざるおえない。
その様な処から、、
今回の異常潮位を引き出すことになった訳です。
その異常で在った事の根拠も必要でしょうね!!!
その根拠は、太平記、梅松論に「異常な事態であった。」事が書かれている。
「暦からその日は大潮で無い! 時刻が合わない!」 そんな理屈は学者の机上論であり、
文献を無視した考えで、整合性が無い。

その手の理屈は、、、自説を主張するあまり、全体との調和を崩しており、非科学的です。


■ 記 2010年08月25日  稲村崎成干潟事10

写真は、材木座より見た明治の稲村、霊仙岳。
 そう言えば、稲村ジェーンの話がありましたね、、、
私の知っているのは、干潟が埋め立てられる以前、この場所は大波の名所であったそうな!
遠浅の浜は良い波が出るのです。
その様な理由でこの場所でサーフィンをやった連中がいた。
現代的なボードでは無いですよ!
埋め立て後、この波は無くなった。

1960年代、ぼ輔が鎌倉でヨットをやった。鎌倉の海で遊ぶ人も殆ど居ない時代です。
秋から冬にかけて、由比ガ浜でも七里ガ浜でも遊んでいるのはぼ輔だけ!
冬の風の中セーリングボートは波を被って寒いのです。それでも遊ぶために、ウェットスーツを買い込んでヨットに乗った。
湘南で潜水用のウェットスーツを防寒用に使ったのは、ぼ輔が最初でした。

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稲村崎成干潟事 下巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年09月28日 稲村崎成干潟事 11

写真を写した場所の直下は、新田義貞が陣を置いた正福寺跡で七里ガ浜まで直線的な谷になっている。
この谷は新田軍が占拠し、陣鐘の峰を越した東は、針擦橋や極楽寺の有る谷で鎌倉軍が待ち構える。
この谷から陣鐘の峰を攻撃し乗っ取るのも困難ですが、どれ程困難か?
陣鐘の峰を歩く事で、実感して欲しい物です。

異常潮位の事!
 第一に、、、
幕府軍は稲村路に逆木を作り通行出来ないようにした。
当然通常の引き潮では通れない様に逆木は配置された。
逆木で手こずる新田軍を船上から矢で狙い撃ちをする計画であった訳です。
それが、計画通りには成らなかった理由は、
逆木の岸から更に遠くの外海迄潮が引いた。
その結果、横矢を射る位置の海面に岩が顔を出し、船は更に沖へ移動したので、新田軍に矢は届かなかった。
新田軍は、船の横矢で狙い撃ちをされる事も無く通過した!
鎌倉幕府軍は、引き潮の程度を知った上で逆木を作った筈です。
考えられるのは、地元の人間ですら想像しない異常な潮の引き方であった根拠です。

第二は 梅松論ですが、、
「爰に不思議なりしは、稲村崎の波打ち際、
 石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、
 かたがた仏神の加護とぞ人申しける。」。

とあります。
単なる大潮の引潮とは違い、長い時間潮が引いていたと書いてある。
満潮から引潮になり、再度満潮になるには12時間です。中身の潮が引いた時間は実質6時間と決まっています。
時間的にも異常な引き潮であったのです。
大館宗氏が鎌倉市内に深入りして討ち死にした日はすでに引潮の異常は始まっていたと考えられ、鎌倉市内に入り込めた。
起きた亊は「塩干て合戦の間干潟にて有りし事」であり、潮が引き岩礁が現れその上を歩ける事です。

別の視点から書かれた太平記の「稲村崎成干潟事」を加味すれば、、
自然現象の干潟の符合は、絵空事では無く、立場の違う複数の人が書き残している現象である事が理解できるでしょう。
明治の歴史学者の大森金五郎氏が引き潮のときに徒渉を試み、海中を渡るのはそれほど困難ではないという結果でした。これは文献を無視した実験で「干潟」の意味を理解していない非合理な実験と、考えるのです。
干潟の上を歩くのと、腰やお腹まで海水に漬かりながら「困難では無く徒渉する」のは中身が違います。

■ 記 2011年01月24日  稲村崎成干潟事12

写真は現在の稲村ガ崎の東側面(由比ガ浜側)で崩落の為の瓦礫は無い。

稲村ヶ崎の岩壁は崩れやすい!
     本当にそうでしょうか?
関東大震災(1923年)に稲村の岩壁は崩れました。
その規模は、、、

「稲村崎成干潟事3」2010-07-10  に崩壊の写真があります。
この崩壊の程度は、大きいか?少ないか?
具体的には、写真に写る崩れた岩石の量を想像してください。
その様な程度です。

この写真の場所は、岩に大きな窪みがあります。波の侵食による窪みです。
この様な侵食は数千~数万年の歳月が掛かるでしょう。
この場所は、大きな崩壊は無かった様です。

海蝕台(波蝕台)っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
突然の隆起で台が作られた様に海面より上に出たものです。

写真で、
波打ち際に白く写っているのが2~3m幅の海蝕台で、1923年の関東大震災に浮き上がった旧海水面と思われます。この場所を稲村路の道路跡と間違え易いので、注意する必要があります。
そして、この海面下には、1mの深さに前の時代(数千~数万年前)の規模の大きな海蝕台が有ります。
現在は、大潮に膝まで海に入ればその海蝕台の上を歩け、海産物を地元の人は取っています。
この現在徒渉可能な海蝕台の存在が稲村外海から攻め込んだ話の基なのでしょう。

同様に、霊仙ヶ崎の埋立てたところは、稲村ヶ崎周囲以上の数段規模が大きく浅い海蝕台が存在した訳でその上、震災後は干潟になるのです。
次回は、、その写真です。


■ 記 2011年01月26日  稲村崎成干潟事 13

「稲村崎成干潟事3」の写真とは、別物です。
今回の写真は、
「図説鎌倉回顧」鎌倉市発行に記載された写真ですが、、、
鎌倉市営プールより稲村ヶ崎に向けた現在の写真と比較して下さい。
関東大震災以後、この様な海蝕台の岩礁が競り上がったのです。
この海食台の状態は、江ノ島の様な平らではなく、横須賀の荒崎に見られる様な、洗濯板状に成っており、海面下では浅くても歩きにくい状態です。
干上がれば、深みに足を取られずに迅速に攻め込む事が可能です。
震災後にこの干潟は埋め立てられ、現在の状態に成ったわけです。

もう一つの注目点は、「稲村崎成干潟事3」の写真より岩の崩落が少ない事が理解できると思います。
霊仙ヶ崎の干潟状態が見れるこの写真ですが、、、「新田義貞は、稲村路を使い霊仙ヶ崎の干潟を鎌倉に攻め込んだ」と結論つけられる根拠となります。

決して、モーゼの「十戒」の様な奇跡ではなく、現実に起こる話で在った訳で、太平記の記述を実際に起きた事と解釈して調べた結果です。
従来説の問題として、
①稲村ヶ崎の外海を徒渉する様には、太平記に書いてない事。
②文献の解釈を逸脱した「近世の創作」である事。
の二点が在ります。
以上が 稲村崎成干潟事 の現時点の考えです。


■ 記 2011年01月28日  稲村崎成干潟事 14

上記の図は、「稲村崎成干潟事4」に使った物です。
青いライン①は従来説の稲村路で、道の痕跡は無い。
赤いラインは「ぼ輔説」の稲村路。
黄色いライン③は、これから考察するべき道。
緑は、極楽寺坂です。
航空写真もこれに準じます。

nagaeさんより、質問が有りました。
内容は、

> 稲村道について質問があります。
> 「稲村崎成干潟事4」に地図と航空写真があります。
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。
> 他方、赤い点線にところに○があります。
> こちらが稲村道のようにも見えます。
> 稲村道はどちらなのでしょうか。
> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

ゴモットモナ質問内容と、「ぼ輔」の説明不足な点、、
それ以外に「水石の美を求めて」の酔石亭主さんの
・新田義貞鎌倉攻めの謎を解く・
がトテモ考え方のヒントとに成り、、、
稲村道を更に一段深く考察する事に成りました。

取り敢えずnagaeさんの返事は次の様なモノです。

"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。

青い点線は、従来説の稲村ヶ崎の際を通る道で、実際は道がありません。
赤い点線に丸印をして、この場所が「稲村道」と書いたモノが思惑外の結果になったものです。
ですから、赤い点線が「稲村道」です。

> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

この道も説明しきれて無いですね!
この道は、明治の地図にも載っている道ですが、関東大震災で消失したのを
「稲村崎成干潟事3」の写真で確認してください。
①この青い道が、稲村道でナイ理由は汐の満ち引きで波を被る場で浸食洞が道を断つ。物理的に道は無理です。
③黄色いラインの道は、
針磨橋から南下し、途中で稲村道と分かれ登り道になりますが、
道の一番高い所(乗り越し部)に行くには、街道に不適切な急な登り道になります。
戦後間もない航空写真を立体視すると、砦として定番の登ってきた敵兵を
攻撃しやすい構造になっています。現在の状況は、急な道で階段になっている。
この構造から考えられるのは、鎌倉城の外壁で針磨橋側には道が無かったと考えます。
③黄色いライン海側の岩壁は明治には道が有った。大正の震災で消失した。震災後にこの場所の土砂を埋め立てに使う為、車が通れる立派な道が造られ、現在に至る。
由比ガ浜から目視で一番ハッキリ見える道です。
""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
◎◎◎コメント◎◎◎
鎌倉攻め (酔石亭主)
2011-01-02 16:05:23
鎌倉攻めの謎解きはぼ輔さんのブログにインスパイアされ書いたものです。
それなしには、私が書くこともなかったでしょう。
実は、お読みいただいておわかりと思いますが、議論が生煮えの部分もかなりあります。
例えば稲村道はどこを通っていたのか?
奈良時代の稲村道と鎌倉時代でルートが異なっていたのでは、とも思います。
そうした視点も入れて追加的に書こうと思ってはいるのですが、道に関しては
ぼ輔さんの右に出る人はいないでしょうから、稲村道に関する新たな考察を
ぜひ拝見したいと思います。

■ 記 2012年09月06日  稲村崎成干潟事 15/strong>

写真は、明治20年代の霊仙崎と解説がある。大正震災で海面より1m陸が持ち上がったとされていますが、それ以前でも写真の様に干潟が出来る場所であった証拠です。鎌倉市発行「鎌倉回顧」より引用。

 稲村崎が干潟で歩けた!嘘でしょ?の巻 最終回
明治時代の歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
>「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、
>長い年月を経たので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたの
>であろうか、今は跡形もない。それ故、元弘3年5月に、新田
>義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能のこと
>ではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。
 それは、自説を通す為に文献と実際の地形を考慮する事無く、間違の積み重ねをした結論です!
稲村東の水際には、潮の侵食洞窟があり路は途絶える、侵食は数千年の単位で洞窟はつくられる。数百年程度の変化は微小と考えられる。(稲村崎成干潟事11に写真あり。)
よって、
稲村の水際には、街道に相当する道は無かったと否定できる。
稲村ガ崎を海水に浸かりながら渡渉したのではない! 潮が引いた浜を攻め込んだと古書にはある。

稲村ヶ崎の海浜公園の碑に
「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日
 新田義貞此の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて
 潮を退けんことを海神に祈れりと言うは此の処なり」
 大正六年三月建之   鎌倉町青年会 


内容から、大森金五郎氏の説を受けたものでしょう。

問題は、
文献に記された稲村路(一般人が通る街道)の存在を無視し、自説の渡渉実験をした事に決定的な間違えがある。
梅松論に書かれた「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、」
の文は、稲村路は軍勢を大量に送り込むに道が細くて困難であると私には読めます。

太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」
「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


太平記には、南は稲村崎にて沙頭路狭きにと、稲村路の存在を示し波打ち際は狭いと書かれ、その為に大量の兵を短時間に送り込めない!それが戦略的に問題である訳です。

歴史学者は「梅松論・ 海道記・、吾妻鏡」の文章を無視し、自説(根拠が無い)を証明する実験は、功名にはやる学者の古文読解力が無い結論で、研究に値しない話です。
学者の肩書きを無条件に信奉した「鎌倉町青年会」がその説を助長し現代までも信じられ否定した話は無い。

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稲村ガ崎の古道を検証 下巻

2014年11月18日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2006年12月02日 稲村ガ崎の古道を検証 6

大仏切り通しから、稲村ガ崎までの鎌倉城としての防衛線は、通れる場所が限られており、①~④迄までの番号をふりました。

先ずは、稲村ガ崎の道についての文献を調べましょう。

海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
後年の新田義貞鎌倉攻めの太平記では、「南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、浪打崖まで逆木でバリケードを作る、ぼ助訳」や梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」と述べられている。

稲村路に就いては、海道記、梅松論、太平記に共通な崖の際と波打ち際の細い道の様子が記されている。
よって、波打ち際を通らない④の極楽寺切通しや③の道は稲村路で無い事が確認でき、初期に極楽寺の切通しは無かったと考えられる。
極楽寺切通は、忍性が作ったと言われている事もこれで裏付けられますが、、、
③,④は稲村路より新しい道であるという訳です。
②の道については、古東海道の品格(坂の傾斜、規模の大きさ、直線性)は無く稲村に古代東海道は無かったとぼ助は結論を出します。
①は前回 海に古道は無いと否定した道です。

稲村の話はこれから、、、、です!


■ 記 2006年12月04日 稲村ガ崎の古道を検証 7

問題の岩壁が一段低い処は、、、写真の場所です。
ウ~ン降りれるには降りれるけど、、、一般人が通るには厳しい!
一般的では無い!  (兵が強引に降りるには可能な場所です。)
写真を撮っている処で、エ~~ アンナ処に!!!  
 何を見つけたかは、、、次回の写真を見てください!!


稲村路本命丸2の道は、崖を下り波打ち際に出るのですが、、
この道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷に有る道です。
もう少し掘り下げて考えましょう。

太平記(1374)巻10
「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで高く路険しい、
木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、
浪打崖まで逆木でバリケードを作る、沖四五町に大船を並べて横矢を射る。」ぼ助訳
新田軍が、幕府の陣を月明かりで偵察した状態が書かれているのですが、、、
極楽寺切通しは「切通まで山高く路険しき」と書かれ、古代東海道には値しない根拠です。
「南は稲村ガ崎にて、沙頭路狭きに、浪打崖まで」と稲村路に就いて書かれています。
地図を見ると、どの辺りで偵察を行ったのか、、想像つきませんか?
「稲村ガ崎の古道を検証1」を見て想像してください。
想像が付けば、、、稲村路が、決して岬の先端水際を通る道で無いことが理解できるでしょう。
丸3の道は古書に書かれて無い処を考えると、江戸時代の道かも知れません。

丸2の道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷を通る道です。
この道の北は霊仙ヶ崎で、更に北に霊山と山中に仏法寺があり、更に北は極楽寺切通し!
霊山の場所取り争いは、勝敗を分ける重要な戦いで有ったと考えられえる。
新田軍が霊山を占拠することは、極楽寺切通しを上から襲える事であり、波打ち際から
鎌倉に押し入る時に頭上の崖から襲われる危険が無い事と、稲村路を自由に通行でき
る事です。
新田軍が、大潮に乗じて干潟に大軍を送る前提には、、こんな下準備が必要で有った訳です。

由比ガ浜より見ると、一段岩壁が低く、この場所なら海に降りられるかな?
と言う理由や、明治の地図に示された道と符合するので、調べる気を起こしました。


■ 記 2006年12月07日 稲村ガ崎の古道を検証 8

エ~~ アンナ処に!!!  の写真ですが、、、
今回でも一部写っています!
判った人は「偉い!」
次回はもっと判り易い写真です。

さて、、「稲村ガ崎の古道を検証6」の写真をもう一度ジックリ見て頂きたい。
陸地を見るのもよいのですが、、
見て欲しいのは、海底の様子です。
地図と見比べれば、何処を埋め立てたのか、、想像付くでしょう。
埋め立てた堤防の際の海底にギザギザな影が見えます。
「稲村ガ崎の古道を検証5」に書いた、岬先端の海面下は砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を
繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動はできない。
っと書いた海底の岩場の浅瀬の影です。
波が荒く、潮流の早い稲村ガ崎先端では、砂は流され七里ガ浜に運ばれてしまいます。
しかし、由比ガ浜から霊仙ヶ崎辺りまでは、内海で波の浸食も少ないので岩礁は一段高かく砂の流され方も少ないでしょうから、岩と岩の隙間は砂が堆積し、干潟では歩き易かったのではなかったか?
っと想像できます。
その様な理由で、土木機材の乏しい昭和10年に容易に人力で埋め立てが出来た浅瀬と推測できます。
当然満潮で波が荒ければ「岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。」状態です。
新田義貞伝説は、②の道が稲村路と考えれば、決して大それた神がかりの話では無く、
埋め立て地の大半は干潮で干上がると考えれば、当然の話と考えられます。

埋め立てた場所は、深い海を埋め立てたものではなく、干潮では洗濯板状の岩の表面が浮き出る様な浅瀬で有ったと
する根拠は、前記の空撮写真の海底の様子から導きだされます。


■ 記 2006年12月10日 稲村ガ崎の古道を検証 9

『梅松論』より、
5月18日 新田軍の大館宗氏軍が由比ガ浜の鳥居迄侵入。大館宗氏は幕府軍に反撃され稲瀬川で討ち取られた。
大館宗氏軍残党は霊山に立て篭もる。
19、20、21日は霊山を舞台に攻防戦となった。
21日は霊山寺(仏法寺)を占拠していた鎌倉方を新田軍の三木俊連が襲撃し、更に霊山の峰を攻め登り、極楽寺切通しを攻め下る位置に就いた。
この時点で、霊山を手中に入れた新田軍は、稲村路の通行が自由になり、崖下の通行に障害が無く、
「浪打際、石高く道細くして」と書かれた波打ち際は干潮で渡渉出来る状態となり、22日に由比ガ浜に攻め込んだと考えるのです。
稲村ガ崎先端を大軍が通った訳ではなく、②の稲村路を大軍が通ったと解釈すれば不自然な事は無い。
誰が考えても、海中を水面下の岩を探りながら牛歩の様に歩く稲村ガ崎先端より、霊山を抑えて自由になったなった稲村路を使うのが合理的です。
これが文献の考証と、現状を照らし合わせた結果なのですが、、、

誰が言うでもなく、稲村ヶ崎の先端から潮が引いた海を鎌倉に攻め入ったとする新田義貞伝説ですが、
②の稲村路が極楽寺切通し造成後使われず伝承も無くなった時代に、漠然とした考えで作られた説なのでしょうね!
古代東海道は横須賀の走水から千葉へ渡った何て言うのも、、、大和武尊が通った程度の知識で、根拠なんて考えずに漠然とした考えで作られた話!
誰が言い出したのか知りませんが、、、アカデミックな話からすれば論外!!

さて、写真を見て道を探せたでしょうか?
稲村路より「険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる」と書かれた波打ち際に崖を降りる道跡が有ったのです!
写真の崖を一直線にヨギル道をお判りでしょうか?
同じ写真にマークを付けて次回は載せます。



■ 記 2006年12月14日 稲村ガ崎の古道を検証 10

  稲村ガ崎伝説の謎の巻 終り
写真の薄紫のマークをした場所が道路痕跡で②~③の場所に相当します。
地図の番号①の場所は、
太平記に記された、、「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで
高く路険しい、木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭
く、」
と新田軍が偵察した場所にフサワシイ処と私は想定しています。
番号②の場所は、写真に写っている崖の一番上と思われる処。
番号③の場所は、写真の右の端です。
番号③~④の場所は、「浪打際、石高く道細くして」と言う波打ち際です。

この②~③の場所は、
現地に立ち入る事が無理で、遠くから観察すると崩壊があり、人が歩ける状態では
なく痕跡だけとなっている。
明治15年の地図にも載らないだけの事はあり、、、
鎌倉以降使われなかったと考えられるし、関東大震災でも崩壊が有ったと思います。

さて、、問題は、、、①~②の場所を、私が歩いてい無いのです。
今、何方かが歩いてレポートを出すと、、、第一発見者です。
道が見つからない!なんて言うリスクもあります。
金に成らない名誉ですが、如何ですか?
何方か行かれたら報告してください。
きっと、伐採鎌でも持っていかないと通れない状態かも?っと想像しています。

写真を写した場所は、一部鎌倉市営プールが写っていますが霊仙ヶ崎埋め立ての記念碑
が在るルート134の脇です。使われる機会の少ない市有地ゲートの脇で短時間の駐車で
観察するには問題無い場所です。

稲村ガ崎の古道を検証 は以上です。

これはすごい (@塾長)
2007-02-19 23:09:51
全く、予想だにしていませんでした。
桟道は海岸の岩場かと思っていました。
下に積もった土砂を見る限り、相当崩れていますね。
噂では、関東大震災で崩れたと聞いています。

Re:これはすごい (ぼ助)
2007-02-20 09:53:18
関東大震災でこの辺りが大きく崩れた様ですが、
それでも痕跡が残る処が岩場の道と言うことですね!
私としても予想外の物を見ました。
人が通れる幅は有りません。
登山技術があっても、崩れやすい砂岩です。
鷹取山の砂岩の岩場で何人も事故を起こし岩登り禁止になったのと同じ岩の質です。
無茶はしないで下さい。

了解 (@塾長)
2007-02-20 22:25:36
私の体重と運動神経では、どうにもならない。


■ 記 2014-11-15 「海沿いに古東海道」が在った?? ダメ押し編 

この写真は、文献に残る稲村路と考えれれる道路痕跡です。
上の写真は、2007年頃で下は2014年です。
2007年には簡単に道路遺構まで行けたのですが、、2014年は下草が腹まで生い茂り蔓が横に這った状態で道路遺構に近付けない!行けても遺構が草の中状態で写真も撮れない状態と思います。
冬枯れ後に消える物か??
温暖化の影響に依る植生の変化を感じるのですが、、、
関東大震災以後露出していた岩肌が数年で草木に隠され始めた。

■ 記 2007-11-05
古代東海道は、路面9m付属施設(側溝,土手等)を加えれば10~15mの幅を持つ遺構です。
1994年04月 静岡の曲金北遺跡発掘。2004年平塚東中原遺構が発掘され、特徴は 巨大な規模の遺構(50年前の東京オリンピック前では、国道1号より広かった)です。

文献から、、
日本書紀(613)に「難波より京にへ大道造る」の記事がある。
大化の改新(645)で駅制が制定され
養老二年(718)の養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」三十里は約16㎞に相当する。
諸道とは、駅路を指し東海道は中路規格(道幅約9m)です。(

問題はそれ以前の時代に作られた可能性は???
 その例として、、、
中央集権国家が出来上がる途上時代に「日本武尊」の話がある。
当時の道路状況は地方の豪族の間をジグザクに尋ね歩く「東征路」のお話となり「日本武尊」の時代に古代東海道は無かったという根拠には使えます。
奈良時代には広かった道幅は、平安時代に狭く改造された痕跡が道路遺構にある。以降の時代に巨大道路を造った形跡は戦前まで無いく、戦後名古屋日本本土空襲によって被災した日本各都市の復興計画で100m道路が作られたが、緑地帯と防火帯を兼ねたものでした。
この事から巨大道路を造った時代を奈良時代と特定できるのです。
これが、ぼ輔の考えです。

このブログは、単なる知識の披露ではなく、大人の遊ぶ話です。
初めから、
常識や権威のウサンクササは無視して、、、、
モノの見方や考え方、想像力の自由さがテーマです。

 話が思わず脇道に、、 話を本筋に戻して、

 鎌倉七口は、江戸時代に作られた言葉で、その他にも道の痕跡は色々在り、稲村路や峰の兵員移動の道を 古代東海道の痕跡と誤解して公的な講座で語られたのかもしれません。

鎌倉の山は、鎌倉幕府の手で戦闘用に徹底的した改造をされ、古代東海道ですら、このブログに取り上げた状態で改造された。
古代からの山道は鎌倉幕府の山地域要塞化で痕跡も残らないと考えています。
そんな訳で、
鎌倉幕府滅亡後の峰通しの道で、七口番外の道を古代東海道に仕立てた!
  っと ぼ輔は想像するのです。

『神奈川の古代道』が著述されたのは、「1997/平成9」
この本の書かれる前に、、、、
既に、古代東海道の遺構が発見され 静岡の曲金北遺跡発掘は1994年04月。
古い文献にもその規模が書かれていたのですが、、
『神奈川の古代道』には文献とそれを証明する遺構の規模に基付く道路の記述は抜けており、著作者の自説が記されている。
その後、、、、、
 平塚東中原遺構は2004年に発掘されています。
その道路の直線の先には、16km先(養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」)に鎌倉が在るのです。
山間部を越える時には、必ず切通す遺構が残るはず。
この遺構は大きい為に、簡単には消え去ることは無い。

簡単には消え無い遺構は隠された訳です。隠した痕跡を探し出そう!!
それが、本来の目的です。


「大和武尊説」を根拠に古代東海道を語るなら、、、、
曖昧な話で、根拠や遺構も示されて居ませんから、反論不可の現状です。
道路遺構を示した上で古代東海道が語られるべきと考えます。
現状の道路遺構も不明な「大和武尊説」を見直す時期と思っていますが、、、

この様に ぼ輔は認識しています。

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稲村ガ崎の古道を検証 上巻

2014年11月18日 | 稲村ヶ崎伝説

■記2006/11/02  稲村ガ崎の古道を検証1

明治の地図から話が始まります。
この稲村ガ崎の地図から、古道のルートを探す訳です。

> 古東海道 (杉きち)2006-10-13
> 毘さん、初めまして
> 古東海道は西は「稲村ヶ崎」から鎌倉に入ったと考えられております。
> 鎌倉時代になり「稲村ヶ崎」が天災等で通行不便になりして。
> 当然、西への通路(船の利用も含めて)が必要で有ったと考えられます。

鎌倉市の公式見解(生涯教育講座等)は、稲村ヶ崎=古東海道説を採っているようです。
その根拠は?っと調べても、、、、、特に書かれていないのが普通です。

要は、根拠もなくその様に言われている訳です。
仕方なく、ぼ助がその根拠を作ってみましょう。
文献的には、、、
「大和武尊の東夷征伐」
「海道記」
「梅松論」
「唐糸草子」
「義経の腰越状」
この様なモノが有り、それを根拠に古代東海道説が作られた、、、
などと推測するのですが、
現地の状況を調べたり、掘り出したと研究書もない事から、学術的には文献の根拠だけでしょう?と勝手にぼ助は考えます。
その古文献の根拠も、解釈を歪曲したり、文章を理解して無い、古文を信用してないとか、、、そんな研究態度なら文献の根拠も無い。
これらの文献も検証する必要が有りそうですね!

茶色で示した場所が極楽寺切通しです。
それ以外に道と考えられるのは、、、
七里ガ浜から来ると、道は、二手に分かれます。(赤くマークした場所)

ひとつは、波打ち際の岩場に、、、
もうひとつは、坂下と呼ばれる場所へ、岩壁伝いに降ります。

その他には、稲村ガ崎先端を波打ち際を岩伝いに行く可能性も在ります。
新田義貞伝説ですね!
これを、検証する訳です。

地図を見て、貴方はどの様に推測するでしょうか?
古代東海道はこの際脇に置いて、新田義貞伝説の従来説をひっくり返す話です。


■記2006/11/05  稲村ガ崎の古道を検証2

写真は、江ノ島方面より稲村ガ崎を見たモノ.

> 「毘」さんのコメント(2006-10)
> 前略、、、、、
>  いわゆる七口(他にもあると思いますが)は、大仏や名越のような系統と、
> 化粧坂・朝比奈の系統、大きく二つに分かれると考えてよいのでしょうか。

二系統に分けて考えると、、、
一つは、鎌倉幕府以前の平安、奈良時代。
もう一つは、鎌倉幕府成立後の鎌倉城の城門としての切通しです。

平安、奈良時代は、統一国家で敵は海外の時代。
国内の敵は、東北の弱小部族です。守る必要も無く、紛争地に大量の兵を送り込めば戦いもなく逃げ出す。
道を広く作り、途中の側面からの奇襲を警戒をする必要も無い絶対優位の武力が有ったと考えています。

平安時代に朝廷内部で政治抗争が始まった。
朝廷内は、源氏と平家を引き込み武力闘争に変わったのです。
政治力で国を治めた時代は終わり、武力で国を治める時代になったのです。
「治承・寿永の乱」で、源氏は都を攻めた事で、平城京の防御の無さを実感したと考えられます。
絶対に弱い地方の蛮族とは違い、、自分たちと同等の力の敵が朝廷内に居り、
敵は自分の身内かもしれない!
その様な状況で、自分の命と政治力と都を守る為に城を作る事になった。
京の無防備な都とは違い、外部より攻められても守れる都として鎌倉を選んだ。そう考えるのです。



■記2006/11/10  稲村ガ崎の古道を検証3

京とは違い、守りに適した都を!
三方を山に囲まれ、もう一方は海と言う要塞に適した土地が鎌倉であった。
しかし、この土地には、奈良、平安時代に造られた古代東海道が有り、東山道までが入り込んでいた!
この道は、単なる道ではなく、大和朝廷に物資を運ぶ巨大な道で有った。
鎌倉城と言う要塞に決定的な障害となる無防備な古代道で有った訳です.
その様な経緯で、道に対する考えを根底から変える必要が有ったと私は考える。
その転換点が、鎌倉幕府成立時点です。
現在、鎌倉で古代道が有るとすれば、それは鎌倉幕府が古代道を消滅させた痕跡と考えています

古代東海道とは、奈良時代に朝廷の力で造られた駅路を指します。
大和武尊が通った道とは全くの別物で、平塚で検出した幅9mの道路遺構の延長を指します。
その道は消滅させても、、、巨大な道だけに痕跡は残る!!
残るとすれば、、、どの様な痕跡で残るか???
それをこのブログが問題にしている訳です。

図は現在の稲村ヶ崎ですが、明治の地図とは海岸線が雲泥の差です。
何が起きたか? 天変地異が有ったのでしょうか?
明治の地図は、地図屋さんが全国的な地図を創作した時期です。
基本的には山歩きのプロで、、海から詳しく調べる余裕が無かったのでしょう。


■記2006/11/14  稲村ガ崎の古道を検証4

稲村ガ崎先端の水際を通る道を検証しましょう。
稲村ガ崎の古道を検証3の図を見て鎌倉時代との違いを想像して欲しいのです。
鎌倉時代と現在の海水面の差は、どの程度の違いがあるのでしょうか?
その考察から始めたいと思います。
結論から言えば、大きな違いは無いと考えます。

源頼朝の死因は、相模川に架けた橋の披露に参列した頼朝が帰途に鶴嶺八幡宮近くで落馬し、翌年に命を落としたという話をご存知でしょうか?
この橋には、後日談があります。

 大正12年(1923)関東大震災で水田地帯に突如、9本の大木が飛び出した。調べると大木は、建久九年の鎌倉時代に相模川に架けた橋脚であると判明した。
現在でも、史跡として河口から1km程茅ヶ崎よりに保存されています。

私の知識では関東大震災で、江ノ島は水面が1m下がった!
と言うことは、江ノ島が海面から1m浮き上がったと言うことです。
同様に、茅ヶ崎の河口でも1m浮き上がり、鎌倉時代の橋脚が浮き上がった訳です。
同様な事は、稲村ガ崎の水際でも起きた。
800年前の水際より1m浮き上がったのが、現在の水際と考えます。
それだけではなく、岩場の波による侵食具合からも、考察できますが、、、、

以後は、稲村ヶ崎の水面は現在より1m高い場所と言う前提で話をします。


■記2006/11/18  稲村ガ崎の古道を検証5

稲村ガ崎の古道を検証3の明治の地図、この地図の水際の処理は見るに耐えない雑なものですね!
何と言おうと、、、陸軍が短期間に作った地図ですから海辺は雑だったのでしょう。
稲村ガ崎の古道を検証4と今回の写真を比べてください。
正確に地図が描かれているでしょ?
地図の岩場の赤い処は、平場が有り、歩き易い処です。
海岸線の黒いラインは岩場、茶色いラインは砂地です。

結論として、
岬の先端は、海岸線は見ての通りで一般人が気楽に通れる状態ではない。
通行するには天候に左右され波が荒い時は通行不可です。
地元の人が食料の糧を得るため海に下りる道としては可能であろうが、、、
その様な理由で街道としては不向き。
よって、
古代東海道が通る可能性は無く、鎌倉街道としても不合格!

新田義貞が、大潮を利用して大軍が岬先端から、鎌倉に攻め込むのも無理が有ると思います。
私としては、稲村の大潮を何度となく経験しています。物理的に渡渉出来る事は知っていますが、、、
岬先端の海面下は、砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動できる状態ではない。
同じ状況に、三浦の荒崎海岸があり、水が無くても洗濯板状の岩場の歩きにくさを実感して欲しい。戦争の作戦には無理。
迅速に行動できないと言うことは、幕府軍が渡り初めを察知したら、由比ガ浜で十分迎撃態勢整えられ、作戦は成功しない。
もし、干潟の岩場を数百人規模で通ったと考えれば、迅速に行動できます。

では、、
鎌倉街道として利用された稲村ガ崎の道は?
明治の地図に赤いマークをされた道が、鎌倉街道の道と考えるのですが、二又に分かれていますね、、、


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