鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

御柱

2010年04月05日 | Weblog
長野県茅野市の7年に一度の御柱祭を見てきました。
長さ16m、重量10t超の大木を運搬する祭りです。
山から神社の柱にするために十数キロを人力で運びだ出す。
途中の難所は、
90度に曲がった道を通り抜けたり、急坂を滑り降ろしたり、川を越えたりする。
問題は、
これが東山道の際で行われている祭りでです。
祭りは諏訪神社の祭りで、古い文献は平安初期の記載があり、奈良の巨大木造建築の木材運搬の名残とも想像するのですが、、、あくまでも ぼ輔一人の推測です。

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空中写真を「立体視」の応用

2009年02月27日 | Weblog
国土地理院で説明されている立体視は、カラーの2万5千分1の地図情報ですが、、、
この立体視を利用して空中写真を見よう!! っと言う趣向です。

国土地理院のホームページから国土変遷アーカイブに入ると、、、
現在公開しているのは以下の空中写真です。
1946年1月~1957年12月撮影:約134,000枚
1961年1月~1974年12月撮影:約153,000枚
1975年1月~1978年12月撮影:約23,000枚
1992年1月~2001年12月撮影:約36,000枚
2003年1月~2006年12月撮影:約31,000枚
 この様に沢山の写真がある!

この空中写真は、地図を作る為に、撮られたと考えていますが、
連番で撮られた地図は重複しており、重複した写真は、立体視できる訳です。
この立体視と、空中写真が古道探しにとても重要な資料になるのですが、、、、
そう、、、過去に戻れるのです。
1946年は戦後間もない列島改造以前の状態です。  それも、、、立体的に!

現地を探し回るのも面白いが「木を森を見ず!」の状態を引き起こす!事前に全体を見る視点が必要です。
立体視ができない人は、コメントしてください。

写真は、国土地理院の国土変遷アーカイブ「御殿場 C10-1」「御殿場 C10-2」です。
箱根峠から三島に向け作られた、、現地で「推定平安鎌倉古道」と呼ばれる道を赤いマークをしました。
この赤マークの他に、幾つか道の痕跡と思われるラインが見出せます。
古代街道の痕跡が、空中写真で度の様に見えるのか???
写真は左右同じ写真で、左は小さいディスプレイ用、右は大きいディスプレイ用です。
白赤の点が自分の左右の瞳孔より狭くしないと見るに困難です。(5cm以下)
不可能ならば、画像閲覧ソフトで縮小して見てください。

   西坂の痕跡状況を参考に「箱根の東坂を探そう!!!」
湯坂道?  古くても平安時代と思えます、、奈良時代に作られた古代東海道の話です。
足柄路が富士山の噴火で使えず、一時的に箱根に作られた東海道の痕跡探しです。
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空中写真を「立体視」

2008年07月15日 | Weblog
国土地理院の「地図の立体視サービスを開始」
http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2005/0727.htm
に詳細が書かれていますが、

取り合えず、
この
ABCDの書かれた、図をご覧下さい。
焦点を合わせやすいように星印を付けました。
星の間隔は3種類有りますが、一番あわせやすい星を使ってください。
この立体視で、空中写真を立体視すると、思わぬ情報が含まれている事に気付くでしょう。
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空中写真

2008年06月29日 | Weblog
趣味に金を掛ける事を惜しむぼ輔ですが、
要求するのは最先端の質の良い方法!
ただ漫然と航空写真を見ていても意味はありません!
国土地理院の空中写真と言うのが有りますが、、、
取り合えずは、その写真の精度と緻密さを堪能してください。
もっとも、Googleアースなんていう手もあります。
しかし、Googleアースには限界がある。

更に
その上を考えるのです。
この写真は、国土地理院の空中写真とは違いますが、日本のカラー写真の発明者、福原政男氏の写真とその撮影した江ノ島です。昭和2年頃。
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玉縄城

2006年10月06日 | Weblog
1960年の頃、玉縄城を興味を持って見た人も少ないと思います。
前記の玉縄城の写真はそんな開発以前です。
中学生の時未開発の城を探し出し、その後高校の文化祭の考古学クラブで、玉縄城の詳細な紹介をされているのを見て、自分の見たモノが何かを確認しました。
城の出入り口は一つで、七曲と称する道を通り城に入る。
七曲の一段上の道から侵入者に矢を射掛ける構造も残っていた。
今有る本を散見しても、高校生の研究発表以上に書いてある成書は見た事がありません。
そんな高校生の研究成果など、見向きもされずに処分されたと思います。
 田中内閣の列島改造頃より、、、開発は始まり、
史跡玉縄城は地図を調べると総て開発されています。
この時期の写真は、他に数点が鎌倉市の玉縄図書館にあります。

鎌倉を世界遺産に登録しよう!
そんな話の中でも、朝比奈切通しは、四輪駆動車の轍の餌食です。
化粧坂も観光破壊が進みワズカ40年で、バイクも登れない荒れようです。
本気で史跡を守る市政の姿勢は???
ドチラニしても、、反対運動を起こす気持ちも無い私としては、、、
心がある人に面白がって探す楽しさを判って頂きたい。
何かの権威にスガッタリ、信用したりせず、自分の目で判断し、自分の考えで探す楽しさです。

そんな、自由な考え方で遊びませんか?
専門家も十分な資料がなく、考え方もアマチュアとプロの境がアイマイナ時期。
貴方の住む周囲でスペシャリストになれると思いませんか?
それが、、、古道探しです。
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「毘」スクラッパーさんへ

2006年09月04日 | Weblog
「毘」スクラッパーさんへ

書き込みをありがとうございます。
鎌倉は、私にとって魅力の宝庫です。
海を見ながらファミリーレストランでお茶を飲むなんて、、普通のファミレスでは味わえません!
町の小さな喫茶店も魅力です。
問題は、街中を歩き回るのに駐車場が無いに等しい。観光値段の駐車場は有りますがね。
山は、緑の中のハイキングコースを歩けますし、歴史なんて知らなくても見所は幾らもあります。
仕事場として、何年も入り浸り、未だに見切れた思いがしません。

> その中で「日本古代道路を探す」(中村太一氏、平凡社新書)を読み、
   この本も買いました。
   全体的に古代道の概要を知るには良い本です。
   でも、学問として創成期です。事実を基に書かれた処と憶測で書かれた処を
   区別する必要があります。

> 「旧鎌倉街道探索の旅=中道編」(芳賀善次郎氏、さきたま双書)も読みました。
   この著者は亡くなられましたか、、、
   当時は列島改造以前で、とても良い条件で調べる事が出来たと思います。
   何も無い状態から系統だててココまで調べた事に頭が下がります。
   当時これ以上の良い本は私も知りません。

私もこの本に影響され過ぎた処が有りましたが、、、
ある時に、鎌倉街道は、これだけでは無い!
もっと鎌倉街道らしい他の路がある!!  っと気がつきました。
芳賀善次郎氏の書かれた路よりもっと鎌倉街道らしい直線で、山の峰を行く
街道が有る事を、、、、
それも、幾つもある事を知ったのです。
しかし、、、それを証明する手段が無い!!

> なぜ中道編かと申しますと、練馬区に引っかかっている可能性が

   私も、単に鎌倉の近くで生まれ育った!とか、、
   今住んでいる所の近くに鎌倉街道と思われる路の痕跡があり、
   芳賀善次郎氏の地図を参考に何日も掛けて鎌倉まで歩いたことがあります。
   こうなると、コンピュータゲームより面白い!! 
   リアルタイムの路探しというゲームに成ります。

結局、芳賀善次郎氏の書かれた街道は、間違えと言うことではなく、数ある鎌倉街道の中の一部であると、私は認識しています。

> 隣の板橋区には東京大仏で有名な赤塚城跡があり、一説にはこの脇道が
 鎌倉街道の一つで、私の好きな上杉謙信(武田も好きです。笑)

   一時期、山城(石垣作りでない)に凝りまして、小田原から、三増峠、
   城山(相模川脇)から甲斐までの
   信玄道と狼煙台(これも砦として)を調べまくった時期もあります。
   古代路と、山城の関係は密な処があります。

> 古代道路にも地方道があるわけで、鎌倉街道との関係性があるはずです。
   私もそう思っています。
   考えさせられるコメントを頂き、返事が遅れました!
   面白く見させて貰いました。

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御柱

2006年07月18日 | Weblog
長野県茅野に行ってきました。
古代東海道に対する、東山道の有る場所ですね。
義理の息子に会いに行ったのですが、田んぼの向こうに見える道は御柱の通り道!
7年に一回のお祭りです。
山から下ろした大木を諏訪神社まで持って行く。
巨大な丸太をどの様に運ぶか!
何の事は無い、、、綱を付けて引きずり回すのです!
何やら、、、奈良の大仏殿を支える柱の出所は、、、こんな所かも?
などと思い巡らして居ます。
長い道中で、都まで引きずったら柱は磨り減るでしょうから、途中は修羅に乗せるでしょうが、、、
そんな時に、直線の道と、硬い路面の道が必要で有ったのかも、、、
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初めての方へ、 古代駅路の特徴

2006年05月13日 | Weblog

にほんんお

 

日本の古代駅路や官路に対する研究が始まってから日が浅く、実体の道路遺構発見は1980年代であり、、古代路を語る文献が少ない。
文献が少ない為に、古代道に対し学識者の憶測が先行する研究が多く在るのが現状です。 知られている処は部分的な為、全体を語る時は、憶測の部分が入り込む不完全な研究と成ります。その様な発展途上の学問です。

  古代駅路の特徴は古代東海道の場合、、、
①★路面幅9m、(中路の幅)
②★両側に側溝があり、(側溝まで含めれば、11~15m幅のある道になります。)
③★路面は、硬く舗装をしてあり耐久性もあります。
④★計画道路の特徴として、目的地に向かい出来る限り直線で作られている。
⑤★この道は、山に入ると切通した道となる。

以上の5点は、今でこそ一般道で在りますが、50年前は日本で一番大きな巨大な街道だったのです。
この巨大さに何の意味があるのか? 防衛の軍事目的?物を運ぶ為?
   朝廷の力を誇示する為、、裏は「租税の取立て」っと考えるのです、、、
結果は不必要な巨大さ! 維持管理が出来ず使われなくなった。
5点を頼りに道を探すと、、巨大な特徴は古代道を特定する根拠になる。

路面舗装に関しては、踏み固められた訳ではなく、石のように硬く舗装してあった。
その舗装は、鎌倉では源氏山で見られます。
会津若松と日光を繋ぐ会津西街道にある大内宿もこの舗装で両側に排水路を備える。
驚く事に、アスファルトより、、、寿命が長い様です。
鎌倉散歩のお供に、、、チョッとした知識を如何ですか?
車は、止める場所が少なく、自転車やバイクが最適な鎌倉ですが、「案内書に書いてない」そんな鎌倉です。

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