鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 7

2020年10月06日 | 大鎌倉城
緑のラインは鎌倉の大手道で、中道として鶴ヶ峰に向かう鎌倉街道です。
水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。
この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。
この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。
この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、水堰橋から登る道だけの様です。
それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。
水堰橋(せいしくばし)の伝承ですが、
鎌倉城に出入りする際、この場所で隊列を整えた!
と言う話です。
この話が緑のラインの道が大手道であろうと考える根拠です。
更に、何故この場所で出入りの際 隊列を整えたのか?
その必然性に迫る伝承は無い。
 
結論から言えば、明治の初期には平地で在った地形は、鎌倉時代からの平地と考えられる。
更に、北鎌倉女子学園の校舎とグラウンドの間は、新田義貞との攻防で大手道は土砂で封鎖された筈で、
馬の出入りは出来ません。
その時に 騎馬は、封鎖の外に置かれた筈で、長窪の砦も同様な考えで作られていたわけです。
騎馬は、外部に出やすい場所だが、外部から攻撃できない場所に確保するのが前提です。
いざ鎌倉の時は、関東周辺の騎馬が集まり 数万の騎馬を確保する場所としてこの曲輪が馬繋場であったと考える訳です。
近代的な城として足軽が鉄砲を使い、馬が主力で無い城には、不要な曲輪です。
この時代は、騎馬が主力で数万の騎馬を 鎌倉の狭い市街には確保できる場所は無い。
鎌倉の市街に騎馬を置いたら、攻撃には使えなくなる。
鎌倉城の封鎖外には、その様な騎馬を確保する馬繋場が多数あったと考えて居ます。
 
元寇時には日本中の騎馬武者が集まる事が前提の鎌倉城です。
集まる騎馬数は、
太平記の鎌倉攻めでは、新田軍60万騎+鎌倉幕府軍15万騎 これは誇張が過ぎます。
話半分で30万騎+8万騎
実質は、更にその半分で、15万騎+4万騎程度で戦ったのではないかと臆測します、、、
それでも、日本の武士の合計は19万騎です。
後年の関ケ原の戦いでは
西軍は80,000以上   東軍は74,000 - 104,000 っと考えられており、この数字程度の規模と思います。
蒙古襲来で鎌倉に攻め込まれたら、、全国の騎馬武者19万騎の馬繋場が必要です。
この広い台村の曲輪は、騎馬の戦いで使われた馬繋場の一部で有ったと考え、
馬を係留する前に、小川で水を飲ませたり、馬を降りて鎌倉市内に入る準備をしたり、、、
逆に、出陣の時に馬に乗るまでの支度をして、水堰橋に降りて隊列を作る。
これが水堰橋伝説の私の回答です。
 
馬繋場の特徴は、
鎌倉を封鎖した外側で、広い曲輪だが、攻撃を避けられる場所。
尚且つ自由に出入りできる場所!
そんな矛盾に答える場所です。
 
 
 
 
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台峰の砦 6

2020年10月03日 | 大鎌倉城
明治の迅速図(明治16年程)で、未だ横須賀線は敷設されない時代。


同じ地図のモノトーンです。  問題は紫色に囲った部分で、台村(旧字体)に注目!
同様に右上の紫は、、長窪の砦です。 共通するのは、異常に広い平坦地です。
現状は、魅力に欠ける造成された様な平坦な住宅地を如何に面白く見せるか!

明治15年の地図ですから、江戸時代からの平坦地と考えられる。
この場所は、鎌倉街道が通過する場所です。
そして、台村に上がる手前には  「水堰橋」と言う曰くある場所と成ります。
吾妻鏡(奥州攻め )には「二品者大手自中路」 とあり、この緑ラインの道が鎌倉城の大手道と考えられます。
    次回は、この状況を踏まえた台村と言われた平坦地の話です。

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台峰の砦 5

2020年10月01日 | 大鎌倉城
緑のラインは 水堰橋より台峰を通り、葛原ヶ岡から化粧坂に向かう鎌倉城の大手道です。
この大手道はどの様に守られて居たのか?
「新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡」に この台峰の曲輪を示してあります。(国土地理院の地図を再掲載)

黄色で示したのが、平場(曲輪)の有る場所です。
総ての曲輪は、峰通しの兵員輸送の道で繋がっている訳です。
これが、鎌倉の山は自然の要害の地ではなく、人工的に切岸を作り、曲輪を作り、有機的に峰の道を使って兵員を補強できる機構が出来て居た訳です。

基本は、垂直に近い切岸ですが、切岸の間にこの場所を攻めて下さいと言う曲輪が在ります。
更に谷の奥にはやはり曲輪が在ります。
在る時は 枡形の虎口の様な曲輪であり、雛壇の様に切岸を攻めるより数段攻め込みやすい構造で在ったり!
攻め手を誘惑して入り込ませる構造です。
どの様な関連性を持って曲輪が造られているのか?
それらの曲輪は、峰の道を通って、総ての曲輪は意図的に繋がっています。
敵が一か所を集中的に攻めれば、峰の道を使い、援軍を補強出来る訳です。
明治時代に、塞がった七口を回避して、峰の兵員配置の道を生活道路に使い鎌倉外に出入りした訳で、
この峰の道を「鎌倉街道だ!」等と書かれた記述も在ります。
総て間違った記述は、鎌倉の山の全体像を把握できなかった事から生じた間違えと考えます。
この記述でも、更に詳細が発覚すれば訂正する箇所が出て来るでしょうが、、、、(-_-;)


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台峰の砦4

2020年09月26日 | 大鎌倉城
城門を「こぐち」と言い、城を攻める敵を少数入れて殺し、守備力の範囲を越さない様にした為です。
広い曲輪に入り込んだ敵を三方から攻撃する構造(桝形)を造り、小口で人数制限をした訳です。

「小口」の字を変えれば「虎口」となる訳です。
例えば、
江戸城の田安門ですが、武道館の出入りに使う門に成り、枡形虎口になっています。
グーグルの地図より引用した田安門の写真で、図下に日本武道館の一部が見えます。


攻撃の侵入者は堀を越えて真正面の門から曲輪に入る。


正面の門から曲輪を見ると二方は石垣で、もう一方は田安門となり、三方は塞がれている。
石垣や門から鉄砲や弓を射られる事に成る。
守備が殺すのが早いか? 攻撃する侵入者が多いか??
そんな攻防となる。
その様な砦構造は、既に鎌倉城考えられ、遺構として現存する訳です。

倉久保谷戸や台峰を単なる緑化公園として整備するのは、、
武士の都「鎌倉」を企画し挫折した不手際と、、 
根本的に鎌倉の歴史を調査しない情報不足と考えています。
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台峰の砦3

2020年09月26日 | 大鎌倉城
真中の縦が倉久保谷戸で右の細い緑のラインが堰水橋から化粧坂に行く大手道。
写真の上は、西北西です。
 
 
北鎌倉女子グラウンドの本来の砦遺構です。
 よじ登った攻め手は広い曲輪に出ます。攻め手が寄り集まった処で 三方から弓矢で狙い撃ち出来る 馬蹄形の守りです。
 
更にその東に在る砦遺構は雛壇上状態です。
 
 
更に東の水道局と隣接した場所です。馬蹄形の守りをしています。
三方山で守りやすい土地と言う考えの逆で、
一方向から土塁をよじ登り曲輪に入ると、、、、三方の高見から囲まれる形で攻められる訳です。
土塁を登る事で人数制限をし、守る方は有利です。
何故広場に成っているのか?
攻める方は、仲間が無ければ攻め込みたくないでしょう!
沢山集まれば勝機も在るかもしれない!  っと言う「トラップです。」
城の虎口 特に「枡形虎口 」等の広場を設けて、侵入する敵を三方から攻撃する!
その原型は、この鎌倉城にて考えられた訳です。
言い出したのは私でも、
地形を見れば、誰でも想像が付く砦構造です。
「鎌倉城なぞ無い!」と講義されても、誰も反論をせず納得した事に問題が有る。
 
この遺構は鎌倉城のあらゆる処に在ったはずですが、、
長窪の切通に在る隠れた場所に対し、、現大船高校の場所に此れを攻めろとばかりに目立った砦を作ったのも、
この馬蹄型の砦と言う訳です。江戸時代の石垣の城にこの考えは引き継がれ、、、
枡形の虎口がこの考えで作られた訳です。
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台峰の砦2

2020年09月24日 | 大鎌倉城
倉久保谷戸に入り、北側を見れば、その場所は台峰の砦です。
ですから、台峰を観察しましょう! っとは成らない。
樹木が繁茂し、台峰のオリジナルな砦は緑のベールに隠されている。
悲しいかな、、
行政が緑地指定をしてる鎌倉の山中は、樹木が育ちすぎて根に依る岩の破壊が始まりだした。
50年前、源氏山に登ると海が見えたのです。今の眺望は緑のベールで隠された。
セッカク登った源氏山の本来あるべき  山に囲まれた鎌倉市街と開けた海の眺望が見えない
山に登る人間の期待するのは、、、その眺望です。
特に観光客の期待は裏切られ地元民もそんなモノは期待は無い。
 
鎌倉の基本は、里山であり、古代より樹木は薪として使われ1000年の間山の地肌が隠れる様な事は無かった。
自然保護を謳っているが繁茂した樹木で、昔から在った景観は消滅し、樹木の根は切岸を含めた岩壁は亀裂が進行し、北鎌倉駅脇のトンネルの例では、無残な状態で鎌倉駅のホームから見える。
大仏切通は倒木と伴に破壊、2019の台風で朝比奈切通は倒木に埋まり、当然倒木と伴に根が岩を破壊する。海臧寺裏の堀切も倒木が破壊。
鎌倉山中は至る処で倒木の為の通行止めとなった。
自然保護の名の樹木放置は、里山の人手で樹木を管理する事とは真逆な自然破壊です。
宅地造成は過剰な破壊をしますが、、
管理しない樹木の景観破壊、岩壁破壊を引き起こす。
 
話は 倉久保谷戸と台峰の砦の話です。
緑のラインは、鎌倉の大手道と考えられる道ですが、、
堰水橋より登って化粧坂へ通じる鎌倉城へ入ると言われている道です。
ある時は武蔵大路では?
在る時は古代東海道では? 何を言おうとも文献が希少ですから、、 反論のしようがない。
現物を調査して考えるべきですが、、 調査もせずに発表すればそれは、憶測で研究を汚した話となる。
そんな訳で新田義貞がこの峰を攻める事は「化粧坂を攻める!」と同じ事となります。
赤丸で囲った場所が、攻める敵を迎え撃つ砦遺構と成ります。
鎌倉には城が無い! っと公演した方々は、この砦遺構は知らず、鎌倉の城構造を解析した方も無い様です。
当然この話も、遺構だけが頼りの作り話で、、、私の創作話です。 
   次回は立体視に成ります。
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鎌倉城の範囲 10

2020年09月18日 | 大鎌倉城
 「世界最大の城」のキーワードでgoogleの検索をすると、
1.マルボルク城 (ポーランド) 143591㎡ 【長さ1.5㎞程度】
2.メヘラーンガル城塞 (インド) 81227㎡
3.プラハ城 (チェコ) 66761㎡
4.ウィンザー城 (イギリス) 54835㎡

  これは、ヨーロッパの城ばかりですね! 情報に偏りが有り過ぎ!
ネットの情報を単純に信用する訳にはいかない。

上記の話なら、、日本の城の方が大きい。
姫路城は、東西1.5㎞南北1.9㎞ です。
更に大きいのは、
江戸城は、水道橋から隅田川まで5.5km 水道橋より浜松町迄5.5km
その江戸城を上回るのが鎌倉城と言う訳です。

中国で言えば、桁違いでして
南京城は内城の面積は55㎢、外郭は248㎢です。(1368年元王朝が滅び、明王朝が建国した )
北京城は60㎢で、南京城の1/4となる。 約山手線の内側と同じなのが、北京城です。

鎌倉時代(鎌倉終焉1333)時点の話をすれば、、当時の鎌倉城の大きさは世界一と考える訳です。

城の立て籠もる建築の大きさに限定するのか? 防衛ラインの城壁を考えて城なのか?
戦う為の要塞としての城なのか?
その様な区分けが単純に出来る訳でも無いのですが、、
中国的に言えば、城主が住む場所=城で、市民が住む場所と城を囲む壁を郭と言う。
結果は、城郭と言うのですが、、
鎌倉城でも切岸だけが城では無く、山の谷あいに平地を作り、武人の屋敷にした様子ですが、
これは、峰を守る兵士の兵糧や、日常生活のケアをする基地にもなっていたと考えるのです。
その詳細は、以後の課題でしょうが、、、
私としては、手出しする気の無い話です。
そんな事より、
城の戦う為のトリップとして、大手門の構造の原型がこの台峰に残る訳ですがその解説が課題です。
  台峰の砦2 を考え中です。 


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鎌倉城の範囲  コメントより 2

2020年08月03日 | 大鎌倉城
 (うにゅー)サン
> 一方で同じNHKの「日本の城(最強の城?)」では、昇太師匠だったか
> 千田先生だったかが、地質による城の形態の違い(関東ローム層とシラ
> ス台地の違い)の様なことを語られていました。

  鎌倉の場合は、通常の土の山とは違い、岩山ですから、掘れば崩れず、、壁となる。
その壁は、石垣の明確な人工物とは違う、何処も彼処も鎌倉山は人が
登れない岩崖!
当然、、鎌倉はその様な地形で、自然に切り立った地質! なんて考える。
山奥の霊山幽谷の切り立った崖の様な地質?? 何処にそんな切り立った崖を作る水量の川が有るか? それは無い!!
人手で切岸は作られた訳で、自然の要害!なんて、現地を調べて無い証拠です。
ついでに丹沢の沢登りをやられると、何が人工的な壁で何が自然の崖かの区別も付くようになります。
丹沢は、造山活動の活発な若い山で、急激に高くなっているので崖崩れの多い不安定な若い山です。
自然の急激な壁、、、例えば滝の直登でも手掛かり足掛かりを見つけて登ります。
直登が怖ければ、巻いて登る道を見つけられます。
鎌倉の切岸は、草木が無ければ登れない! 一般人的な感覚の話です。
訓練すればオーバーハングでも登るのが人間です。
実際に稲村で「新田軍の三木俊連が霊山寺の峯 を襲った」訳ですから!

> (中世の初期と後期とは築城のコンセプトなども違うかと思いますが)
  このコンセプトは、国内の戦いを想定した話だと思います。

世界一強大な軍隊と戦う視野が、この解説をした方には無かったハズです。
城の威容等無関係で、戦いに勝つ為の要塞が鎌倉城であり、その後鎌倉城を造らされた関東武士が築城方法を転用し自分の領地に城を作ったのが戦国時代の山城。
時系列として、その様に考えて居ます。
それ以前は、大和朝廷主体の 互いを攻める事の無い時代で、城は不要!
源平合戦以降に政治力以上に武力が力を持つ時代に成り、城の必要性が出来た。
戦国時代は、隣の領主が攻めて来る時代に成り、自衛の城が必要に成った。
その後 城の威容を誇示した石垣造りの城に変化したと考えます。
それが、城に対する歴史と言う訳です。 
現状の石垣の城を見て鎌倉に城は無い等、、歴史を無視(考えた事が無かった?)した話と成ります。

> もしこの葉山町域も鎌倉城域であるとすれば、その地形を当時
> の鎌倉幕府がどのように料理したのか、元が海上から襲来した
> としてどの様な軍略を取るつもりであったのか、その辺の今後
> の記事展開を楽しみにしております。
  その築城の戦略は縄張りから見える訳ですが、、、
もう、、気付かれて居るようですね、、
私も5年前は、七口のラインが鎌倉城の範囲かな? っと考えて居たわけですが、
余りにも広範囲な切岸の状態は、国土地理院の地図表現が無ければ、その全容は掴めなかったでしょうね!
この広範囲は私が考えた事ではありません!
国土地理院の地図が示した訳です。
それに尾ひれを付けて居るのは、、此の私には違いないのですが(-_-;)

> 逗子葉山市町界の相模湾を見渡せる峰に、あの有名な古墳群
> があった、というのも気になりますね〜。(記憶違いかもし
> れませんが、後の三浦(氏)水軍絡みだとか何とか。。。)

  桜山の古墳群だと思いますが、、
40年程前から、一度は見ようと思っていましたが、未だ叶わず!
古墳群の時代、鎌倉幕府の時代、三浦水軍の時代、各々の時空が噛み合わないと思います。
鎌倉幕府の時代に、東側の守りは「対三浦一族に対しての守り!」で東側より強固にしてある!
等と書かれた文献が在りますが、三浦に問題が有れば即攻め(宝治合戦)滅ぼされる。
西側の守りが強固であるならば、元寇の船団は横須賀、六浦から攻めると考えた根拠になる。
新田義貞が鎌倉城の西側を攻めたのも、偶然では無い、、、 ナンて文献は無いんですがね、
逗子市内の小学校は、定番の社会見学の場所と聞いています。
それ以前に、この辺りに行くと「つばさ模型」に足が向く!
視点が違う意見は、、
トテモ参考に成ります。

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鎌倉城の範囲のコメントより

2020年08月01日 | 大鎌倉城
   (うにゅー)サン     2020-07-31 12:05:06
> 地質に関しては私はまったくの素人なんですが、先日の「ブラタモリ」においては、
> 葉山町域は葉山層群という独特の地質なのだそうで、紫のラインを境とした地形の見
> た目の違いの要因の一つはそれなのかもしれません。


三浦半島や千葉半島は、2,300万年前以降の地層ですが、特異な例で更に古い時代の地層が「葉山-嶺岡帯」です。
葉山-嶺岡帯は、5,000万~4,000万年前に出来た地層。

更に詳細に地図を見ると、紫ラインの北と南の山際は同じ地質の葉山-嶺岡帯!!

縦縞の間に挟まれた灰色の部位が葉山-嶺岡帯です。
依って、地質の違いではなく、、人工的なモノと考えます。
三浦の山は、地質が一様ではなく、断層も多々在るのは解っていますが、、、
本気で調べた訳じゃ無い!  気になっていた盲点を突かれた感じです。
(うにゅー) サンの突っ込みは、、心臓に悪い!
辛うじて 逃げ切れた感じです。
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鎌倉城の範囲 9

2020年07月28日 | 大鎌倉城
城、又は要塞の大きさですが、、
現北京城は8.5㎞×8,5㎞の大きさですが、元の時代は7.6㎞×6.8㎞の四角形でした。
元の城壁は明の時代に代わった時点で破壊されたとの事です。
「世界一大きい城、要塞」とググってもプラハ城以上の大きなモノは無い。
南京城、北京城は、カウントされて無い様です。
鎌倉城は、東西13㎞南北12㎞の大きさで、面積は微妙ですが、当時の鎌倉城はある意味北京城より大きい。
その当時で世界一大きい城と言えるのです。

鎌倉城と当時の北京城を比較してみましょう。
緑のラインが、鎌倉城の境界。
ブルーのラインが北京城の大きさ7.6㎞×6.8㎞の四角形を想定した大きさです。
北京城の外郭は、ほゞ取り壊されている様子で、古地図から確定する必要が有る。
でもね、
鎌倉城には未だ切岸の痕跡は大分残って居るし、宅地造成でも隠し切れない段差として存在し、上図を見れば確認できると考えます。
鎌倉の調査をした学者?が鎌倉自体を知らなかった。調べれば痕跡があるが、文献に頼り自らは調べなかった。
他人の本を参考に知識を蓄え「鎌倉の研究者!」という学者が大半。知識だけで自分の考えは無い。自前の調査研究をしていないのが「鎌倉を語る研究者!」と言う訳です。

古文献は鎌倉炎上で灰になる! 在る文献は幕府終焉の数十年後に書かれた太平記や梅松論で確実性に欠ける。それを根拠に鎌倉を語れば憶測の話に成る。
鎌倉の話の根拠を示せ! となると、資料が無いから議論に成らない。
結果は、
臆測であろうが間違っていようが、自説を公開すれば反論が無いから定説に成る!
定説は疑う事も無く信じ込む! 伝言ゲームとも、風評被害とも言います。
鎌倉城を調べた人は幾多も有るでしょうが、、、、、
この広さを意識して調べた人は無かった様です。
鎌倉の情報は、土地の遺構が語る部分が大半で、広すぎる遺構は調べる人が無かった!
鎌倉を世界遺産に! する価値は有るでしょうが、、、
広大な鎌倉城を自覚せずに計画を推し進めた! 
「武士の都 鎌倉」で有った様な、、武士の拠り所の戦う城の認識は無く、
世界一の要塞と言う考えも湧かなかった様で、、、 
視野の狭い学者に城遺構は無視され調査もされなかった。
スタッフの無知より生じた税金の無駄使いでした。



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鎌倉城の範囲 8

2020年07月25日 | 大鎌倉城
万里の長城は、実質防禦するだけの兵員を揃える事は出来ず、形だけの塀です。

「ギネスブック」によると、最も古くて大きい城は、プラハ城(チェコ )で、 敷地の広さは東西430メートル、南北70~140メートルで細長い形をしており、長さは約570m、平均の幅は約130mである。
 
鎌倉のこの広大さで、、、プラハ城は狭小過ぎで、比較にならない狭さです。
世界最大と考えられるのは、フビライ・ハンが北京に造った北京城と考えられます。
北京城が鎌倉城と比較に成る大きさと考える訳です。

上の図を見て、如何でしょうか鎌倉城の境界を理解できるでしょうか?
申し訳ないが、私自身がこの境界を詳細に調べた訳では無いのです。
「部分的には知っています!」 その程度の理解の仕方です。
現地を調べても、グリーンのベールに隠れたり、住宅地になったりしています。
傾斜が強い部分は黒っぽく描かれている! 山裾が黒っぽく縁取りされた地形 それが根拠です。
国土地理院の地図情報は、 10年前とは比較にならない程精度が高く、表現が豊富です。
人力でしらべる以上に 全体を把握する情報が引き出せます。
  次は、
世界最大の城の今は無い北京城と比較です。

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鎌倉城の範囲 7

2020年07月20日 | 大鎌倉城
鎌倉城の北の範囲ですが、、、土地開発が進みご覧の状態です。
大船駅から、笠間 イタチ川沿いに 上郷、朝比奈インターへ、、、
その辺りが今判別できる境界と思われます。
其れとは別に、金沢八景の海を囲む、釜利谷、能見台方面に切岸は伸びて居ます。
更に北に向かい武相トンネル上より円海山に向けた峰が金沢八景の海より侵入した元軍の防衛線に成っていると考えます。



例によって、赤は埋め立てた場所、青は山を削り取った場所です。

巨大鎌倉城はこの様に宅地造成により破壊された訳です。
さて、この鎌倉城の全体像は如何に?
その前に、世界最大の城は何処にあり、どの程度の大きさなのか??
各々調べて欲しいものです。
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鎌倉城の範囲 6

2020年07月20日 | 大鎌倉城
金沢八景の地図です。
赤いラインは、朝比奈峠を通る六浦道です。
六浦湾は、鎌倉時代の海外貿易に使用した港で在り、船で鎌倉攻撃をする時一番最初に船を乗り付けると考える場所です。
ご覧の通り半円形の切岸が六浦を囲っています。
更に海との間に切岸が在るようですが、大半は大規模宅地造成で平らにされています。

上の拡大図です。

下の図の赤い部分は埋め立て地、青い部分は切り取った造成地。

巨大な城は、この様な造成のされ方をした。
50年前に金沢八景周辺をバイクで走ると、異様に切り立った崖=切岸が目に付いた
当然宅地には邪魔な訳でして、、造成された訳です。
逆に、此れだけ造成されても見るべき切岸が広範囲に残って居る!

次回は横浜側(鎌倉の北)です。
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鎌倉城について考察の変遷

2020年07月13日 | 大鎌倉城
■■2018年09月16日 に記載■■
このブログは、、
鎌倉に関しての古代道路と、それに絡む鎌倉城の記載です。
確定したものを書いている訳ではなく、私自身の頭脳が理解し情報を積み重ねる過程を書いています。
情報次第で、理解の中身が変わる、、、過程の記録です。
日付けが古いものは、情報量が少なく、考え方も狭小です。
新しいものは資料も多くなり、考え方も範囲が広く考える事が出来ます。
とは言え、鎌倉幕府の生の記述は「鎌倉終焉」と伴に灰塵と成った訳です。
文献からの研究は限られた本「太平記」「梅松論」等が参考と成りますが詳細は不明です。
古典の中身は 著者の誇張や又聞きの記述です。 真実の情報は、鎌倉の土地に刻まれた遺構に語らせる他は無い。
 
例えば鎌倉城遺構ですが、
私の書かれた時期により、情報量と頭脳の理解範囲や視点が段々に広がっていきます。
 このブログ初期は、
頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に逃げた時に、千葉常胤氏が
鎌倉は、要害の地で源氏の因縁が有る場所です。其処に居を構えたら如何でしょうか?」から始まります。
この時点では、源平合戦の延長である「要害の地」と考えられます。
自然の要害の地とは、書かれていません。
三方が山に囲まれもう一方は海の外部で攻め込みにくい場所=要害の地と言う意味です。
初期は、鎌倉城に障害になる巨大な官路(駅路)が鎌倉に入り込んでいた。
東山道武蔵路より相模の国に入り 海蔵寺裏の大堀切と言う切通の跡から鎌倉に入ったと考えられる。
古代東海道の西出入口は梶原団地の谷戸より化粧坂から鎌倉に入ると考えられ、東の出入り口は朝比奈峠が有ります。
平安時代は、これ等の官路は機能しており、鎌倉に官路から安易に出入り出来たと考えられます。
(当時は山には切岸は無く、自然な状態で在ったと考えられますが、、、
   現在の鎌倉山中の遺構は人工的な切岸で総て囲まれている。)
 
城にするには、この官路を塞ぐ必要が有ります。
この時点で 初期の当ブログは、、
鎌倉山中の遺構は、鎌倉の町を守る為の遺構と考えて書かれています。
鎌倉城の範囲は 七口を結ぶラインを考えて居り、このブログ初期の考え方です。
 
 このブログ中期は、
頼朝が鎌倉入りした後は、国内の反幕府勢力に対抗するために、
本来 鎌倉市内を突き抜け六浦に向かったであろう古代東海道を塞ぎ、七口を結ぶラインに防衛線を作ったであろう、、、と考えられます。
そのライン上には、東山道武蔵路の延長である相模路の大切通が海蔵寺の裏にあります。 この切通を塞ぎ土橋にした「大堀切」と称する遺構が含まれる。
この切通を塞いだ痕跡は、初期の鎌倉城を作った時の遺構と考える訳です。
同様に、古代東海道の切通を塞いだ痕跡が有る訳です!
その痕跡は疑い出すと鎌倉の西側には幾つも在ります。
古代東海道の東の出口に当たる朝比奈峠も この時期に古代東海道を鎌倉城に改造する時に手を付けなかった古代東海道の痕跡と考えられる遺構が残って居り、記載しました。
 
「いざ鎌倉!」と言う言葉が有る。
詳細は「鉢の木」と言う話に成っているが、
何故、事が起きたら先陣争いをして鎌倉に集合させたのか?
当時の城は鎌倉だけにあり、鎌倉幕府に対抗する勢力から鎌倉を守るためには、、
七口とその峰に兵を置くと関東一円の武士で守る必要が有るほど大きい城でした。
太平記に書かれ攻防の有った場所が鎌倉城と考えた訳です。
 
この時点では「元寇の考え」は全く考慮されずに書かれています。
古代東海道の遺構と考えられる梶原の谷戸から朝比奈峠より六浦に抜ける道と鎌倉城の関連を主体に考えて居た時期です。
鎌倉の城は、国内の反幕府対策で防衛の為と考えた時期です。
 
この時の矛盾は、
鎌倉市内より外へ出ようとした時に、内側にも切岸が有る矛盾!
大半の方は、建物の平地を確保する為にが崖を作ったと思うでしょうが、、、
個人の住宅では、大掛かりな土木工事はしないし、鎌倉の街を囲む山の内外が総て同じ基準で切岸状態なのです! そこから想定できるのは、
政治力で、山の内側に大掛かりな切岸を作り上げたと考える訳です。
市内に向けた切岸から、街を守るだけでは無い鎌倉城の機能が有ると感じたのです。
 
 このブログ後期には、
現地を見ても巨大過ぎる鎌倉城の実態は把握できなかったのですが、
国土地理院の地図が詳細に整備され、地図上に傾斜を表示し、赤色立体地図も使えるように成り、
樹々や建物に邪魔されない土地の表示ができるので、
本来の鎌倉の地形の全体像を理解でき、城全体が把握出来るようになった。
 
関東武士だけでは守り切れない巨大さを考えると、、、
日本武士の総力を挙げて対抗する敵は何か????
それは、外国の軍隊と言う事に成る。
この辺りから、、、
現在残る鎌倉城の遺構は、蒙古襲来が起きた事による、、、、
元寇対策の日本の総力を挙げて守る城と言う考えに成ったのです。
 
対国内の反幕府勢力に対抗する為に作られた鎌倉城は、
国外の敵に対抗する城として、作り直されたと考えられるのです。
 
 鎌倉終焉では、  新田義貞の鎌倉攻めとなります。
台峰と脇にある倉久保谷戸の砦構造が確認できる事と、鎌倉城大手と考えられる化粧坂、葛ヶ原、北鎌倉女子高校のグラウンド、水堰橋までは、台峰の上を通っている。
化粧坂に行くには大手道が唯一の侵入経路です。
化粧坂が決戦の場ではなく、この大手道を占拠する事で化粧坂に入れるのです。
古文献では、新田義貞の主力軍は化粧坂から鎌倉に攻め入る事を考えたのだが、、、
洲崎にて、鎌倉軍との戦いになった。
洲崎とは、化粧坂と柏尾川の間の土地全体を総称して洲崎と言うのです。
洲崎の戦いを終えると、次には、、、
山之内に兵を進めた!
山之内は大手道の水堰橋が有る場所で在り、瓜ヶ谷より台峰を攻撃できる場所です。
別ルートで、深沢、梶原、六本松ルートで葛原ヶ岡を攻撃できます。
葛原ヶ岡を乗り越えないと、化粧坂には行けないのです。
新田義貞の主力部隊は、化粧坂を攻めに行きましたが、、、
化粧坂の手前の葛原ヶ岡で攻防があり、これを打ち破れなかった。
決して、、、化粧坂で戦われたのでは無い。
化粧坂に攻め込む為、台峰から葛原ヶ岡に続く峰道を攻めた。 っと古文献より考える。
その後、新田義貞主力部隊は葛原ヶ岡を落とせずに稲村ケ崎を攻めた!
この様に太平記や梅松論に書かれています。
結論は、
洲崎の戦いに勝ったが、山之内から葛原ヶ岡を落とせず、、化粧坂に入れなかった。
梶原団地から葛原ヶ岡に行くルートも撃破出来なかったし、
倉久保谷戸から台峰に登る事も不可で有り、、
小袋谷の水堰橋側から台峰に登るのも不可で在り、化粧坂に行く台峰上の大手道へ入り込めない。
大手道に登れない砦構造が台峰に在った訳です。
この七口から張り出した峰が鎌倉城の戦う砦として強固で、
守る鎌倉幕府軍三万騎
攻める新田軍五十万騎
十倍以上の攻撃に台峰の砦は持ち耐える事が出来た。
、、、この戦う峰が七口に存在し、台峰は 巨大な鎌倉城の一部でしかない。
 
■■2020/07/13 記載■■
台峰の攻防も、化粧坂へ通じる鎌倉城の大手道の話であり、幕府軍は兵力が少なく 直接七口に絡まない峰には兵が配置された形跡は無い。
城が巨大過ぎて、総ての峰に兵を配置する事は出来ず、最小限の七口の守りで戦った訳です。
国土地理院の地図の性能が上がり、傾斜部分の強調が表示され、単なる等高線の表現より リアルで直感的な視覚の表現が出来る様になり、現地を見なくても切岸の存在を調べる事が出来る上に全体像を把握出来るように成った。
結果は、切岸が何処迄あるのか? を図示出来る様に成った訳です。
すると、単なる鎌倉の街を囲って守るだけの切岸では無い程の広範囲な切岸が造られている事が示される。
此れでも、、飽くまでも何処迄が城の範囲なのか?? の調査思考の途中で経過の話です。
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鎌倉城の範囲 5

2020年07月13日 | 大鎌倉城
金沢八景の前に、、
鎌倉城の範囲4 の拡大図を!
下図の海岸中央は葉山御用邸でその下の岬は長者が崎です。
画面の中央から上の切岸の為山裾が黒く成っている状態と、
中央から下の傾斜がナダラカナ山裾の違いをご覧ください。


下の図は、横須賀駅から横須賀中央駅にかけての海岸です。

これ等の境界も、宅地造成工事で不鮮明に成っているし、更に大きく作られていたのかも、、、
それでも明確に区別できる範囲の線引きです。
画面より上は、徹底して切岸が造られていますが、、、下方はマダラです。

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