鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉時代の波打ち際 14

2021年09月30日 | 鎌倉時代の波打ち際

下図は、大正十年の地図です。

渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、
問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が 渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。
 何故 数百年の間なのか?
鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。
戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!
江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。
ほゞ、、 鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。
交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。
上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図された地図の情報です。
この時の鎌倉は、七口の街道は新田義貞の鎌倉攻めで七口は高さ3m以上の土塁で塞がれ、その土砂を多少は排除しても通行困難で西は大仏トンネル東は名越のトンネルで車が通れる様に成った状態です。
これが、状況証拠だけで想像した鎌倉の元寇防塁の概要です。

妄想の結果は、国土地理院の地図から由比ガ浜の砂浜で一段高い崖が検出され、更に大正時代の地図にも書き込まれている!
  大正時代の地図に示された段差は、、地図以外に存在するかも!

上の写真は「鎌倉時代の波打ち際 7」で載せたモノで関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川の状況を写したものです。
目的は、奥の微妙に高い場所が砂丘の説明だったのですが、、
稲瀬川より奥の滑川に向けた浜に沿って黒いラインが!!
これは、、妨塁の痕跡では無いのか?

同じ写真だが、「そんなモノが在るハズ!」と言う確信が有ると、見えるモノがあるわけです。
更に、
これは、大正12年の震災で津波が押し寄せた後の惨状です。震災前ならモット面白い映像が存在するかも??

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鎌倉時代の波打ち際 13

2021年09月27日 | 鎌倉時代の波打ち際

傾斜が強い処は黒く強調した国土地理院の地図です。

砂浜に沿って黒いラインがあり、一段高い崖が現在の国土地理院の地図から読み取れます。これが現今の由比ガ浜の段差です。

元寇対策の土塁が存在すれば、この様な段差が地図より読み取れるで有ろう!
その思惑道理に段差が存在した訳です。
由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒いラインは、現在は道路絡みですが、1940年代の空撮では、国道134号が無い時代でも段差は確認でき、道路の為の段差だけでは無い事が確認できます。
鎌倉時代から在ったと思われる段差は、国道134号で隠れてしまいました。
 では、
今では元寇土塁と思われる段差は、道路で消滅したのでしょうか??
元寇土塁は、消えたのでは無くて道路に隠されてと考えるのです。

戦前の状態はどの様だったのか??
問題は、由比ヶ浜の歴史と時代の経過の変化です。

明治の迅速図に描かれた段差は、
坂の下の町の境界の段差、由比ヶ浜南遺跡の砂丘、材木座の砂丘が描かれています。
もう少し詳細に段差が描かれた地図は無いのでしょうか??

地図は古ければ、より昔の地形を描かれている?? そう思ったら大間違えでした。

次回は より詳細な地図です!

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鎌倉時代の波打ち際 12

2021年09月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

> 有鄰  第 430 号 H15/9/10発行
>    以下は 記事の抜粋です。 
> [座談会]中世鎌倉の発掘 仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
>   前略
> 屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
> この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって
> いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。

由比ヶ浜南遺跡の 東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地の遺構が発掘された。
この土塁か築地は、屋敷の東西(海岸線に沿っている)にある。
この海岸線に沿った防禦土塁が有るとなれば、海から侵入する敵に対応した土塁と考えられる。
海からくる敵を想定したならば、由比ガ浜全域に土塁が在ったと想定でき、「由比ヶ浜南遺跡」はその一部と考えられます。

由比ガ浜全域に在った土塁は、由比ヶ浜南遺跡の他は何の資料もありません。
私自身が「由比ヶ浜南遺跡」の資料を見るまでは、元寇防塁が由比ヶ浜に在ったとは考えは無かったのです。
私の見たモノは、砂浜より、一段高い場所に道路が通っており、その理由は、高潮の時に道路に海水が被らない様に!
そんな考えでした。

それが理由なら、稲瀬川の周囲の道路の低さは説明が出来ません。
結構 地形に左右された道路の高さだった様ですね、、
前回の図面では、高低の表示で、、土塁の崖の表示は出来ていません。
下の図は、傾斜が強い処は黒ッポク表示して在ります。

要は、海岸より一段高い崖が存在すると言う訳です。
由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒ッポイラインは、道路絡みですが、
坂の下は、道路の崖と古くから在る町の崖の区別がつきます。

問題は、この崖は古くから在る物なのか❔ っと言う事です。

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鎌倉時代の波打ち際 11

2021年09月09日 | 鎌倉時代の波打ち際

「鎌倉時代の波打ち際10」の立体写真で写しだされた崖ですが、、

未だ海岸際の国道134号が出来る以前の写真ですから、古来より崖の存在が有った訳です。
滑川河口の西には、由比ヶ浜南遺跡の崖の防塁と考えられる遺構が在り、
滑川河口東の材木座にも崖が存在し、この防塁の延長と考えられる。
元寇対策の防塁となれば、由比ヶ浜を囲むように防塁が存在するはずです。

青い色の4mと水色の6mの境界が極楽寺坂の下の坂の下から稲瀬川河口、滑川河口、材木座迄の由比ガ浜を囲う様なラインが検出できます。

下の坂のラインは、道路の為の段差では無く、坂の下の町の段差で有る訳です。

稲瀬川の周囲は、津波の為にこの段差が流されたと、考えられます。

博多湾の防塁の場合、
長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。
写真はご覧の通りで、風雨による崩壊した状態です。(福岡市の文化財より)

津波が無くても、この様に風雨で崩壊します。津波で流されても、、仕方が無いのかもしれません。

問題は、稲瀬川より稲村ヶ崎に向けての砂浜は、数度の津波に襲われた場所ですが、高低差とし2m〜6mの範囲で残存するのが確認できます。

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鎌倉時代の波打ち際 10

2021年08月31日 | 鎌倉時代の波打ち際

現在 由比ヶ浜は国道134号が通っており、浜辺の古来からの景観を想像したくても、国道134号の構造物で遮られた状態です。では134号の出来る前の空中写真を見てみましょう。 国土交通省の終戦直後の空中写真です。

昭和30年代の写真と考えられます。赤点のある写真は立体写真です。
右の写真は、崖をオレンジ色のラインで書き込みました。
写真の右は北で、八幡様の方向です。
川は滑川でその上に在る砂山から防塁が出土した場所です。
滑川の下は材木座です。
このオレンジ色の砂丘の崖が注目して欲しい地形です。

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鎌倉時代の波打ち際 9

2021年08月16日 | 鎌倉時代の波打ち際

戦前の滑川の由比ヶ浜へ注ぐ川口の状態は、、、

その写真です。

海岸より八幡様に向けた写真です。

画像左には、、11mの砂山が有った訳です。

滑川のこの状態の土手ならば、、元寇に対抗する効果が望めると考えます。

これが現在の河口です。

この新旧の比較からしても、鎌倉時代の波打ち際と現在は大差ないと考えて居ます。

肩書を持って鎌倉の研究をされた方々が、、

鎌倉の故事を自ら検証もせずに伝言ゲームの様に他の研究資料を受け売りで新たな研究書を発表し、鎌倉の歴史を歪めてしまった!

寂しい限りです。

 

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鎌倉時代の波打ち際 8

2021年07月18日 | 鎌倉時代の波打ち際

現代の地図と明治初期の地図を重ね合わせてみましょう。

上図 重ね合わせた地図より、
砂山の三角点11.53mの場所は、国道134号線に削り取られた状況を示します。

下の写真は現代の状況です。

写真で緑に写る公園が由比ヶ浜南遺跡となります。

> 有鄰  第 430 号 H15/9/10発行
>    以下は 記事の抜粋です。 
> [座談会]中世鎌倉の発掘 仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> 
> 由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。
> この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。
> 
> 齋木氏:大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。
> この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませ
> んが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。
> 門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木み
> たいに太い角材を使っています。
> 
> 屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
> 屋敷の西側土塁の外には木組み護岸の河川が流れて、その西には御成小学校
> の前を通る今小路に真っ直ぐに延びて行く、丁寧に造られた道路があります。
> 
> この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって
> いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。
> 防御的な屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。

 

その防御施設の場所とは、砂丘の崖に相当する場所と考えられます。

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鎌倉時代の波打ち際 7

2021年07月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

「鎌倉時代の波打ち際6」を書いたのは2018年でした。
古い時代のデーター探しですが、
現代の地図データで納得してしまいます。
例えば1970年代の地図

これで、ある程度の地形は掴めますが、微妙な事は判らない
近頃は、この微妙な高低差を示す地図が有ります。


此れなら納得でしょ??
こんな処で結論に成っていたのです。
古い地図は明治15年に造られた迅速図と言うのが有ります。

古い分、適当な地図と考えて居ましたが、、
詳細な地図が存在し、 今回見つかりました。

如何でしょうか、
見どころは、海に注ぐ滑川の脇に砂丘が明確に記載されている。
三角点も有り、標高11.53m となっています。
等高線も5mと10mが描かれています。
その価値は何でしょうか??

高低差を示す現代の地図は、ドンナニ正確でも、過去の状態ではない。
この場所は関東大震災で津波が押し寄せた場所です。
長谷駅の周辺の坂の下は津波で全滅した。 
過去の地震では大仏近くまで津波が来た話も有ります。

 
写真は、関東大震災で津波が襲った坂の下や稲瀬川、奥の微妙に高い場所が砂丘です。

その様な訳で、宅地を造成する時は、必ず盛土をしたと想定し、
現代の地図には、屋敷を想定した四角い盛り上がりがある。
明治の地図には、砂丘が書かれ、其の砂丘は由比ヶ浜南遺跡の石防塁が有る場所! 
そして、等高線5mの先は「鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘8」の場所へ、、
由比ヶ浜は、平坦な砂浜では無い証明です。

更に高低差のある場所が砂浜に存在し防塁が存在した訳です。

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鎌倉城のマトメ

2021年03月12日 | 鎌倉時代の波打ち際

鎌倉城のマトメ 1    2021年03月12日 | 大鎌倉城

鎌倉に城が在る!
石垣は何処?
天守閣は何処?
城の出入り口の門は?
そんなイメージを浮かべるのがお城マニアでしょうが、、
鎌倉の城は、
元寇と言うモンゴル帝国の五代目フビライハンの攻撃に対抗する城として築かれた。
そう考えられるのです。
なんて言っても、鎌倉終焉により、資料は消え去った。
資料は消えても、、遺構は現存する訳です。
しかし、
その遺構を総合的に調べた研究家は居ない。
何故調べないのか?
戦国時代から江戸末期の城郭研究家の知識、常識の通用しない巨大な規模の城であったわけです。
何故その様な巨大な城を作ったのか?
その理由は、
元の情報は渡来した南宋の僧により、十分な量が鎌倉幕府に伝えられていた。
当時世界一の軍隊を持つモンゴル帝国に対抗する城は、当然の如く世界一の規模に成った訳です。

現存する江戸時代の城とは異質の、戦う相手をせん滅する目的の城です。

見栄えを考えず、ひたすら防御と攻撃を考えて作り上げた城です。

 

鎌倉城のマトメ 2    2021年05月17日 | 大鎌倉城

鎌倉城は、書籍に名前が載る事は有っても、場所は何処? 縄張り図は? 堀切は? 城壁は?
その様な疑問に答える様な記事は皆無です。
調査はされず、不完全なままに放置された現状が有ります。 
このブログの趣旨は、鎌倉を突き抜ける古代東海道の解析が目的だったのですがね、、、
古代東海道の痕跡が鎌倉で急に消えてしまった。
何故無いのか? それが鎌倉城に首を突っ込んだ理由です。
城の真ん中を太い幹線道路が通っていたのでは、敵が侵入し、城の役には立たない!
当然の如く立派な古代東海道を封鎖する事に成る。
何故なら、それが城ですから!!
自分なりに納得できる様な城探しをする羽目に成りました。

鎌倉研究書を読むと、地形を知らず現地を調査した痕跡も無い研究内容と、根拠なく憶測に満ちた研究書を参考に現代の研究が積み重ねられた経緯がある。
広大な鎌倉城に対し、調査もせず広すぎでやりたくても調査が出来ない為に憶測で本を書いた。
それが著名な研究者が書かれた本に成った。
臆測は憶測を呼び、根拠の薄弱な風評としての現在の鎌倉城論が出来上がった。

「鎌倉を世界遺産に!」という目論みも、調査不足と思慮の浅さで無残にも崩れ去った訳です。
世界にも稀な巨大さを誇る砦がこの鎌倉城であり、「世界遺産」を目指すに値する遺構です。

鎌倉幕府にそんな力が有ったのか?
九州の地方の武士を指揮して博多湾に20㎞に及ぶ元寇防塁を作った。
地方の武士集団でこれだけの土木建築を作り出す力が有った訳です。
中央の鎌倉幕府は、更に数段強固な防衛施設を作ったと考えられる訳です。
鎌倉城を作った文献は有ったとしても、新田義貞鎌倉攻めで灰塵と成った筈です。
文献が無いから調べないと言うのが、現代的な研究者の態度です。
文献は無くても、巨大な遺構は残って居おり、調べれば解る。
問題は、大半は住宅地に成っている。
だから、、、痕跡は消えたのか? そんな事は有りません。
コメントに「みたに」さんが書かれた倉久保、台峰、台村、袋村の話をしましょう。

この地図では、地形の表現が全く足りず、何がお城跡なんだか??
判らない。
この辺りが常識的な考えで、だから鎌倉城は無い! そんな結論に成るのでしょうが、、、
次回は理解できる地図を掲示します。

 

鎌倉城のマトメ 3    2021年05月18日 | 大鎌倉城

鎌倉城に対する認識は、研究者の調査不足、根拠の不明の参考書引用等で鎌倉城の実体を語られる事が無い。
城郭研究書「日本城郭大系」では、名越の石切り場を鎌倉城として紹介され、見るに耐えない記事となっている。(当ブログに記載:日本城郭大系1 記 2015-06-22)
多くの鎌倉研究書が「日本城郭大系」を引用した為、内容が定番となり、調査不足の認識不足で出した結論が常識となってしまった。

下図は、鎌倉城のマトメ2の地図の上に急傾斜を加えた図です。

山の裾は、総て黒くライン(急傾斜)が入るのが 前出の地図とは違う処です。
この山の裾の黒い場所は切岸と呼ばれる城壁に相当する急激な傾斜部です。
人力で掘削した崖で、周囲の山裾は総て崖に成っている。
これが、鎌倉城を示す痕跡です。

鎌倉城以降では、戦国時代や江戸時代を経ると「日本城郭大系」で記された一般的な構造の城になりますが、
それらの築城技術の基が鎌倉城に有ったと考えます。

後世の城と根本的に違うのは、城を守る為の城壁と言う考えよりも、
一段高い場所に陣取り、寄せ手より優位に戦う事を意識した砦と考えて居ます。
博多の元寇妨提と同様な防衛ライン的考えを想定しています。
主な戦力は騎馬に在り、出撃基地的な砦であり、一か所攻められれば、他の基地より騎馬が出撃し、背後から襲う!
防衛の為の基地と言うより、攻撃する為の基地と考えられる構造に成っている。
防衛としても効果が有り、新田義貞の攻撃を跳ね返した実績がある。
新田義貞は、正面攻撃を諦め、城壁(切岸)の無い海岸より入り込んだ訳です。
それも異常現象で海岸の岩礁が浮き上がり、安易に鎌倉市内に入り込めた訳です。 鎌倉城の城壁(切岸)を打ち破り鎌倉市内に攻め込んだ訳では無いのです。

専守防衛の後世の城とは考えが違うと感じています。
国内向けには、鎌倉の街を守る城壁。
元寇の海からの侵入には、海岸に妨提を作り、鎌倉の街を守るが、突破された市内に向けられた切岸が元寇に対処する城壁となる訳です。
それ程の危機感を持って鎌倉城は作られたと考えて居ます。

さて、、
貴方が現地に行き、目の前の遺構を城と認識できるでしょうか?
 それが問題です。

 

鎌倉城のマトメ 4    2021年06月21日 | 大鎌倉城

上図は切岸の段差を黒く表示し。ご覧の傾斜表示となります。一般的な地図では表現が困難ですが、、如何ですか?
しかし、住宅地に占領された状態であり、緑地は樹木のベールに隠れて、単なる山に見えます。
更に巨大でその様な自然地形か?? 等と考えるのでしょうね、、人手でこの様な地形を作った!とは思えない大きさですから、、
下調べをして、確信的にこの段差は切岸痕跡として見ないと誤魔化されます。

鎌倉城には二面性が有ります。
一、国内の敵から、鎌倉の市街を守る城壁としての城。
二、国外の侵略(元寇)対策としての砦。

「鎌倉城の城壁 5」 2016/12月06記 より
「尾根の周りに真っ黒な縁取り」の様な切岸に 新田義貞は鎌倉市内に入れなかった。 太平記では新田 総勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。
鎌倉勢は三万余騎にて『粧坂』を堅めたり。 新田勢を喰い止められた!
鎌倉軍は『粧坂』で 16倍の敵を相手にして耐え抜いた!
その理由は、、、、
平場の戦いなら、16倍の敵には一蹴されますが、、、
鎌倉側の城の城壁(切岸)効果は絶大であった訳です。
 理屈に合わない変な事は、
鎌倉軍六万余騎の大将赤橋前相摸守盛時が州崎で何故1日しか耐えられなかったのか?
戦い方の戦法が古風で工夫の無い大将であった事は、太平記記載が有る。
大将赤橋は、自分のメンツにコダワリ戦略の無いまま、城を活用する事無く昔ながらの戦いをした!
言い方を変えれば、
8倍の敵に対して、平地で対等の戦いをして自滅した古い考えの大将でした
鎌倉城を騎馬の出撃基地とした戦法と考えられます。

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鎌倉時代の波打ち際 6

2018年01月20日 | 鎌倉時代の波打ち際
上図は、縄文海進の6,000年前と言う想定の地図です。
今より1000年前まで、この影響が残っていたら、、平塚から鎌倉へ向けた古代東海道は海の中と言う話になる!
新田義貞が洲崎に攻め込んだ時に洲崎は海に囲まれていた??
何か変です!!
縄文海進は最盛時で その波打ち際は現在より4m程高く、その時の図と解釈できる。
真実は何処に在るのか??
 
海岸線が5m上がった想定の図
 
海岸線が8m上がった想定の図
 
海岸線が15m上がった想定の図
 
 その様な訳ですが、
地球博物館の提供した地図の波打ち際は15m以上の標高に描かれている。
縄文海進の 最盛時の高さは現在より4m程高かった。と言う記述とは整合しない。
この図面は6000年前の波打ち際と相容れない15m以上有る海岸線です。
これが結論となります。
 
私には、この問題の矛盾を指摘できても、解明する知識は無い。
恐らく考古学学会の中で資料不足で混乱した部分が有るのでは? っと考えて居ます。
 
   以下は参考です。
>有鄰 平成17年1月1日  第446号  P4
>■■広くて暖かだった縄文の海■■  松島義章
>http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html
>詳細は、上記をお読みください。
 
>この概略は、
>1,5~2万年前は現在の海面より120m低い位置に在った。
>以後海面が徐々に上がり始め、6,000年前の海面が一番高かった。
>これを縄文海進と言い、その最盛時時の高さは現在より4m程高かった。
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鎌倉時代の波打ち際 5

2018年01月12日 | 鎌倉時代の波打ち際
「鎌倉時代の波打ち際 4」のジオラマの浜辺は、、、
地形の凹凸が無く、八幡様の源平池から浜まで平らな地形に感じます。
鎌倉に数十年関わっても、そう感じていました。
しかし、、、
これは、単なる平地では無かったのは、この半年で判った事です。
どの様か?
海抜0mより 白⇒紫⇒橙⇒緑 の高度順です。さらに、傾斜の強い処は黒く強調されている。
この図から、坂ノ下(江ノ電長谷駅)周囲の地形が低い為に、津波が大仏の有る場所に向かって押し寄せるで有ろうと、安易に考える事が出来、その文献も過去にある。
更に、八幡様の一の鳥居が高い場所にある事や、下馬四つ角が異常に低い位置に有る事も理解できるでしょう。
鎌倉の海岸線の場所は、1000年前も差ほどの変化はなかった根拠をこの図から示せる訳です。
何故なら、
防衛施設が掘り出された海浜公園駐車場の場所は砂丘の一番海岸に近い場所で有った訳です。
6,000年前の4m程海面が高い時でも、この防衛施設の在った砂丘は海面より出ていたかもしれません。
少なくとも、800年前の鎌倉時代に作られた防衛施設は現在8mの標高です。
鎌倉の基本的な地形を調べる事も無く無視し、縄文海進の波打ち際の場所を無視し、貝塚と貝化石を混同した研究は、間違っていれば否定され、、研究者の地位も虚飾にマミレてしまう。
研究資料も整わないで、結論を急いで業績を上げようと臆測の結論を出した結果なんでしょうが、、
鎌倉の研究には、非科学的な著述が多い。
 
更に、問題は、
縄文海進で「古大船湾」は、無かったと考えられる。
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鎌倉時代の波打ち際 4

2017年12月25日 | 鎌倉時代の波打ち際

千葉県佐倉の歴史民俗資料館に在る鎌倉城のジオラマですが、
由比ガ浜の海面が高い事を想定してして、陸地側を浸食した海岸線を作っています。


このジオラマは 日本城郭大系の城の概念から一歩も二歩も進んだ考えから作られている。
更に進歩させれば、砦遺構は、七切通の外に巨大な砦遺構が有った。
砂浜は、この様に後退はしていなかった。等が有ります。

  本論に戻します。
貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元した研究が有り、
この件についての反論です。


>有鄰 平成17年1月1日  第446号  P4
>■■広くて暖かだった縄文の海■■  松島義章
>http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html
詳細は、上記をお読みください。

この概略は、
1,5~2万年前は現在の海面より120m低い位置に在った。
以後海面が徐々に上がり始め、6,000年前の海面が一番高かった。
これを縄文海進と言い、その最盛時時の高さは現在より4m程高かった。
縄文海進とは1,5~2万年前から海面上昇が始まり、6,000年前で上昇が止った現象で、その海面は今より4m高い位置と考えられています。
以後現在までの海面は低くなっています。


>多摩川低地は15キロ上流まで海
>   前略
>古大船湾は江ノ島の北に河口をもつ片瀬川の支流柏
>尾川沿にできた内湾で、現在の片瀬川河口からおよ
>そ16kmも上流の横浜市柏尾町付近まで、海水が侵入
>して誕生した幅が狭く細長い複雑な海岸線をもつ入
>江となっていた。

この様に書かれているが、それは根拠が無い臆測の話と言えます。
横浜市柏尾町の標高は14m以上ある。
これは、
「縄文海進の高さは現在より4m程」とは、整合しない。
間違いが有るのか?
未知の現象が有るのか?
  私には理解できませんし「縄文海進で海面が今より14mも高い位置で在った!」
そんな文章は見た事が無い。

一歩譲って、
大船のフラワーセンタ―内の池周囲( 鎌倉市岡本)標高:7.5m
横浜市栄区田谷町の田圃 標高:8.3m
戸塚駅脇8,8m
が在りますが、、、
現在より4mの海面水位では、届かない。

〉貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元
   の論文ですが、、
貝の化石については、
横浜市栄区飯島町(江ノ電バス貝殻坂バス停)周囲の砂岩に貝化石がある。
古大船湾の脇で海抜20m程です。
年代は、紀鮮新世後期~新生代第四紀新世中期(280万~50万年前)
既にこの年代から、延々と海面からセリ上がり続けている訳です。
 特異なのは、縄文時代に急に海面が上昇して相対的に土地が下った!!
海面が上昇し始めたのは2万年前か!らで、地球温暖化の始まりです。
縄文海進と言われた現象です。
その様な訳で貝塚の貝と、化石の貝を混同した研究と考えられ、、、時系列を無視した非科学的な研究と言えます。

 この「縄文時代の海岸線を復元」は、
研究論文の中に4m上昇の海面と書かれた個所と、図面で10m及びそれ以上の海面上昇の場所を示されており、整合が取れない矛盾がある。
縄文時代に10m以上の海面上昇が有った資料が必要です。

  私としては、
「江の島の離水波食棚」の自然界が示す明確な証拠を信頼する訳です。

現時点の資料では「日本第四紀学会」説や、「江ノ島の海蝕地形について」説を支持します。
以上により、
「6,000年間の海面変動は現段階の資料から「4m前後」である」っと結論します。
加える事の、この地特有な地震(元禄16年地震)(大正12年関東大震災)の隆起である 1m+αが加わります。

上記を根拠に 1000年間程度の変化は2~3mを考えています。

根拠は曖昧、年代設定も適当で、大昔は海面位置が10m前後と成っている記事がWebで多々見受けられる。
その様な訳で、掘り下げて考証しました。
真面目に古代を考証する時に、これ等の先人の中途半端な専門家の非科学的な研究が考察の障害になる。

次回は、奈良や鎌倉時代と現在の海水面が数メートルの範囲だった根拠です。

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鎌倉時代の波打ち際 3

2017年12月14日 | 鎌倉時代の波打ち際
江の島の波蝕棚写真。
「日本第四紀学会」や「江 ノ 島 の海蝕地形につい て」の記述では、
現代より6,000年間の海面変化は、、数mの海面変化であると書かれています。
 
その反論をWebより探すと、、
◆諸磯の隆起海岸(神奈川県三浦市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E7%A3%AF%E3%81%AE%E9%9A%86%E8%B5%B7%E6%B5%B7%E5%B2%B8
〉三浦半島の地層は上位から相模層群・三浦層群・葉山層
〉群で構成されている。三浦層群は岩相の違いから地域ごと
〉に三崎層・初声層・逗子層・池子層と呼ばれており、諸磯
〉の隆起海岸周辺は三崎層が多く分布している。三崎層は約
〉1200万年前から450万年前までの間に、水深2000メートル
〉から3000メートルの深海に堆積した地層のことである。こ
〉の層は主に泥岩層と凝灰質砂岩層、凝灰岩層からなる。
〉地震の証拠[編集]
〉諸磯の隆起海岸に存在する地震の証拠として、穿孔貝(せ
〉んこうがい)による無数の小穴が挙げられる。穿孔貝は波
〉打ち際の地面や岩石に穴をあけて生息する二枚貝で、
〉諸磯の隆起海岸にはこの小穴により4段の層が形成され、
〉過去に4回の地震が起きたことが推測できる。
〉地震学者の今村明恒によると過去3回までの地震は、それ
〉ぞれ大正12年(1923年)の関東大震災、元禄16年(1703年)の
 〉大地震、弘仁9年(818年)の大地震であることが判明した。
〉隆起の原因となった最古の地震を今村は西暦33年に起きた
〉と解釈しているが、日本地震学会が確認している日本最古
〉の地震は允恭天皇5年7月14日[1](416年8月23日)に遠飛鳥
〉宮付近で起きたものである。
〉現在確認されている、諸磯の隆起海岸を形成したとされる
〉地震は以下の通りである。
〉年月日 元号 震央 M
〉818年  弘仁9年関東諸国7.5
〉1703/12元禄16年伊豆東方沖7.9-8.2
〉1923/9大正12年関東大震災7.9
 
以上の様な記述ですが、、
>隆起海岸にはこの小穴により4段の層が形成され、
>過去に4回の地震が起きたことが推測できる。
この記述で「関東大震災」が4段の層の一つに含まれている箇所に問題があります。
諸磯の隆起海岸の岩壁の基部は標高4.8m地点にの場所に在る。
更にその上に穿孔貝による4段の層が有る訳です。
相模湾の6,000年間安定した海面とは違う天変地異が存在したのか???
その件を述べる以前に、 標高4.8m地点に在る事の釈明が必要でです。
何故なら、、、「関東大震災」の調査結果は、この処の隆起は 1.50mとされているのです。
 依って、「諸磯の隆起海岸」論文の記述に重大な誤りがあると考えます。
「関東大震災」の調査結果は推測ではなく、科学的に計測されたモノで十分に信頼できます。
 
◆参考文献◆
大正関東地震の際の海底地殻変動
http://www.onken.odawara.kanagawa.jp/files/PDF/houkoku/44/houkoku44-p17-28.pdf
〉三浦半島に入ると隆起量は再び増加し、南に
〉いくにつれて大きくなった。すなわち葉山から
〉小田和湾までの間は 99cm、長井 1.38m、小
〉網代及び三崎は 1.50m
 
  上記の研究資料から導き出した反論です。
 
その他にも、反論が存在します。
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鎌倉時代の波打ち際 2

2017年12月07日 | 鎌倉時代の波打ち際
取りあえず、結論を出しましょう。
 
◆資料2◆の日本第四紀学会 より、
6,000年間の海面変動は「2~3m」である。
  それを裏付ける資料は、
◆資料3◆江 ノ 島 の海蝕地形について が有る。
江の島の海蝕棚

 江の島の波食棚、鎌倉稲村ヶ崎脇現埋め立て地の波食棚、逗子浪子不動前の波食棚痕跡を根拠に
 6,000年間の海面変動は「2~3m」である。
 っと考察します。
これは、関東大震災で1m隆起を含む。  っと 私は考えます。
 
  しかし、
それに反する記述もWebには有ります。
次回は、この反論です。
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鎌倉時代の波打ち際 1

2017年12月07日 | 鎌倉時代の波打ち際
神奈川県立生命の星・地球博物館 より
 
 
ぼ輔記載 4m高い海岸線を青色で示した。(カシミールで作図)
このブログでも、鎌倉時代の波打ち際は不明でした。
 
 
◆資料1◆
〉有鄰 平成17年1月1日  第446号 
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_446/yurin4.html#kaigansen 
〉貝塚と貝化石から縄文時代の海岸線を復元
〉縄文海進最盛期には海面が高いだけではなく海水の温度も現在
〉より高かったことが,貝化石やサンゴ化石が示している。 貝塚から
〉出土するハイガイやシオヤガイは現在の南関東沿岸では生息して
〉いない絶滅種である。
〉これらの貝を含めて,相模湾沿岸に形成された古鎌倉湾や古逗
〉子湾、古大船湾、古小田和湾、古諸磯[こもろいそ]湾
〉などには,タイワンシラトリやカモノアシガキ,チリメンユキガイ,
〉コゲツノブエ,ヒメカニモリなど,現在の紀伊半島以南の暖かい海
〉に生息する貝が分布していた。
 
  神奈川県立生命の星・地球博物館の説明図と上記の文より、
  縄文海進最盛期は、古鎌倉湾や古逗子湾、古大船湾が存在
  し、10m以上高い海水面(古大船湾の標高や八幡宮石段の標高
  より想定)と考えられる。
  更に 同じ文の後半に書かれた事は、
〉海進最盛期の海面は4m高く、水温は2℃高温
〉神奈川県内各地で明らかになった沖積層の貝化石産出高度は、
〉大磯丘陵南部と三浦半島南部を除くほとんどの地点で、海抜4m
〉前後の高さとなっている。 つまり、6500〜5500年前の海面は、
〉現在より4m前後も高い位置に達していたことを示し、この時代
〉に海水が陸地へ最も深く侵入して内湾を形成した。
  
   海進最盛期=6000年前は、
  文章の前半で説明された海面は10m以上ある海岸線であり、
  図示された海面は10mの上に在る。
  後半の文では海面は4m高くと書かれており、
   同一人物の研究論文の中に、矛盾した記載が有る。
  研究論文として未熟と言うか、破綻しています。
 
◆資料2◆
〉日本第四紀学会〈http://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html〉
〉「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、
〉現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で
〉海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日
〉本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。
〉その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物
〉で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な
〉沖積平野を作りました。
 
 この資料1で10m以上の海面と、資料2の「日本第四紀学会」海面が2~3mの差ですが、
この違いは大きすぎる どちらが正論か?
 
資料1では「貝塚」と「貝化石」と、同じ年代と考えている節が在ります。
貝塚は人が生活した証。 貝化石は人が生活痕を残す以前の話と考えます。
新人類が出現したのは、20万年前。 長沼層が出来たのは60万年前。「神奈川県立生命の星・地球博物館」提示の資料は稚拙です。
 
2019.10記
上記文章を更に突っ込むと「貝塚と貝化石から縄文時代の」ってこの文章は研究者として失格です。
貝塚の貝は、化石に成って出土するモノなのか??
この大船湾に相当する地層には長沼層という「貝化石」が出土する場所です。
長沼層とは、
「長沼不整合が約60~65万年前のステージ16の顕著な寒冷化による海水面低下で形成され、長沼層を堆積させた海進は、その直後のステージ15の温暖期の海水面上昇に相当すると推定されている。」出処(ニッポニカ)
 
海進の6000年前の話と新人類誕生20万年前 更に長沼層形成の60万年前の話が同等に記される事の時間軸に間違いが有る。
科学的な思考法を無視した間違えで、研究論文として破綻しています。
 
◆資料3◆
〉江 ノ 島 の海蝕地形につい て
http://nh.kanagawa-museum.jp/files/data/pdf/bulletin/8/bull8_79-90_imanaga.pdf
〉杉村.(1974)によれば, 最近7000年間の世界各地の海水面変動
〉量は,たいてい 2~3mであ るとし寸。 そして一般に海食地形は,
〉その形成時代,海水面が一定の高 さに停滞すれば, 海食地形
〉が より 発達し,海水面が急激に上昇 したり下降したりしている時
〉期には,海食地形は,あまり発達しない と考えられている。
〉すなわち,海食地形は海面変動の停滞期に対応して形成される
〉のであろうから ,江ノ島の海食洞の形成には,地殻の隆起速度と
〉海水面の変動速度 とが相対的に一致し ,海水面が停滞した
〉約6000年前及びその後の一時期とに形成されたものと考えられる
 
以上の資料から結論を導き出す事になります。
 
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