鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

コメントより 2

2017年02月07日 | 巨城対モンゴル

    由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡mの場所。
じつは、コメントを出す前に次の記事を用意してありました。

〉元寇は由比ヶ浜から上陸し、鎌倉市街を抜けて敵が攻めて来る事を
〉想定しているのです。
〉それでは、、鎌倉の町は守れない!
〉でも、、
〉其処まで想定した城造りで有った訳です。
〉元寇は、船で攻めて来る! っと考えれば、
オノズカラその理由は、七里ヶ浜や由比ヶ浜から船で攻め込まれる!
〉海岸には、博多と同じ石築地(元寇防塁)が造られ街を守ったと
〉考えられるが、その遺構は有る様な無い様な、、、
〉ドノみち、数度の津波で破壊されたか埋まってしまったのか?
〉石築地が破られた事を考慮に切岸が在って当然でしょう。


  そんな訳で、
石築地(元寇防塁)の存在をウヤムヤに誤魔化すつもりでおりました。
コメントの有ったおかげで「有隣」の記事を再読し、思いの外の文面にビックリしました。
この文面を前回見た目的は、仏法寺の詳細を調べた時に目にした訳で、由比ヶ浜南遺跡は見ても眼中に無かった訳です。
オボロゲな記憶で有った訳で 改めて元寇を意識してみると石築地(元寇防塁)そのものですね!
他人からコメントをされると、自分自身が気が付かない殻を打ち破る刺激になります。

 防塁の存在は、前記しましたが、場所は、、、
〉有隣 平成15年9月10日  第430号より
〉由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査
〉は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。

 これは、、、下手をすると、
地下駐車場建設により防塁を破壊して駐車場を造った訳でしょうか?
「由比ヶ浜南遺跡」の報告書を見たくなります。

「幕府が鎌倉への直接上陸を恐れた」と言う処が重要と思います。
恐れた気持ちが、巨大な城を造る動機になる訳です。
この件は、今後の課題です。
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コメントより、

2017年02月06日 | 巨城対モンゴル
トテモ鋭いコメントをされた方が居られます。
「鎌倉に博多湾に作られた石築地(元寇防塁)は無かったのか??」
  っというコメントでした。
スグに消去されましたが、、、
その答えに当たる「由比ヶ浜南遺跡」の資料を見た事が有りません。
詳細も忘れ去っていましたが、コメントに答える為に必死で記憶を呼び起こしました。
その成果の「有隣」に書かれた文を引用させていただきます。

有隣 平成15年9月10日  第430号より
〉由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査
〉は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。
〉鎌倉市内では一番海に近い地域を10,000平方メートルの広さが調査で
〉きたことで大きな成果がありました。
〉検出されたのは大きな礎石建物を持つ屋敷を中心とした小規模な建
〉物群とそれに前後する埋葬人骨群です。
   中略
〉異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷
〉大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。
〉この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りま
〉せんが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。
門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木
みたいに太い角材を使っています。
屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。

   中略
〉この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかっ
〉ている屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。防御的な
〉屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。
〉出土している遺物には生活臭がありません。かわらけという灯明皿として使
〉う素焼きの皿は多いんですが、例えば、生活する鍋、釜とか碗、皿類や燃焼
〉施設のかまどなどは全くありません。居住性がほとんど感じられない。
〉それと、何回も建て直されてないこともわかりました。


 以上が抜粋なのですが、、、
元寇防塁と同様な作りで有れば、、、
元寇対策で鎌倉城は作られたと言う根拠に成るのでしょうが、、
もし宜しければ、再度同じコメントを頂けると嬉しく思います。
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鎌倉城と蒙古襲来

2017年02月06日 | 巨城対モンゴル

  寿福寺南岩壁より峰に上がる道。
鎌倉城は三方を山に囲まれた要害で「外敵から鎌倉市街を守る為」とネットでは書かれている。
しかし、
鎌倉城の切岸は、その様に出来てはいない。
鎌倉市内から外に出たくても、簡単に外に出れない様に成っている。
その原因は、鎌倉市内に向けて切岸が在るのです。
七口の出入り以外では、兵の出入りの為の道が有りますが、、
特徴的なのは、寿福寺の南岩壁から源氏山に抜ける道が有ります。

元寇は、鎌倉時代に元(ジンギス・カンの孫フビライ・ハン、当時世界最大の超大国と、最強の軍隊である。)とその属国高麗が日本侵攻した話です。
文永の役(1274年)で元寇が有り、4万の兵と900艘の軍船を見せつけられ脅威を感じた!
対馬の西岸佐須浦を襲い、1週間にわたり残虐の限りを尽くし、島民を惨殺し博多湾に攻め入り、幕府軍は大宰府の水城まで後退した。
文永の役の翌年,元の使者が来航。外交使節の杜世忠は、腰越の龍ノ口において斬首《注※》した。
これが、元寇に対抗する城造りの大きな動機となった筈です。
文献にも残り、実際に見られる砦としては、、文永の役に懲りて、博多湾に石垣を造った。
2~3mの高さの石垣を20㎞の長さで造り、その跡は大宰府の水城と共に現存している。
関西の武士の力でこの石垣を作った様で、九州に領地を持つ一部の関東武士が加わった様です。
この石垣造りに大半の関東武士は関わった様子が無い。
関東の武士は、その間何をしていたのか??  その文献を私は知らない。

博多湾の石垣工作の規模から推測すれば、
鎌倉に元襲来が有る事を覚悟し、関東武士は博多以上の規模で鎌倉で決戦をする城を造った!っと推測するのです。
(城を造った文献は無いが異常に巨大な城遺構は存在します。)
それも、外国の巨大な敵ですから、国力を挙げての総力戦に成る。
国中の武士を動員して守る城の規模です。
以上が
大規模の城を鎌倉で造った根拠と時代背景です。
そして、痕跡は幾らでも在り、一貫性のある考えで切岸と言う名の城壁が鎌倉を取り巻き、
土塁の一段上にある平場が戦う砦としての機能する。

天然の要害が、鎌倉の町を守る????
鎌倉城の遺構が示すモノは、そんな常識を木っ端微塵に砕けます。
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三方を山に囲まれた自然の要害? 3

2017年02月02日 | 巨城対モンゴル
2017-02-02 記
   由比ガ浜より見た住吉城(小坪方向)の切岸。
三方を山に囲まれた要害?
それは守りたい場所が在る前提の話で 守る場所の三方を山に囲む訳です。
鎌倉の都を守る為なら、内側の切岸は不要です。
内側の切岸の在る理由は、鎌倉の都を守る為ではない!
   鎌倉城は、
『元寇と鎌倉で決着する為に城を造った!』と言う訳です。
元寇は船で攻めて来る!
っとなれば海岸から襲来する訳ですから、、、
陸伝いに攻めて来る訳では無いっと考えていた事を想像できます。
鎌倉の都を守る目的は、この時点で亡くなり、元寇退治が最優先します。
元寇を都内に入るのを防ぐために、海岸に防御壁を作った遺構も出土しています。
防御壁が破られたら都に侵入する。
鎌倉市街にいる元寇を三方の山で防ぐ為の切岸となる訳です。

中央アジアからトルコ迄の国の広さは広大で、世界一の武力を持ったモンゴル帝国(大元朝)です。
世界史上最大の艦隊が日本に攻め寄せる訳です。
日蓮が「国難!」っと騒いだだけでなく、
Wikipediaでは、
〉鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶
〉による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報
 〉告もあったとされる。
鎌倉幕府第8代執権北条時宗が鎌倉城を当時世界最大の軍隊に対峙する城が遺構として有る。
根拠は、

対国内の反幕府を相手の城では大き過ぎで、国を二分する戦いでも七口を繋ぐ防衛ラインに兵を配置するのが限界の兵力数で有った様子が伺える。
とは言え、城として優れ、新田軍60万騎に対し、鎌倉軍14万騎で正面攻撃を持ちこたえたのです。
負けた原因は、異常気象で潮が異常に引いた為!
鎌倉城は、対モンゴル帝国に作った城と考えられ、日本の数ある城の中でも特別な城であった訳です。
隣の領主からの攻撃に対処する、、、なんていう国内規模の城ででは無く、
世界一強大な軍隊と日本が対等に戦う城であった訳です。
巨大なモンゴル船団には、日本国中の兵士が力を合わせて戦う必要が有った。
■その為に、巨大な城に成った。
■船団は海から攻めてくる為、由比ガ浜から攻撃が始まる事を覚悟した。
船団は、由比ガ浜と並行して金沢八景の貿易港から攻め入ると考えるのは、当然な話です。
金沢八景の周囲も城郭構造が有ったと考えるべきでしょう。
今から思えば1960年代の金沢八景には奇妙な切岸に相当する物が有ったのですが、、、
この東京湾に面した六浦港の切岸を加えたら 鎌倉城は、更に巨大になる。

その様な訳で、
現在の鎌倉周囲の山を見て、鎌倉は三方を山に囲まれた『天然の要害』等と言うのは、
机上論であり、鎌倉の切岸の全体図を示す調査資料は無い上、鎌倉の地形を調べもしない無知な研究者が憶測で書いた本が風評と成り拡散したものと考えています。
鎌倉山の実態を調べられる鎌倉市民が「鎌倉に城は無い」っと口に出すのは自分で見て考える能力が無いのです。本の権威に縛られ自分の考えを持たない方でしょうね。
必要なのは知識ではなく、常識を疑う 自分なりの視点と考えを持った教養と言う訳です。
物事を理解し、解決するには基礎的資料集めと 統一された思考法と洗練された価値観や知識を矛盾無くマトメル必要が有る。
知識の質、重要性、真偽、等に対して、自身の思考が試される訳です。
教養とは、その様な知識の問題に対して、考えが「無理が有る」とか「嘘だ!」と言う独自の判断ができる。
鎌倉の問題に対し、基礎資料も無いのに判断を下す似非専門家が多いのですが、、、
教養が有れば、資料不足で結論が出せない話になる。
研究者として、根拠の薄弱な結論を出せば、取り返しのつかない汚点になるのですが、、
私の立場?
  「素人で暇つぶしのブログです。 肩書は有りません!」
 書いていることが間違っていたら、、修正すれば問題無かろう~~~!
無責任だ!等と思われる方は、、、 ぜひコメントから非難をしてください。 
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三方を山に囲まれた自然の要害? 2

2017年01月30日 | 巨城対モンゴル
  鎌倉城内側の切岸2(由比ガ浜通りと鎌倉中心部)
 初期の自然な要害の地は、、当然のごとく防衛力には問題です。
それ以降は鎌倉山の城郭の切岸、砦工事となる訳です。
現在残る遺構は、山の隅々まで人手の入った人工の切岸と曲輪が観察できる。
それを証明するのは、第二次世界大戦終結の昭和21年前後に撮られた空中写真が有り、
鎌倉が都市開発されても、城の証拠は個人宅の平地と裏の崖に存在する。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(当初から地図作製の為の立体視出来る写真。)

私は古典文献に興味が無く、鎌倉の古代東海道に興味が有るのですが、、、
鎌倉城に関わる事情、、城造りの為に古代東海道を寸断した事情が有ります。
更に、その経緯と根拠を知る為に最低限の古典文献を知る必要が起る訳です。
 このブログに書いた裏付け資料として後付の調査確認資料として使っています。
ですから古典文献に詳しい訳ではありません。
鎌倉の城郭遺構のオリジナルは太平洋戦争直後まで空中写真で遡れます。
その上で、古典文献は、遺構の根拠に使っています。
 遺構の存在理由が、古典から導き出される。
過去に述べられた鎌倉の研究図書の著者は『鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害の地』
と書かれるのが一般的ですが、、、、
山に囲まれた市街地側にも切岸が在るのを書かれた文献を見た事が無い。
大概は、社寺、住宅等の裏が切岸に成っているので、住宅を造る為に平地を造ったのであろうと、考えられている。
 この考え方の問題は、
個人宅の平地を造るにも、社寺を造る土地にしても、其処まで大掛かりな崖を個人的な資力で造る事は無い。
それでは、この崖は何か?
それは、切岸である!
切岸は、外敵が侵入する事を防ぐ為の構造物です。
鎌倉の市街を守る為ならば、内側に切岸を作る必要は無いのですが、、、
首尾一貫し、統一された考えの基に、鎌倉の山は切岸が造られ、宅地や社寺の裏だけが崖ではなく、
外部から侵入した外敵が山に登れ無い様な、切岸の造りをしている。

次回へ、、、、
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三方を山に囲まれた自然の要害? 1

2017年01月24日 | 巨城対モンゴル
 図は由比ヶ浜より見た鎌倉城内側の切岸1。(スーパーカシバードにて作成)
 
石橋山の戦いは、平安時代末期(1180年)に源頼朝と平氏方との間で行われた戦いです。
石橋山の戦いに敗れ 頼朝、実平一行は真鶴(神奈川県真鶴町)より船で安房国へ入る。
 安房で頼朝は再挙し房総半島より武蔵国へ入った。千葉氏、上総氏などの東国武士が参集して、1か月かけて数万騎の大軍になった。その後10月6日に頼朝は鎌倉に入る。
 
そんな話の背景で、頼朝が鎌倉に入る一ヶ月前の事が吾妻鏡にあります。
〉鎌倉歴史散策の歴散加藤塾別館 吾妻鏡入門
〉  より拝借。
〉治承四年(1180)九月大九日戊午。盛長自千葉歸參申云。
〉至常胤之門前。案内之處。不經幾程請于客亭。常胤兼以在彼座。
〉子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。
〉只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎭狼唳給。縡最初有其召。
〉服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。
〉心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。
〉非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。
 〉又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。
常胤相率門客等。
〉爲御迎可參向之由申之
 
今 居られる場所は、 地形がけわしく守りやすい土地ではない、又先祖の謂れも無い場所です。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い
 
〉城郭研究書の 「日本城郭大系」(1980年著)より引用、
〉  (前略)
鎌倉が三方を馬蹄形に連丘で囲まれた理想的な都城の地形であったためである。
〉千葉常胤は、鎌倉が要害の地であるので本拠地とすることを進言している。
〉  (後略)
 
この赤字の分は、日本城郭大系の著者の創作で原文とは違います。
それ以降は、鎌倉は三方を山に囲まれた『天然の要害』と言う尾ヒレが付き、伝言ゲーム状態と成る。
千葉常胤が進言したのは、頼朝が鎌倉に入る以前の話で、古代東海道が西東に通り抜け、東山道が海蔵寺裏の大堀切より鎌倉市内に入り込んだ、自然な山に囲まれた時代と言えるでしょう。
決して、
現在の様に山裾を切り落とし、人工的な切岸で囲った城構造では無かった。
依って、
現代の鎌倉を鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害』と言うのは、
日本城郭大系に端を発し更に尾ひれを付けた 根拠の無い創作と考えられる。
 
鎌倉は、人工的な工作をされた城で、自然の地形は探すのが困難です。
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