鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 今泉編 2

2009年12月04日 | 忘れ去られた鎌倉
今泉不動の階段です!
階段が苔で緑色に成っているのが判りますか?
鎌倉に苔寺と称するお寺がに幾つかあるんですが、、
回り道を作って、階段を歩行禁止にしてある!
この場所は、その様な細工は皆無です。
さて、
「今泉編1」の写真を見て、、違和感を感じた方は居りませんか?
滝の水量と崖の関係ですが、、、
この様な崖を作るには、、水量が非常に少なすぎる!
そう、、、自然に出来た崖では無いと考えるのです。

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忘れ去られた鎌倉 今泉編 1

2009年12月01日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉市街から北の山を越えた場所に今泉はある。
円覚寺、建長寺、八幡宮等の裏山の北裾野に当たる場所です。
其処には、
江戸時代に栄えた修験場として今泉不動がある。
修験者が滝に打たれて修行する場所です。
これも、鎌倉城の前振りの話ですが、、、
鎌倉には一般観光客が来ない場所にも、本来の鎌倉の顔があるのです。
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忘れ去られた鎌倉 山崎切通編

2009年10月16日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、北から南へ腰越に向け1~4まで山崎の切通しです。
私がバイクで通った時は、暗くて両側は岩壁のトンネルと勘違いした切通しです。
現在は、見てのとおりに広くて、何の感慨も湧かない道となりました。
右手は、切通し岩壁を残してありますが、、、それも、峠以南は上の老人施設を作る際オリジナルから平面的に削った様な工作をしてあります。
写真1は、右手に喫茶店があり、、崖と調和して一休みしたくなる雰囲気で、、、店主はこの地に長く住んでいる方です。それなりの疑問を投げかけると、、面白い話を返して貰える人です。
写真2は、喫茶店脇で昔の状態を維持していると思われる場所。
写真3は、上に老人施設があり、崖を削ってある峠の一番上。
写真4は、峠から下る状態です。

手広の切通しの様な時代を超えた雰囲気を、山崎切通から感じたのですが、、今は写真の状態で何も感じる事ができません。

この切通しを道とすれば、、道でしょうが、軍事目的とすれば、とても有効な堀切と考えられます。
山崎切通を堀切とすれば、、、
海蔵寺裏の大堀切は、、鎌倉市内に容易に入り込める道路!  それを塞ぐのは、
「土の橋」となる訳で、、、土の橋上からは理解できなくても、海蔵寺の裏から大堀切を眺めれば、、、土橋で塞いだ状況が観察できます。
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忘れ去られた鎌倉手広切通し編 10

2009年10月13日 | 忘れ去られた鎌倉
写真の手前は腰越方面に行く。
写真中央の電柱の後ろにある暗がりは、手広の切通し。
更にその先には女坂の登り口があり、坂を上った分女坂の峠は高い位置にある訳です。
道路際は、写真で見る様に崖です。鎌倉では当たり前に在る崖です。
当たり前に在るので、、この場所の様に土地の有効利用と気にしなかったのですが、、、
視点を変えて、
「軍事目的の城壁としての崖であった!!」そんな目で鎌倉周囲を見直すと
七口の切通しは防衛施設の一部であり、万策尽きた最終的な防御施設で言わば本丸で防衛している様なモノと考えられる。
本格的な防衛設備は、七口の外にあり、、二の丸、三の丸に相当する砦の存在が浮かんでくる。
鎌倉の周囲を徘徊し、この様な崖を散見する内に、鎌倉城は現在考えられているより「広がりを持った大規模の防御施設であった」と私は考え始めたのです。
内堀、外堀に相当するのは、多摩川での合戦が実際に有った、分配・関戸河原や、
州崎の合戦の柏尾川です。
こう考えると、、、トンデモナい広がりを持った防衛システムであったと考えるのは、、ぼ輔だけでしょうか??

思い返すに、、、山崎の切通しと言うのが有ります。江ノ島道の一部で、その先が手広の切通しとなります。
その切通しは、現在歩くと舗装され車がすれ違える幅があり、周囲は小学校や老人施設があります。
その際にカフェがあり、コーヒーを飲みながら店の人と話をすると、この道は昔荷車が一台やっと通れる道であったそうな!!
鎌倉の行政で、この切通しの片側を切り崩し道幅を広げたそうです。
話を聞き、私はとても残念に思いました。
でも、
良く考えると、、、一度通った事に気付きました。
30年以上前にバイクでネズミ捕りに出会い、停止の指示をしている警官の脇をすり抜け小袋谷山ノ内川の水堰橋(源頼朝の軍が、鎌倉に出入りする時は、ここで隊列を整え市内に入った)から脇道に入り、. トンネルの様な場所を通り異次元の世界にタイムスリップした感じを味わい深沢に出た。数年後その道を確認したいと試みたがあのトンネルの様な場所が無い!! あれは、夢であったのか???
それから数十年経ち、この時期が、行政で道幅を広げた後であったのか~!と解決できた。
道を知らずに、江ノ島道を走っていた訳です。
それにしても、、歴史があり、時代を感じ、情緒がある道を切り崩して、、なんと言う行政か???
切通し際のカフェには、文化的価値のある場所であるから「喫茶店は建てるな!」
と言ったとか、、行政で景観を壊しておきながら、市民は不許可?結局は許可になった訳ですが、、
北大路魯山人はこの切通しが気に入り、李香蘭やイサム・ノグチがほれ込んでこの地に住んだ切通しだそうです。
世界文化遺産に登録しようなんて、片腹痛い! とぼ輔は思うのです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 9

2009年10月06日 | 忘れ去られた鎌倉

2009-10-06 記載 2024/10修正

「手広切通し編8」の場所から、振り返った写真です。
私道ではなく、これでも昔は江ノ島道と呼ばれた道です。
雪でも降ったら、路面が斜めで、、、キット下に転げ落ちる!

とても自然を感じると思いますが、、、、
決して、放置された自然ではなく住民が小まめに手入れした自然です。
放置された自然は人の侵入を拒み、日帰りの山行き程度の装備では茨が絡み、藪漕ぎでダニのお土産が付く!
人の侵入は拒まれて、、、入り込む気にはなれないでしょう。
この場所は人を受け入れる手入れされた場所です。
現在の鎌倉は、自然保護の名の下に木は生え放題!
それも、自然に生えた樹木ではなく、戦後植林によって植えられた針葉樹が半数を占める。
最悪の例は、
50年前の源氏山は見晴らしの良い鎌倉の町を見渡せる山で、その景観が源氏山公園の価値でもありました。
現在は、樹木が生え過ぎて、、、源氏山公園は緑の壁にサエギラレて見晴らしは無い!  山に登る意味の無い場所に成った。
大きくなった樹木は根を張り鎌倉の砂岩に食い込み破壊が始まり、2019年の台風で樹木は倒れ岩に食い込んだ根が岩ゴト崩れ崩壊した。
古来より鎌倉の様な里山の樹木は、住民の燃料として使われ、適度に伐採され、
人の生活と自然が調和していたのですが、、、
歴史を無視した「歪んだ自然の過保護政策」の結果です。
政治が悪いのか?住民の自然保護団体が悪いのか??
部外者には判りません!
住民にも政治にもポリシー(歴史遺産を守る為の長期戦略)があるとも思えない。

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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 8

2009年10月02日 | 忘れ去られた鎌倉
本当にノドカナ、、、田舎の風景です。
田舎にだって、こんな踏み跡みたいな道は、、ザラニあるもんではない。
その後ろには、歴史に裏付けされた古道があります。(画面中央の踏み跡道も街道ですが、、)
鎌倉の奥の深さですね。
あの、、桐生六郎が武蔵大路より、梶原氏の案内で腰越に向かいこの道を通ったであろう、、800年前から在ったと考えられる道です。
地形から言って、大船から腰越に抜けるにはこの場所以外に良い抜け道はないのです。
大仏から鎌倉に行けば、洒落たカフェがあるし、腰越に行けば、海を見ながらフライドチキンや、イタ飯がある!金を掛けなくても、上質な楽しみ方ができます。


2012/9/20 追記
注:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条
養和元年(1181)九月十六日:桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 7

2009年09月29日 | 忘れ去られた鎌倉
緑のトンネルを抜けると、そこは日溜まりの農村!!
これでも、一応鎌倉の紹介です。
女坂とは名ばかりの急で長い坂です。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 6

2009年09月26日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、女坂中程(写真左)から峠(同右)までの状況です。
特異なのは大半の切通しが 峠の最高部を切通しにしていますが、、
この女坂は、麓である下部が切通しで峠は普通の山道的で手を加えてない。
麓の通過しにくい場所を切通したと考えられる。

 女坂の手広側を陰とすれば、次回は峠を越えると陽の感覚を味わえる腰越側です。
鎌倉の谷戸が面白い! 
次回の場所の様に時代から隔離された別天地であったり、個人の趣向が色濃く反映された以前は武家屋敷跡と考えられる著名人の住む谷戸とか、、
通常の都会の整備され区画された街とは異質な 画一的ではない世界が見られる魅力です。
観光客の目に触れない生活を守れる構造が谷戸にある。
さて、
谷戸の話のついでに、、、谷戸の奥に決まってあるのが崖です。
其処に家を建てた住民が作った崖でしょうか?
そんな事もありますが、、、大半は昔から有った崖!!
何の為の崖でしょうか??
鎌倉市外に向けては、鎌倉城としての、城壁に相当する崖と考えるのです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 5

2009年09月18日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、女坂のその先です。
荷車の類は、無理な坂で、人馬が限界です。
オートバイで、、山坂階段を走るトライアル車なら登れますが、町乗りバイクは登れません!

手広の青蓮寺脇は比較的人目に付く切通しですが、女坂は探す気にならないと見つからない場所です。
でも、地元の人は使うようで良く手入れがされ、道が荒れた様子は無いのです。
のどかな田舎を満喫したい方に最適な1時間程度のハイキングコースです!
帰りは、、大仏や七里ガ浜を回る余裕があります。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 4

2009年09月12日 | 忘れ去られた鎌倉
手広の切通 別ルートを現地で「女坂」と呼ばれている様ですが、坂の勾配はキビシイ坂です。

特徴は「女坂」は上り口が切通しになっており、峰はナダラカで曲りが多い坂です。
青蓮寺脇の切通の方が直線的で短く勾配も楽です。
要は、「女坂は不便だから新しい坂を作った」という考えが合理的という事です。
写真は女坂登り口

鎌倉は、三方を山に囲まれ、この山を城壁に見立てた!
そう言われています。
その先を考察して欲しいのです。
城壁は何処でしょう?
敵が押し寄せる方向に兵を移動する必要があります。
その道は何処??
守る鎌倉幕府の城の概念を知った上で、攻める新田義貞の鎌倉城攻略法が理解できると考えるのです。
おそらく石垣を作らない山城としては、日本一大きな城でしょう。
けっして、三方を山に囲まれた自然の要塞、、、何ていうものではなく、、
自然なままなら、この様な低い山は簡単に攻め落とされる。

実際に起きた事は、
鎌倉軍より数倍の勢力がある新田軍が攻め寄せても落とせない城であったのです。
人工的に防御陣地として如何に工作したか!!
凄まじい防御施設を作ったのですが、、、
その辺りの概要を書いたものは少ない。
かろうじて鎌倉城は、稲村路から攻め込む事ができた。
それも、神のご加護が有ったからと、汐が引いた事を例えられている。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 3

2009年09月05日 | 忘れ去られた鎌倉
手広の切通しは、とても写真で見た目には立派な切通しです。
迫力は、写真で見る限りは凄いでしょ!
その規模は、手広は荷車一台を通す規模!
朝比奈は、大型トラックでも通れそうな規模の違いです。
この手広切通しは、、
実は、もう一つ別ルートが有ります。
このルートは、より古い道と考えられます。
その理由は、
より遠回りである。
峰の高い位置を通る。
この2点からそう考えます。

写真はその上り口です。

武蔵大路にしろ、古代東海道にしろ、、太平記や梅松論を見ると、浮かび上がるものがある。文章を見ても限界がありますが、、
文章の裏にあるものを見るのです。
前回の航空写真もその布石です。

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忘れ去られた鎌倉  番外編

2009年09月01日 | 忘れ去られた鎌倉
前回は古文書を批判の態度で扱いましたが、、
今回は古文書を肯定した形で扱って見ましょう

『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」。
これを肯定すると、吾妻鏡の大仏は深沢に作られたと書かれた処ですが、
現在の常盤や梶原も深沢と考える事が出来ます。
さて、
海蔵寺裏の大堀切(武蔵大路の痕跡)の西側が瓜が谷!JR北鎌倉駅の南に当たる瓜が谷ですが、
鎌倉内外を分ける境界線の場所です。
この瓜が谷に桐生六郎は居たと想定すると、、、
そこで、山之内配水池脇を乗り越えれば、そこは深沢であったと考えられます。
山之内配水池脇は、化粧坂ー葛が原岡神社ー山之内配水池ー山崎台峰の道ー天神山と続く峰通しの道!言わば鎌倉街道の幹線道路で私の記憶が間違いなければ3m幅の道路遺構を検出しています。
峰通しの道としては、鎌倉山中では破格の広い道幅が根拠で幹線と考えます。

では、「やはり桐生六郎は山の峰を乗り越えた!」っとなると峰通しの道を横切る事に成る。
そこまで、単純に考える事はしないのが、ぼ輔の考えです。
谷から峰に上がるには、切岸が邪魔をして峰には上がれない構造が鎌倉城です。
その幹線道路は重要なだけに、、瓜が谷より簡単に上ったら、即鎌倉市内に侵入される事に成る。
依って、峰通しの道を横切様な道は無いはずです。今は自動車で簡単に登れますが!
基は城壁としての機能を持つ山ですから、簡単に乗り越えられてもね、、

海蔵寺裏の大堀切の構造と、武蔵大路の痕跡と考えた時に、この3mの峰通しの道は細過ぎて武蔵大路と考えるのは無理があります。
武蔵大路が峰より低い位置を武蔵大路は通った根拠に切通しがあると考えます。

武蔵大路は、大堀切の先天神山に向け何処を通るのか?
順当に考えれば、北鎌倉女子学園の下のJR北鎌倉駅前に行くのですが、、、
その辺りの考えが情報不足状態です。
ここから先は、今は胸の内に入れたまま、、考えが纏まった時点で、、、

写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省を使用。
天神山ー深沢ー手広ー腰越は、江戸時代の江ノ島道。
大仏切通しとは、異質な位置関係。

薄緑のラインは、古代東海道や、鎌倉内の武蔵大路と呼ばれた場所、六浦道(古代東海道)っと思われる場所と鎌倉郡ガ跡。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 2

2009年08月24日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉の郷土史刊行物に書かれた事は、古代東海道や武蔵大路について鎌倉の山中で細い道である!や初めから触れないスタンスです。
その上で、『新編鎌倉志』で書かれた文章と『吾妻鏡』に昔武蔵大路と呼ばれ場所が鎌倉市内にある事より、解釈が混乱している様子。古文書を批判の態度で扱ってみます。

テーマは、桐生六郎が武蔵大路の場所から深澤から腰越へ向かう道に大仏切通しを使ったと解釈する問題です。

『新編鎌倉志』より
大仏切通について 「大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。

『吾妻鏡』に書かれた事は、
桐生六郎は俊綱の首を持参し武蔵大路に来た。使者を梶原平三へ送り、案内をしてもらう。だが鎌倉中には入れず。深澤から腰越に行くように指示された。
原文では、、、
桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。 (原文は、鎌倉歴史散策加藤塾より引用)

上記の文章を比較すると、『新編鎌倉志』のオリジナルの部分は、「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」です。
「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。」この確信に満ちた言い回しと比較して、、
「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」の文章の曖昧な事に注目してください。
この文章は、、、『吾妻鏡』の知識が有るけど、この道を指しているのかな?? っと疑問符を付けた文章です。

その後の時代になりますと、
『鎌倉攬勝考』には、大仏切通 について「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」と書かれる。
これは、私に伝言ゲームを想像させるのです。

『吾妻鏡』には、、、、、、先自武藏大路被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越。
『新編鎌倉志』には、、、、「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」が加わり、
『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」
大仏切通しを「深澤切通ともも唱へける」と言う結末になった!
風評とか、伝言ゲームの面白い処は、不確かな情報のやりとりで話の中身が変化する事です。
鎌倉の歴史事情通の方がこの問題で揺れ動いている様ですが、、、
大仏切通より西は、常盤里があり、梶原があり、その次が深沢です。
深沢は吾妻鏡にも出てくる地名です。大仏切通しを深沢切通と呼ぶのは無理がある。

はじめから吾妻鏡には、大仏切通しの話は無い。
新編鎌倉志にてバリケードで通過できない廃道を「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」
を加え、誤解の種を作った。
鎌倉攬勝考は、地元民が無関心な使えない名無しの道に対して、新編鎌倉志ネタを転用したと私には読める。

吾妻鏡」最終記事1266年
  この間419年
「新編鎌倉志」(1685年刊)
  この間144年
「鎌倉攬勝考」(1829年刊)

考えられる事は、大仏切通しは現状でも戦跡のバリケードが残り非常に歩きにくい。江戸時代は、当然今より急激な勾配で、使えなかった!と想像すれば、、、使われない道は時間経過(4~500年)とともに名前も消えます。
となれば、名無しの切通しは、「昔は深沢に通じた切通し」となっても不思議は無い。
「深沢に行く切通し」を「深沢切通し」の名詞と解釈間違いし「新編鎌倉志」の知識がその間違えを補強したと、、想像するのですが、、、
古書と言えども、批判精神なく読まれるのは問題があると考える。
質が良い情報と、質の悪い情報を区別する考えが必要と思います。

写真は、手広切通しを逆(腰越方面から手広に向けた)から写したモノです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 1

2009年08月18日 | 忘れ去られた鎌倉
『新編鎌倉志』より
「大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
さて、、
今回のテーマは、武蔵大路より「深沢を経て腰越に向う」道である。

桐生六郎は、主の首を持ち武蔵大路を鎌倉に向かった訳です。
武蔵国分寺脇から町田海老名国分寺脇を通り、大船玉縄城脇から大船天神山の麓まで武蔵大路をたどり着いたのですが、この辺り(天神山の麓、山之内)から先の鎌倉内に入れず立ち往生となった。
新田義貞の鎌倉攻めでも、洲崎の戦いで勝利して山内に向かう時、この天神山を乗り越える必要が有る、、乗り越えた場所が吾妻鏡に書かれた鎌倉の外にある武蔵大路と考えるのです。

大船天神山より深沢を抜け腰越へは古来より道が在ったと吾妻鏡の記述から考えられる。現在確認できるのは、このルートに江戸時代の「江ノ島道」と呼ばれる道があり、古代からの使いまわされた道と考えるのです。
特に深沢より腰越間は山が連なり、この山越えのポイントは手広と呼ばれる場所に限られる。

この手広の青蓮寺脇には切通しが有ります。
その様な訳で、この場所を桐生六郎所が通ったとすれば、「吾妻鏡」にも載った歴史ある道です。
写真は、手広の青蓮寺脇切通しで、通行禁止の立て札から上の状況です。
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忘れ去られた鎌倉

2009年08月14日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉は、とても有名な観光地です。
でも、、、所詮観光地とは、商業主義と結びついた現代の顔です。
その裏には、歴史を刻み続ける忘れ去られた顔もあるのです。
お金儲けの対象にならない場所にある鎌倉らしい場所の話です。
観光客は寄り付かない、観光客用のハイキングコースでもない。
でも、鎌倉の本来は「こんな風景!」っという場所です。

さて、写真の場所は、このブログ「武蔵大路が鎌倉に有る!」2006-09-10
に書かれた「桐生六郎」に絡む場所です。
ですが、御覧の様に不細工な看板を御覧いただけると思います。
見せたいものは、この先です。
次回にご期待を!
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