子どもの中には、いろいろな子がいます。
① クラスの中で、なかなか意思表示をはっきりとしない子がいます。
② 人見知りの強い子がいます。
③ 忘れ物の多い子がいます。
④ 先生にたよって、自分でやらない子がいます。
このようないろいろな子がいるクラスを担当した学級担任がいました。
おとなによっては、それらを次のように注意する人もいます。
①「やりたいのか、やりたくないのか。はっきりしなさい」
②「もっと積極的に人とかかわりなさい」
③「忘れ物ばかりしていたら、社会に通用しないよ」
④「先生ばかりをあてにせず、自分のことは自分でしなくてどうするのだ」
それらはすべて「正論」です。また、教師の中にもできていない子を注意しない担任教師をとがめる人もいました。
しかし、基本的に子どもは発達途上にあります。そこには「できる」・「できない」の個人差があるのです。
できなくても、その生徒をとがめることなく、あたたかく見守ることに徹する学級担任でした。
その教師は、周りの先生からは、「○○先生、あの子のもっとできていないことを注意してくださいよ。
甘やかせてばかりいてはよくないですよ」と言われている教師がいました。
でも、その先生はじっと子どもを見守り、その先生を慕い、3学期頃には「あの子たち変わったわね。1学期とはちがって、成長したよね」と周りの先生から言われるようになっていました。そして、2・3年生ではしっとりとしたいいクラスになっていました。
わたしは思うのですが、何かを育てるのがじょうずな人は、待つことのできる人です。
そして「待つ」ということは、「信じる」ことと同じ意味です。
子どもは、土の中で生きる球根のようなものです。どんな花が咲くかはわからない。
だけれども、きっと美しい花が咲くにちがいない。
その開花の時期はわからなくても、きっとそうなると信じて、ちゃんと水をやり、肥料を与え、日に当て、大輪の花か、あるいは小さなかわいい花かと思いを巡らせ「きっと咲く」と信じて見守ることができる人こそ、子どもを成長させる教師です。
もちろん、ただ見守るだけではありません。その子への日々の声かけやかかわりを欠かしません。
子どもは、待ってもらっている時間の中で、その子のペースで内面を耕していきます。
自分の得意なことを知ったり、やりたいことを見つけ、世の中のルールを受け入れ、自分の中の小さな誇りを育てていきます。
待ってもらうことで心を成熟させていくのです。
そのことを信じることができるのは、今までの教育実践に裏づけされた本人の確信なのです。
変えるべき、変わるべきなのは、実践よりも「正論」(~すべき)はかりを重んじる私たちの考えかたです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます