
丸の内北口前にも南口と同じようにタクシー専用(南口と違って一般車両は進入不可)のロータリーが設置されています。まだこのロータリーはアスファルトの上に簡易的なガードレールを置いただけの造りになっているので「仮ロータリー」との感じでした。今後ちゃんとしたロータリーが整備されるのかもしれません。

丸の内駅舎前の歩行者用広場とロータリーの間には、簡易的な柵が設置されているだけでした。数台程度のタクシーが待機していた丸の内南口と比較すると、こちら北口前ロータリー前には十数台規模のタクシーが待機していていました。

三菱財閥の前身である「海援隊」の関係者の多くがその後政治家になったため、三菱商会(「九十九商会」から改称される)と明治政府は必然的にパイプを持つことになります。元々海援隊はイギリスから武器を輸入し、 薩摩や長州に卸す商いをしていたことと相まって、三菱商会は日本の軍事産業を独占的に担うようになり「政商」と呼ばれることになります。

1878年(明治11年)の岩崎弥太郎の後援者だった大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)や、大隈重信の失脚(明治十四年の政変)によって薩摩閥の力が弱くなると、長州閥と三井財閥による「国をあげての三菱潰し」が始まります。海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭とって三井、渋沢、大倉らの財界人を結集して設立した半官半民の「共同運輸会社」との際限のない価格競争が始まります。

ズームで撮影した北ドームです。昼下がりの時間帯のやや西寄りの日差しによって、ドーム全体がきれいに光り輝いていました。南ドームですと時間帯よって周囲の高層ビルの影の中に入ってしまう機会が多いのですが、北ドームは常に太陽の光が当たっている姿を見ることが多いです。

「国を挙げての三菱潰し」の詳細は省略しますが、三菱商会と協同運輸の死闘の最中の1885年(明治18年)に岩崎弥太郎は病死します。三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して「日本郵船」を発足(1885年9月、資本金1100万円、うち岩崎家出資金500万円)させて、この死闘に終止符を打ちます。この大騒動こそがその後に三菱商会が中央停車場が建設される丸の内の土地を購入する伏線となります。

丸の内北口前から撮影した「丸の内オアゾ・日本生命丸の内ビル」です。撮影地点とカメラの向き、太陽の位置のタイミングが恐ろしいほど一致したためか、最高の青空の色の写真をバックにした日生丸ビルを撮影することができました。

視点を左側へ向けると「新丸の内ビル」が見えます。1952年に建設された8階建ての新丸ノ内ビルヂングを建て替えたもので2007年(平成19年)4月に竣工しました。地上38階地下4階・高さ200メートルの超高層ビルとなっています。解体された旧新丸ビルをイメージした低層棟にはショッピングモールが入っていて、高層階はオフィス棟になっています。

丸の内北口前にやってきました。やはり大手町のオフィスビル街に近い位置にあるためか丸の内南口よりも人通りが多い気がします。

岩崎弥太郎の死後、実弟である岩崎弥之助が三菱商会の再建を成功させた同時期に丸の内の陸軍用地が競売にかけられることになります。しかし荒地同然の丸の内を購入したい者が現れずに競売は中止。その結果、大蔵大臣が岩崎弥之助に頭を下げる形で一括購入を要請する形となり150万円を支払うことで話はまとまります。当時はそれほどの大金を用意できるのは三菱しかないという認識が発端になったからだそうです。

丸の内駅舎の北・南改札口の入り口には大きな雨よけの屋根が設置されています。この大屋根は一部ガラス屋根になっていて、太陽光が屋根の下に降り注ぐ構造になっています。復原工事以前の丸の内駅舎にも雨よけの屋根がありました。しかし屋根に遮られて昼間であっても入口周辺は暗いイメージしかなかったので、これが劇的に改善されています。

丸の内北口前のタクシー乗り場から撮影した丸の内駅舎と駅前広場です。工事用の仕切り板が完全に取り払われて、駅前広場全体を見渡せるようになりました。逆光のためか駅舎や空が真っ白になってしまいました。

駅舎の敷地の路面と、タクシープールの道路の路面の間に段差はなく、完全に平坦になっています。そのため車椅子やベビーカーなども段差を超えずに移動できる構造になっています。

岩崎弥之助は後に中央停車場が建設される丸の内だけでなく、千代田区内の日比谷・数寄屋橋周辺と、神田から水道橋にかけての三崎町周辺の土地も同時に購入していました。しかし土地を購入した後も道路整備や建物の建設は一切行われず、雑草が生い茂るだけの荒地として放置されていました。世間は皮肉を込めて「三菱が原」と呼んでいたそうです。

野ざらしにされていた丸の内地区に変化の兆しが見え始めるのが、明治時代から大正時代にかけて東京市における道路や運河、上下水道、港などの都市施設の計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする「市区改正」という行政的な運動が始まってからです。その中で「東京中央停車場構想」が誕生することになります

1894年(明治27年)にそれまで内幸町にあった東京府庁舎が三菱商会の「私有地」に移転する形で建設されます。場所は現在の東京国際フォーラムが建っている場所です(当時はJR有楽町駅は存在しない)。当時の三菱商会と日本陸軍、東京府との間で一体どのような駆け引きがあったのか緑は気になって色々調べてみましたがどうしてもわかりません。ひょっとするとこれが官営東海道本線延伸と中央停車場建設の布石の一つだったのではないかと推測してしまいました。

東京駅の利用客や見学者の人たちで大賑わいの丸の内北口周辺です。世間一般的には戦前の鉄道建設に日本陸軍の思惑が影響していたという概念は浸透していませんが、まぎれもなくその事実は存在しました。この中央停車場の建設や官営東海道本線の延伸工事は陸軍の主導によって進められていたと言われています。

次回の記事では丸の内駅前広場内に新設された歩行者用通路を通って丸の内南口へ戻ります。