緑には、東京しかない

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向寒の日比谷散策:紅葉にはまだ早い日比谷公園(1)

2012年11月22日 11時56分32秒 | 皇居周辺・城西


日比谷交差点前に面した有楽門から「日比谷公園」の緑地帯を散策していきます。平日の午前中、通勤ラッシュが一段落した時間帯の日比谷公園内はひっそりとした雰囲気というか、閑散としていました。公園内を一周した後は、霞ヶ関の中央省庁街の中を散策してみたいと思います。




まずは日比谷公園の敷地の北東の一角にある「心字池」へ向かいます。土日や祝日になると有楽町方面から日比谷公園へ散策する人々で賑わう石畳の散策道も閑散としていました。




心字池周辺には江戸城の石垣が設置されているなど、非常に立体的な地形が広がっています。江戸時代の心字池周辺は江戸城の日比谷濠と繋がっている内堀でした。また江戸城外郭城門の一つである「日比谷御門」がこの場所に設置されていました。現在は石垣としてその一部が保存されています。




散策道を歩いていると唐突に江戸城の石垣が目の前に現れます。そしてそばには「日比谷見附跡地」の案内標識が設置されていました。街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所(見附)のことで、都内には市ヶ谷見附、四谷見附、赤坂見附など地名として残っています。




日比谷見附跡地の石垣と、鬱蒼とした木々の中に「心字池」の水面が広がっています。都市公園として整備される際に内堀の埋め立て工事が実施された際、公園内に日本庭園を造営することになり、濠の一部が心字池として残されることになりました。上空から俯瞰すると「心」の文字に見えることから「心字池」と命名されました。




心字池周辺は石畳の散策動画きれいに整備されており、回遊式日本庭園として散策を楽しむことができます。




古びた石垣と心字池の水面を見ていると、まさに江戸城の内堀を改築して造成されたものであることがわかります。池そのものはそんなに深さはないように感じられました。




徳川家康が江戸城に入城する以前の日比谷周辺は「日比谷入江」と呼ばれている内海で、現在の皇居周辺は入り江に面した湿地帯でした。天下を掌握した家康は江戸城を築城するために大規模な土木工事を実施します。現在の丸の内や日比谷周辺の湿地帯は大量の土砂で埋め立てられます。




日比谷入江も陸地にするために土砂で埋め立て工事が行われ、水面の一部は江戸城の内堀として残されます。現在の皇居前広場や日比谷公園の地盤はこの時に造成されたのです。




江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれました。当時は現在の霞門を直進する道路で南北に別れており、幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在したのです。




心字池周辺から日比谷や丸の内の高層ビル群を眺めることができます。




日比谷入り江の埋め立て工事は「天下普請」という、城郭の工事や道路整備、河川工事などインフラ整備などの工事によって実施されました。埋め立てに使用された土砂は、神田川の流路を変更するために神田山(現在の御茶ノ水)を切り崩した際に発生した残土が使用されたのです。




心字池から西側を見ると、奥には霞ヶ関の中央省庁のビル群が並んでいるのが見えます。




午前中の早い時間帯だったので、思い切り逆光になってしまいました(汗)




周囲の木々や散策道を無視して、心字池の水面や石垣だけを見ていると本当に江戸城の内堀の脇を歩いているようにしか見えないです。




心字池の南端部から池全体を撮影してみました。柳の木々など多くの樹木に囲まれているのでイケの水面がほとんど見えなかったです。




日比谷見附の石垣を見ていると、まるで朽ち果てたまま放置されている城郭のようにしか見えなかったです。石垣以外にも高麗門・枡形・渡櫓・番所が設置されたいたのですが、明治時代になって撤去されました。




日比谷公園造営時に埋め立てられた内堀は、心字池の南側で直角に曲がり、日生劇場と帝国ホテルの間の道路のルートを通って数寄屋橋で外堀につながっていました。

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