丸の内南口寄りにある路線バス乗り場より撮影した丸の内駅舎です。この位置から撮影すると東京駅の八重洲口や日本橋口前に林立している高層ビル群を背景とした駅舎が写ります。駅舎の手前の大通りを走る車の列が途切れた瞬間を狙って撮影してみました。
1923年(大正12年)9月1日に南関東地方は関東大震災に見舞われました。丸の内駅舎にはまったく被害が無かったのですが、ホームの上屋などが一部倒壊しました。また火災が延焼してきて東京駅付近には夜間に北東側から火災が迫ってきました。ちょうどその頃鉄道省の仮庁舎が駅の北東側にあり、これは焼失してしまいます。火炎が迫る中で駅員は必死の消火・延焼防止活動を行い、どうにか東京駅への延焼は食い止めることができました。
東京駅北側の大手町地区は現在もオフィスビルの建て替え工事が至る所で実施されていて、タワークレーンが立ち並んでいます。丸の内地区は2000年代にほぼ全ての再開発工事が終了していますが、大手町地区は今後数年間は続きそうです。
中でもみずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店)と大手町フィナンシャルセンター跡地の再開発事業である「大手町1-6計画(通称:東京プライムステージ)」の建設作業は佳境に入ってきています。地上38階地下6階・高さ200メートルの高層ビルは大手町地区の中では最大規模を誇ります。
東京駅とともに丸の内ビジネス街も延焼を免れたため、震災後急激に発展していくことになります。また行幸通り(東京都道404号皇居前東京停車場線)は東京駅開業時に堀端まで完成していたのですが、震災復興事業に際して外苑内までの延長が行われ、街路樹や街灯なども統一して整備されて、いよいよ「帝都の玄関」「天皇の駅」としての性格が強調されることになりました。
その「行幸通り(東京都道404号皇居前東京停車場線)」を突っ切って新丸の内ビル前へ向かいます。以前の行幸通りといえば、2010年(平成22年)4月12日に歩道兼馬車道として交通開放された後はそんなに人通りが少なかったイメージしかないのですが、丸の内駅舎開業後は多くの人々で賑わっています。
山手線の環状運転構想がようやく実現することになり1920年(大正9年)に残る東京-上野間が着工されました。これにより1925年(大正14年)11月1日に東京-上野間が開通して山手線の環状運転が開始され、東京駅が東北本線の起点となったのです。また京浜線電車も上野まで延長運転されたが、東北本線に乗り入れても京浜線の名前のままでした。
この東京-上野間の電車運転開始による利便性の向上は著しく、郊外と都心の間での輸送量は激増し、結果的に混雑緩和のために八重洲口の開設の契機となります。八重洲口については、木造の長い跨線橋を造って乗車通路と結ぶことで1929年(昭和4年)12月16に開設されたのですが、当初は八重洲側では近距離の電車区間のみ乗車券を発売していました。
満州事変に伴う軍需景気の拡大によって東京駅の旅客者数は激増し、ホームと線路の増設工事が開始されます。1937年(昭和12年)(資料によっては1938年)に東京駅第5プラットホームに着工されました。9番線となる1線2柱式の高架橋と、10番線から12番線となる3線3柱式の高架橋が建設され、プラットホームは幅12メートル、長さ300メートルとされました。
大陸での軍事行動に伴い輸送力増強とスピードアップが求められるようになったことから、1940年度(昭和15年度)には弾丸列車の計画が始まります。これは東海道本線に標準軌(当時の言葉では広軌)複線を増設するという、後の新幹線につながる計画で、東京におけるターミナル駅はいくつか案があったが東京駅に乗り入れる案もありました。東京駅に乗り入れる案では、建設に取り掛かっていた在来線用第7プラットホームよりさらに八重洲側に幅15メートル、長さ400メートルのプラットホームを到着用2面、出発用2面の合計4面増設する計画となっていました。
丸の内ビル低層棟前から撮影した丸の内駅舎中央部建屋です。背後には八重洲口にそびえ立っている「グラントウキョウノースタワー」の巨大な高層ビルが写っています。
行幸通り(東京都道404号皇居前東京停車場線)の東端部に立って丸の内駅舎を正面から撮影してみました。以前までは駅前広場に工事用の仕切り板やプレハブ小屋が建っていたのですが、復原工事の完了に伴って全て撤去されました。駅舎全体を見渡すことができます。
1945年(昭和20年)5月25日22時30分頃から約2時間半に渡ってB-29約250機による東京空襲が行われ、この際に丸の内駅舎降車口(北口)付近に焼夷弾が着弾して炎上します。駅員総出で消火活動に当たったものの火勢が強く駅舎全体に延焼したため、重要書類の搬出と旅客の避難に努めました。結果的には丸の内駅舎や隣接してるプラットホームなどが全勝する被害を受けました。
終戦時の丸の内駅舎は屋根組の鉄骨は焼けただれて垂れ下がり、床板コンクリートも穴だらけになっているような状態であった被災度が激しく構造体の鉄骨や煉瓦の強度に不安の持たれるところでありました。東京大学教授の武藤清の総合診断を受け、最終的に当時の運輸省建築課長伊藤滋の裁断により、赤煉瓦部分をできるだけ残しつつ被害の大きな3階を取り壊して2階建てにし、乗車口・降車口のドーム丸屋根はピラミッド型に、屋根の複雑な塔を廃して直線的にし、入手困難な鉄骨のかわりに木の角材を用いて工事を行うことになります。
一方の八重洲駅舎は焼失を免れたため、駅機能はしばらくの間八重洲側に集中することになった。日本橋・京橋方面の復興が早く乗降客数の増加が著しかったこともあり、総工費2000万円余りをかけて当時としてはスマートな木造2階建ての駅舎が1948年(昭和23年)11月16日に完成し、面目を一新します。ところが完成して半年ほどの1949年(昭和24年)4月29日10時30分頃、駅舎内日本食堂の1階工事現場から工事人夫のタバコの火の不始末により出火して全焼してしまいました。
新丸の内ビル前から撮影した丸の内駅舎です。次回は新丸の内ビル低層棟の7階にあるオープンテラスへ向かいます。