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洋風花壇として整備されている「第一花壇」へやってきました。この花壇周辺もそんなに人通りは多くはなく、閑散としていました。花壇の中では工事が行われていました。改めて日比谷公園を散策していると、東京都心部のど真ん中にこんなに緑豊かな緑地帯が綺麗に整備されているのかと驚きます。
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芝生広場の中は養生中のためか入ることができなかったので、散策道の中を歩いていきます。
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東京都心部の中枢でありながら、西洋庭園の中を散策している感覚に囚われます。大阪都心部にある中之島公園の雰囲気にも似ています。第一花壇の目玉の一つであるバラの花壇も所々で咲いているのが見えました。
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明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれます。明治4年(1871年)に日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)日比谷練兵場と改称されます。その後、練兵場は明治21年(1888年)青山火薬庫跡、現在の明治神宮外苑に移されました。周囲に官庁街が整備され手狭になったためと説明されることが多いが、竹橋事件が影響したとする説もあります。
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同時期の明治16年(1883年)には日比谷公園に隣接している場所には、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である「鹿鳴館」が建設されています。当時は日比谷・丸の内一帯は広大な更地であり、官営東海道本線の中央停車場延長は大正時代まで待つことになります。
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日比谷公園の敷地の中央部に位置する「噴水広場」へやってきました。お昼時の時間帯になると、日比谷一帯のオフィス街からビジネスマンの人たちや、霞ヶ関の中央省庁に務める人達で賑わうことで有名ですが、閑散としていました。
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噴水広場を抜けて一度「日比谷門」の方へ戻ります。
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日比谷公園の西側に面した門である「日比谷門」へやってきました。この門の前から「日生劇場」や「帝国ホテル」の建物がよく見えます。
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日比谷門前から公園内のメインストリートを歩いて「雲形池」へ向かいます。メインストリートといっても大型バスが余裕で末違えるくらい道幅が広いです。
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しばらく歩いていると洋風レストランの「日比谷松本楼」のシックな雰囲気の建物が見えてきました。
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1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンしました。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどの人気でした。
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日比谷公園のど真ん中にあるという場所柄か、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件など政治的な活動が行われていました。1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月には遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、約7年に渡り営業できない日々が続きました。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切ることになります。
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関東大震災によって一度倒壊した後に再建された二代目の建物は1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、その中で左翼過激派学生の投じた火炎瓶が松本楼を直撃し焼失の憂き目に合います。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要しました。
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松本楼の建物脇には「首かけイチョウ」と呼ばれている大木のイチョウが植えられています。このイチョウは日比谷公園開設までは日比谷見付(現在の日比谷交差点)にあったものです。1901年(明治34年)に道路拡張工事の際に伐採されようとしたのをこの公園の設計者であった本多静六(ほんだせいろく)博士が、「私の首を賭けても移植を」と東京市参事会議長の星亨(ほしとおる)氏に懇請し、イチョウを今の場所まで450メートル移動させたことから名付けられました。
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日比谷松本楼の創業者である小坂梅吉は銀座三丁目で「小松食堂」という名前のレストランも経営していました。梅吉氏の息子である小坂武雄は戦後すぐの1946年に「小松ストア」というファッションストアを開業しています。現在のユニクロ銀座店がある敷地です。
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3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場しました。2003年には創業100年を迎え、現在に至っています。
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少し離れた場所から撮影してみると、まるで緑のトンネルの中を歩いているみたいです。
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国会議事堂や霞ヶ関の官庁街、大企業の本社が建ち並ぶ日比谷地区の中心に位置する日比谷公園。大正デモクラシーの中、東京市電賃上反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点としてたびたび利用されてきました。