
秋の季節に咲き乱れるコスモスが全て枯れ果てて、来年の春に咲き誇る菜の花畑への植え替えのために、養生中の「お花畑」越しに、汐留シオサイトの高層ビル群を撮影しました。

お花畑周辺にも芝生広場が広がっているのですが、この日は人通りがほとんどなく、無人状態でした。

壁のように林立している汐留シオサイトの高層ビル群は、1987年(昭和62年)の国鉄民営化まで、汐留貨物駅の広大なヤードが広がっていたのです。

汐留東京ビルディング(コンラッド東京)と、電通本社ビルをズームで撮影しました。汐留シオサイトの高層ビル群の全ての高層ビルが竣工し終わったのは、2005年です。

今はない汐留貨物駅は、日本最初の鉄道路線である官営東海道本線の起点として開業した新橋駅(初代)にあたります。現在の新橋駅は第一京浜(国道15号線)を跨ぐ位置に設置していますが、元々の新橋駅はここにあったのです。

1914年(大正3年)に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止されます。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に電車線の駅であった烏森駅が新橋駅(2代目)と改称しています。

菜の花畑の苗木を養生中のお花畑、ネットが架けられているのは、苗木がカラスなどの鳥たちに捕食されるのを防ぐためなのでしょうか?

そして国鉄民営化の直前の1986年(昭和61年)の11月に、この汐留貨物駅は廃止されました。当時は、貨物輸送の需要が鉄道からトラック輸送へのモーダルシフトが行われていた時期でした。1980年代後半から、日本全国で高速道路網が急速に整備されてきたことは記憶に新しいですね。

1987年(昭和62年)の分割民営化後は、旧汐留駅跡地は日本国有鉄道清算事業団へ移管され、国鉄の長期債務を返済するための売却対象地で最も注目されていました。

お花畑脇にひっそりと建っている「旧稲生(いなぶ)神社」の社殿です。浜離宮庭園内に天明(1781年~1789年)、稲荷神社として建立されました。その後、明治時代に同じ浜離宮庭園内の現在の場所に移転してきたそうです。

その後の再開発では民活と呼ばれる民間資本の導入が検討され、中曽根康弘内閣の行政改革政策の象徴ともなったのですが、東京の都心部にある広大な敷地の売却はバブル景気による地価高騰が更に過熱するという理由でその実施は延期され、いわゆる塩漬け状態にされました。

1990年代前半の時代の汐留貨物駅跡地には、広大な空き地として放置され続けてきたことは今でも覚えています。1995年に開通した「ゆりかもめ」も、開業後しばらくは汐留駅は「通過」扱いされていたのです。

旧稲生(いなぶ)神社の社殿前から撮影したお花畑と、汐留シオサイトの高層ビル群です。実際の再開発工事は1995年から開始され、その際に下記の旧新橋停車場跡などが発掘されました。その後、2002年以降には同跡地に汐留シオサイトとして事業者用の高層ビルが次々と竣工しました。

国鉄時代の遺産である日本全国の貨物駅の再開発工事ですが、「大阪最後の一等地」と呼ばれている梅田貨物駅の再開発工事(2期工事)が残っています。1期工事は「グランフロント大阪」として、2013年4月末に開業しています。

旧稲生(いなぶ)神社の脇を通り抜けて、水上バス乗り場方向へ向かって歩いていきます。この辺りには梅林が散策道に沿って整備されています。

散策日の明け方まで雨が降っていたので、散策道周辺は局地的に水たまりが出来ていました。カラスなどがえさを探しているみたいです。

銀座の繁華街や、新橋や汐留シオサイトのオフィス街と、目と鼻の先の場所にこんな広大な緑地帯が広がっているとは驚きですね。
