緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

12月の日比谷公園:初冬の心字池や石垣周辺を散策する PART2

2013年12月23日 20時00分00秒 | 皇居周辺・城西


心字池の石垣の上の散策道から、日比谷公園の緑地帯を見渡していきます。平日の午前中の時間帯の日比谷公園内は、人通りも少なくて閑散としていました。




心字池の周囲には散策道がしっかり整備されていて、回遊式日本庭園の風景が広がっています。




心字池周辺はイチョウやもみじの木々が植えられてはいないので、紅葉の風景はそんなにありません。一年を通して照葉樹林の木々が作り出す似たような景色です。




冬季にかけて竹材で覆われる松の木々をズームで撮影しました。




石垣の上は木々の枝がせり出している個所があり、周囲は夕方のように暗かったです。




石垣の上から、日比谷公園の緑地帯の西側に広がっている霞が関の中央省庁街の高層ビル群が見渡すことが出来ます。




しばらく心字池の水面を見渡していると…。




今の時期の心字池で姿を見ることが出来るシロサギがいました。水中の中のエサを探しているのでしょうか?




心字池の西側に広がっている「第一花壇」の敷地内をズームで撮影しました。




この日は大変寒かったですが、風がほとんど吹いてはいなかったので、心字池の水面には周囲の木々が綺麗に写り込んでいました。




正午の時間帯になると、周辺の官庁街やオフィスビル街で働いている人たちが昼食や休憩で、日比谷公園内は賑やかになります。




石垣の北端部から北側を見渡してみると、「内堀」の広大な水面が広がっていて、奥には丸の内や大手町の高層ビル群が見えます。手前側を通っているのは晴海通り(国道1号線)です。




広大な内堀の水面の向こう側には「皇居前広場」の緑地帯が広がっています。皇居前広場内も紅葉が見ごろを迎えているのではないでしょうか。




心字池の水面を上から見下ろして撮影しました。そんなに深くはないみたいですね。




大噴水広場や第二花壇方向を撮影してみましたが、鬱蒼としている木々に隠れてしまっています。日比谷公園の南側に広がっている「日比谷シティ」の高層ビル群が見えます。




日比谷交差点に到着しました。これで12月の季節の日比谷公園の散策は終わりです。師走のJR有楽町駅界隈では宝くじを買い求める人たちの行列が出来ているなど、年末の風景となってきています。



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12月の日比谷公園:初冬の心字池や石垣周辺を散策する PART1

2013年12月23日 08時00分00秒 | 皇居周辺・城西


江戸時代、徳川政権の遺構でもある「心字池」の散策道を歩いていきます。この日は大変寒かったので、心字池を眺めることが出来るベンチで休憩している人の姿はほとんどありませんでした。




現在の心字池がある場所は、江戸時代は江戸城の外濠の水面が広がっていた場所です。現在の日比谷交差点(日比谷公園の北東角)から南へ向かって伸びていた外濠と、濠の水面を取り囲む石垣で覆われていました。




日比谷交差点(日比谷見附跡地)から南へ伸びていた外濠の水面は、帝国ホテル本館付近で東側へ直角に曲がり、JRの高架橋の下付近で外濠(現在の外堀通り)に合流していました。




江戸時代以前は「日比谷入江」と呼ばれている東京湾の海面と湿地帯が混在していた日比谷公園ですが、徳川家康の土木事業「天下普請」によって、大量の土砂で埋め立てられました。




江戸城日比谷御門のすぐ外に位置し、江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれていました。幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在しました。




明治時代になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれます。明治4年(1871年)には日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)には「日比谷練兵場」と改称されました。




現在の丸の内の高層ビル群が広がっている界隈も明治時代初期は、雑草が生い茂る荒れ地になっていました。大正時代になって中央停車場(現・東京駅)が建設され、オフィス街へと変貌していくのです。




心字池周辺の黒松の木々は、冬季になると竹で樹全体を覆う作業が施されます。その準備のための木材が地面に置かれていました。




江戸時代からそのままになっている外濠の石垣を撮影しました。200年以上も現存している城郭の石垣というのは、全国的にも珍しい存在なのではないでしょうか。




心字池を北側から、その全景を撮影しました。江戸時代には、江戸城の門の一つである「日比谷見附」がこの辺りに広がっていました。




官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたのですが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断されました。1888年11月には内務省東京市区改正委員会において古市公威・芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示されます。




日比谷見附から南側へ伸びる外濠の水面については、濠の水面を埋め立てる際に一部を「心字池」として埋め残し、日本的な要素も残して回遊式庭園として整備しました。




日比谷公園の北東角に面している「日比谷交差点」が見えてきました。




心字池の石垣の上にも散策道が整備されていて、ベンチなども設置されています。5メートルほど周辺よりも高い石垣の上から、日比谷公園内を見渡していきます。




石垣の上から心字池を見渡していきます。



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