緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真冬の丸の内パークビル:三菱一号館と丸の内ブリックスクエア PART3

2014年01月10日 20時00分00秒 | 東京駅周辺


丸の内ブリックスクエアの中庭内から見上げて撮影した丸の内パークビルです。容積率は基本の1300パーセントに加え、東京駅の130パーセント、都市再生特別地区に基づく三菱一号館美術館の文化施設としての100パーセント、地域冷暖房プラントの設置による35パーセントをそれぞれ積み増ししての合計1565パーセントとなっています。




再建された三菱一号館の建物内には「三菱一号館美術館」が設置されていて、19世紀の近代美術を中心とする美術館で、企画展を年間3~4回開催されています。




美術館前から振り返って、丸の内ブリックスクエアの中庭を見渡してみました。日本で最高の立地条件の中に建っているオフィスビル街の中に緑豊かな空間が整備されています。




この日は休日だったので、丸の内のオフィス街は無人状態でしたが、最近のこの界隈には商業施設が開業して来ているので、土休日や祝日でも賑わっています。




現在の丸の内パークビルの複合施設が建っている場所には、かつて「丸の内八重洲ビル」「古河総合ビル」「三菱商事ビル」の三つの高層ビルが建っていました。




丸の内パークビルの低層ファサード部分には、2006年7月に解体された「丸の内八重洲ビル」の壁面の一部が保存される形で残されています。とは言っても周囲には説明板も何もないので、事前の知識がないと全く気が付かなかったです。




かつてこの場所に建っていた「丸の内八重洲ビル」は、かつて三菱の建築を担当する部門であった「丸ノ内建築所」の事務所として、1891年(明治24年)に建てられた建物跡に設けられた「三菱運動倶楽部」の諸施設が所在していた場所でした。




その「三菱運動倶楽部」の建物が1925年(大正14年)に取り壊され、跡地に「丸の内八重洲ビル」の建設工事が1926年(大正15年)に起工され、1928年(昭和3年)に竣工しました。




JPタワーの裏側の大名小路から丸の内パークビルの低層部の全景を撮影しました。手前側の石積みの美しい壁面が丸の内八重洲ビルの保存壁(上層階は高層オフィスビル)、奥に見える赤レンガ壁が三菱一号館です。




東京中央郵便局の裏側にあった丸の内八重洲ビルといえば、この石積みの壁面と尖塔が特徴的な建物でした。尖塔もそれらしく復原されています(後述)。




三菱東京UFJ銀行本店ビル前から、丸の内パークビルの保存壁を真正面から撮影しました。この日は休日だったので、高層オフィスビル内は無人状態になっていました。




1937年(昭和12年)に三菱地所株式会社が設立された後は、三菱合資会社所有のもと三菱地所が管理を行っていたものの、1945年(昭和20年)3月に三菱合資会社本社より、敷地・建物が当時の350万円で現物出資として三菱地所に譲渡されました。




終戦後は1946年(昭和21年)4月に占領軍に接収され、1956年(昭和31年)に返還されるまで米空軍宿舎「八重洲ホテル」として使用されていました。ちなみに、200メートルほど離れた場所に建っている第一生命館は、GHQの本部として活用されていました。




バブル崩壊後の1990年代は、都心部西側の新宿や渋谷などの副都心の開発が進み、丸の内地区の相対的な地盤沈下が起こりました。当時の日経新聞に「黄昏の丸の内」などと書かれてしまう程だったそうです。




そして2000年代に入って丸の内の壮絶な逆襲が始まることになります。2004年に三菱地所は「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、本建物を含む3区画を取り壊し、跡地に丸の内パークビルディングおよび、かつて文化庁が重要文化財指定を検討する中、三菱地所が抜き打ちに解体しました。




そして2009年4月末に丸の内パークビルは華々しく開業しました。そして2014年現在、東京駅周辺の再開発工事は猛烈な勢いで進められていて、新宿や渋谷などの副都心を追い抜きました。




丸の内パークビルの低層階部分の全景を撮影しました。石積みの保存壁面と、尖塔部分がそれらしく造られています。これで真冬の丸の内パークビルの散策は終わりです。




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真冬の丸の内パークビル:三菱一号館と丸の内ブリックスクエア PART2

2014年01月10日 14時00分00秒 | 東京駅周辺


雲一つない快晴の青空の中にそびえ立っている丸の内パークビルディング、2012年3月期の売上高20兆1263億円(連結)、米国基準収益:5兆5658億円を誇る総合商社「三菱商事株式会社」の本社が入居しています。




馬場先門通りから撮影した丸の内パークビルの低層部分です。この場所にはかつて、三菱商事ビルヂング・古河ビルヂング・丸ノ内八重洲ビルヂングの3つのオフィスビルが建っていたのですが、2008年から再開発工事が始まりました。




敷地内に復原されている「丸の内一号館」を撮影しました。1894年(明治27年)から1968年(昭和43年)にかけてこの場所には「三菱第1号館」のビルがあり、2009年の再開発工事の中でレプリカとして復原されました。




丸の内最初の洋風貸事務所建築としての「第1号館」である旧建物は、三菱の建築顧問であったジョサイア・コンドルによりイギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計されました。




丸の内仲通りから撮影した、三菱一号館を含む「丸の内ブリックスクエア」の全景です。




竣工当初においては三菱合資会社本社、第百十九国立銀行(後の三菱合資会社銀行部、三菱銀行)本店、高田商会が設けられたほか、貸事務所として坪1円から1円50銭で貸し出されたとされています。




丸の内仲通りを横切って、丸の内ブリックスクエアの中を散策していきます。




丸の内仲通りのイチョウ並木道は、紅葉が全て終わって枯れ木状態となっていました。年末年始にかけて夜間の時間帯にはイルミネーションが施されています。




1960年代の高度経済成長期、建物を所有している三菱地所は一号館を取り壊して新しいオフィスビルを建設することを決めます。そして1968年(昭和43年)の3月に取り壊されました。




ひっそりとした雰囲気に包まれている丸の内仲通り沿いのオフィス街ですが、通りに面したブランド街周辺は賑わいを見せていました。




三菱1号館の跡地には地下4階地上15階建ての「三菱商事ビルヂング」が1971年(昭和47年)に竣工しました。その約30年後の2004年に「丸の内再構築」構想が始まります。




丸の内ブリックスクエア内の緑地帯として整備されている広場の中を散策していきます。年末の時期の散策だったので、広場内の噴水にはクリスマスツリーが設置されているようですね。




クリスマスツリーをすぐそばから撮影しました。「ディズニーくまのプーさん」をモチーフとした、黄金のクリスマスツリーとなっていました。




高層オフィスビルと三菱1号館の間に整備されている「丸の内ブリックスクエア」の広場内には、木々や散策道が綺麗に整備されていた、ベンチで休憩している人の姿が見受けられました。




この広場を取り囲むように、36店舗からなる商業ゾーンが整備されています。




広場に隣接して建っている三菱1号館の建物内にも美術館やカフェ、ミュージアムショップなどが併設されています。




三菱1号館前からクリスマスツリーを振り返って撮影しました。



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真冬の丸の内パークビル:三菱一号館と丸の内ブリックスクエア PART1

2014年01月10日 08時00分00秒 | 東京駅周辺


12月下旬の平日、JR有楽町駅の北側のオフィスビル街を通り抜けてしばらく歩くと、赤レンガの建物と高層オフィスビルの複合施設「丸の内パークビルディング」が見えてきました。この建物周辺を散策していきます。




2009年4月末に竣工した丸の内パークビルディングを見上げて撮影しました。地上34階地下4階建て、高さ170メートルの高層ビルで、設計者と建築主は三菱地所、施工主は竹中工務店となっています。




丸の内パークビルの低層階として復原された「三菱一号館」の赤レンガ壁の建物です。建物内には商業施設や広場、美術館などが併設されている「丸の内ブリックスクエア」として整備されていて、後ほど散策していきます。




地下1階から4階までは商業ゾーンとして、それより上の階はオフィスとして利用されていて、新日鐵住金、三菱商事、三菱商事マシナリ、森・濱田松本法律事務所などの本社・本部が入居しています。




「三菱村」と呼ばれている丸の内といえば、丸ビルや新丸ビルがその象徴になっています。しかし戦前の三菱財閥をルーツとする現在の「三菱グループ」の総本山にふさわしい丸の内パークビルなのですが、あまり話題にならないですね。




丸の内パークビル内の入居企業の中核「三菱商事本社」は三菱グループの総合商社であり、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅と共に、いわゆる五大商社の一つであり、三菱東京UFJ銀行、三菱重工業と並んで「三菱グループ御三家」の一角を占めています。




色鮮やかな赤レンガ壁が綺麗な三菱一号館、すぐ近くにある東京駅の丸の内駅舎にもデザインが共通している個所が多いですね。




日本の総合商社の中でトップを誇る「三菱商事株式会社」、2013年3月期の売上高は20兆2072億円、2位の伊藤忠商事の12兆5516億円を引き離して、ダントツの規模を誇る総合商社なのです。




2009年4月に丸の内パークビルが建設される以前のこの場所には「丸の内八重洲ビル」という古いビルが建っていました。再開発工事のために全て取り壊されたのですが、その旧ビルの一部が高層オフィスビルの一角に保存されています。




復原・保存されているという「丸の内八重洲ビル」の地上部ファサードの部分をズームで撮影しました。後ほど庭園内を散策した後に、保存壁周辺を観て回ることにします。




馬場先門通りを回り込んで、丸の内ブリックスクエアの広場へ向かいます。三菱商事株式会社のルーツは、日本で初めての株式会社といわれる坂本龍馬の海援隊が近江屋事件後に後藤象二郎に委ねられ、その後岩崎弥太郎に受け継がれて九十九商会となった企業の流れを汲んでいます。




丸の内パークビルの高層オフィスビルを見上げて撮影しました。ウェイブを描いている街壁面のデザインが美しいと思いました。建物のデザインも一流、入居企業の「格」も世界一と、文句のつけようがない高層ビルですね。




現在の大阪市中央区の堀江地区に本社を置いていた「九十九商会」は、後に、三菱商会、三菱蒸汽船会社(後に郵便汽船三菱会社として現在の日本郵船が分離)、三菱社と変遷していきます。




東京国際フォーラム前から見上げて撮影した丸の内パークビルディングの全景です。




江戸時代からの歴史を持つ三井や住友と違い、明治時代に入って誕生した「三菱商会」は、明治政府との結びつきを深めて急速に成長していくことになります。三菱財閥の社訓は「三菱は国家なり」、まさに三菱の発展こそが国家の発展に結びついていきます。




大正時代に入ってから第一次世界大戦にかけて、取り扱い品目数の飛躍的向上をみたため、小弥太は各事業部門を独立させ、三菱合資営業部は「立業貿易」の方針に則り、1918年(大正7年)に総合商社である「三菱商事」として独立した経緯があります。



第二次世界大戦後は財閥解体によって解散し、多数の会社に分裂したのですが、1954年(昭和29年)に大合同を果たして復活して現在に至ります。南側から見上げて撮影した丸の内パークビルディングです。



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