緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

再び上野の森美術館「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展」を観てきました(前編)

2012年08月15日 14時01分44秒 | 台東・上野周辺


昨日(2012年8月14日)、お盆の真っ只中に再び上野の森美術館「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」を観てきました。2002年にスイス・バーゼルの古代美術博物館にツタンカーメンの副葬品が展示されたのを皮切りにこれまでドイツ・ボン、ロサンゼルス、フロリダ、シカゴ、フィラデルフィア、ロンドン、ダラス、サンフランシスコ、ニューヨーク、オーストラリア・メルボルンの11カ所を巡回してきましたが、日本では大阪の旧サントリーミュージアム(大阪天保山特設ギャラリー)において2012年3月17日から6月末まで(大好評だったので7月16日まで延期)まで開催され、93万人が訪れるなど大好評だったそうです。そして8月4日(土)から12月9日(日)まで東京の上野の森美術館で開催されています。大阪会場では平日でも2時間待ちが当たり前だったそうですが、東京会場でも初日から入場整理券が配られるなど大人気となっています。
ちなみにこちらは2012年5月の大阪天保山特設ギャラリーのツタンカーメン展の記事を書かれた方ですが、ご紹介させてください。
ツタンカーメン展大阪会場の混雑 - ROSSさんの大阪ハクナマタタ



「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」
会期:2012年8月4日(土)~12月9日(日) 
※大阪では大好評のため会期が延長されたので、もしかしたら東京でも延長される可能性がありますね。
開館時間:10:00~18:00(最終入場17:00)
※8月11日から8月19日までは9:00~18:00(最終入場17:00)
会場:上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)
最寄駅:JR上野駅から徒歩3分・東京地下鉄銀座線と日比谷線上野駅から徒歩5分・京成上野駅から徒歩5分
お問い合わせ:ハローダイヤル(オペレーター対応)03-5777-8600 ツタンカーメン展東京事務局0180-933-882
当日券:会場窓口とJR上野駅構内「エキュート上野チケットショップ」で扱っています。
平日 一般2700円 高校生1800円 小・中学生1400円(土・日・祝日は300円増し)
主催:フジテレビジョン/産経新聞社/キョードー東京/ぴあ/ツタンカーメン展実行委員会
後援:エジプト考古最高会議/エジプト観光省/駐日エジプト大使館/外務省/文化庁
監修:ザヒ・ハワス博士(元エジプト考古大臣)
展示協力:エジプト考古学博物館
公式サイト:KINGTUT ツタンカーメン展 ~黄金の秘宝と少年王の真実
     



1922年11月6日にイギリス人考古学者ハワード・カーター氏によってエジプト・テーベ(現ルクソール)に存在する王家の墓で発見された「ツタンカーメン王墓(KV62)」。ラメサス6世の墓の入口の下4メートルのところに石段を発見、さらに小石で塞がれた通路を8メートルほど掘り進めると、突き当たりに封印された部屋が現れ、壁の向こうに黄金の品であふれた部屋が現れたのです。発見された服飾品などは首都カイロにあるエジプト考古学博物館に所蔵されています。その宝物を大阪や東京で見ることができるのですから、大都会やその周辺部に住んでいるというのはそれだけで特権なのかもしれないです。

展示エリアは上野の森美術館の1階と2階の展示室で、全体的に大きく7つのテーマに分かれています。
1.ツタンカーメンの世界(新国王時代とは)
2.古代エジプト人 スピリチュアル・ワールド
3.ツタンカーメンのミステリー
4.世紀の発見ツタンカーメン王墓
5.ツタンカーメンの真実
6.黄金のファラオたち
7.新たなるアプローチ
※各テーマについては次回の記事で掘り下げてみます。

ツタンカーメン展の展示では古代エジプト王朝の王家の人間の固有名詞や、王家の谷周辺の地名などが普通に出てくるので事前勉強をしないと観ていてもわけがわからなくなります。古代エジプト王朝の歴史や王家の谷の詳細などを事前学習するとこのツタンカーメン展はすごく楽しめます。特にツタンカーメンが王位に就いていた「古代エジプト第18王朝」の詳細を集中的に勉強するといいかもしれません。それとツタンカーメンの生い立ちや、古代エジプトで王のことを指す「ファラオ」についてもウィキペディアで調べておくと面白いです。




8月14日、この日は大阪を中心とした近畿地方で豪雨に見舞われるなど全国的に不安定な天気でしたが、関東地方でも千葉を朝8時過ぎに出発したときはどんよりとした曇り空でしたが、9時ちょうどに地下鉄銀座線上野駅で降りて地上に上がった時には雨が降っていました。持参していた傘をさして雨の上野公園の中を歩いていきます。




お盆の真っ最中にツタンカーメン展を訪れるのは無謀なのではないか?と思われるかもしれませんが、やはり9時過ぎの時点でとんでもない数の人の列が美術館周辺にありました。お盆の時期は午前9時から開場していますが、早朝から並ばないとすぐに入ることはできないのかもしれません。




上野の森美術館周辺の緑地帯の歩道の列に並んで当日券を購入して入場整理券を受け取ることにします。当日券を購入するのに約30分ほどかかり、入場整理券を受け取った時には時刻は午前9時半過ぎでした。入場整理券は「12:00~12:15」と書かれていたので約2時間半待ちとなります。仕方がないので一度上野公園を出て、地下鉄に乗って銀座へ出かけることにします。銀座にいれば2時間半などあっという間でしょう。




銀座で食事を済ませて地下鉄銀座線上野駅に戻ってきたのが11時40分でした。JR上野駅から上野の森美術館へ通じている散策道にあった看板によると、この時間帯で整理券を受け取ると入場できるのは15:00~15:15でした。約3時間待ちということになります。でも上野周辺で休憩したり食事できる場所はたくさんありますし、電車に乗れば秋葉原、東京、銀座などへ15分以内で行けるので、時間を潰すこと自体は難しくはないと思います。




「上野の森美術館」は広大な上野公園の緑地帯の中の一角、JRの線路に隣接した東側にあります。JR上野駅公園口か上野公園山下の公園の正門から階段を登ってアプローチすることができます。日本の美術団体としては最も古く、1879年(明治12年)に設立された財団法人日本美術協会が設置する美術館として1972年(昭和47年)にフジサンケイグループが開館しました。大阪でツタンカーメン展が開催された旧サントリーミュージアム(大阪天保山特設ギャラリー)と同じく、民間業者が運営している美術館なのです。




上野の森美術館の正面玄関です。入場者の列はどの時間帯でも全く途切れることがなく、黄色いユニフォームを着た係員がせわしなく誘導を行っています。正午過ぎに雨は止みましたが気温は相変わらず高いままですが、皆さん汗を拭いながら我慢されていました。




美術館の建物の壁面には「ツタンカーメン展」の巨大な看板が掲げられており、多くの人々が記念撮影をされていました。右側に大きく写っているのは今展示会で最大の目玉である「展示No.101 黄金のカポノス」です。




正午前の当日券販売所も相変わらず大混雑していました。当日券を求める列は100メートルほど続いていたかと思われます。当日券は日にちによっては午後3時すぎに売り切れてしまうこともあるそうです。




展示室に傘を持ち込むことは禁止されているので、正面玄関前の傘立てに収納することになります。幸い緑はこのことを事前に知っていて、折りたたみ傘を持ってきていたのでカバンの中にしまって見学することになります( ̄ー ̄)




そろそろ12時になってきたので、集合場所へ向かうことにします。




この調子だと午後三時前には当日券は売り切れてしまうのではないでしょうか?




入場整理券を持っている人間は、その整理券に書かれている時刻に集合場所へ集まる必要があります。集合場所は美術館の建物の南側、ミュージアムショップに隣接している広場です。




広場の中は仕切りで区切られていて多くの人たちが列を作ることができるようになっています。




12:00~12:15の入場整理券の列に緑も加わります。次回の記事でツタンカーメン展の展示物の概要と感想を述べてみます。館内は撮影禁止なので、文字のみの説明になりますがご了承ください。



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夏日の銀座:銀座三丁目交差点から銀座通り口交差点まで

2012年08月14日 19時33分20秒 | 中央区全域・銀座


銀座三丁目交差点から引き続き銀座一丁目方面へ向かって散策していきます。中央通りに沿って商業ビルが整然と立ち並んでいますが、どのお店も全国的に一流なものばかりです。街並みの美しさや気品、行き交う人々、雰囲気、どれを取っても銀座の町は日本一の繁華街であると思います。今後銀座地区では高層化も含めた再開発計画がいくつも立ち上がっていますが、この雰囲気だけは残して欲しいものです。




前方には「銀座マロニエ通り」とクロスしている「銀座二丁目交差点」と、交差点脇に立っている煌びやかな「大倉本館」の建物が建っています。百メートル離れた場所から見ても大倉本館の建物は目立ちますが、銀座の街の雰囲気に溶け込んでいるのが見事です。あのビルが立っている場所は明治時代に日本人による初の貿易商社である「大倉組商会」の本社がありました。




ホテルオークラや大成建設、帝国ホテルなどを創業した大倉喜八郎氏の活躍の原点がここ銀座二丁目だそうです。新潟県新発田市出身の大倉喜八郎は幼少時代に東京へ出てきた後に独立して鉄砲屋を開業、その後貿易事業に乗り出します。戊辰戦争で軍需品の供給を行い富を築いた後に欧米を視察旅行し、帰国後に日本人による初の貿易商社大倉組商会を東京銀座二丁目に創立します。




「銀座二丁目交差点」。敗戦後の財閥解体政策は大倉財閥も対象となり、その時に誕生した会社によってこの建物は管理・運営されています。現在はフランスのパリを本拠地に持つジュエリー・高級時計ブランド「カルティエ銀座店」が入居しています。




明治6年(1873年)に「大倉組商会」を設立した後は化学、製鉄、繊維、食品などの企業を興すことになります。明治15年、ここ銀座二丁目交差点前に建っていた大倉組商会本社ビルの2階にアメリカ製の発電機を付けて、夜になると歩道の上に出した二千燭光のアーク(白熱)灯に点灯させたそうです。当時はまだ電灯がまだなかった時代だったので通行人の人たちは驚いて大きな話題となったそうです。




大倉喜八郎は渋沢栄一らと協力して日本初の電力会社である「東京電燈株式会社」を成立します。日本が文明開化を成功させて、西洋の列強諸国と対等になるには電力供給が非常に重要だからです。その後東京電燈は買収や統合を繰り返し、戦時統合などを経て戦後「東京電力株式会社」となります。世界最大出力の原子力発電所を保有する東京電力も、最初は銀座二丁目の白熱灯から始まったのです。




「外国人に笑われないような、立派なホテルを日本に造りたい」、そんな欧米への対抗意識を持っていた大倉喜八郎は渋沢栄一と協力して鹿鳴館(現大和生命本社)の北隣にあたる場所に敷地四千二百坪、ルネッサンス様式の木骨煉瓦造り三階建てを建てます。完成した当時の「帝国ホテル」は木骨煉瓦造、3階建て、客室数約60の立派な建物だったそうです。




銀座二丁目交差点を抜けて銀座二丁目界隈を散策していきます。




「銀座一丁目交差点」に到着しました。この界隈はビジネス街である京橋地区に近いので銀行やオフィスビルなどが多いです。




銀座一丁目交差点で「銀座柳通り」と交差しています。銀座柳通りの地下には東京地下鉄有楽町線のトンネルがあり、銀座一丁目駅が交差点の真下にあります。




横断歩道を渡って有楽町側の歩道に移動します。平成21年(2009年)に建て替え工事がなされた「新・ポーラ銀座ビル」の脇を通り抜けていきます。




中央通りに面した銀座一丁目の再開発工事現場、工事用機械などが搬入されていますが、大きな動きはまだないようです。2008年の金融危機以降ずっと計画が頓挫していましたが、2011年11月にようやく計画が発表されたので今後に期待します。




「銀座通り口交差点」に到着しました。京橋川跡地に架かっている首都高速道路の高架橋の向こう側が中央区の京橋一丁目となります。この交差点の脇に「銀座テアトルシネマ」が入居している銀座テアトルビルが建っています。




交差点から振り返って銀座四丁目方向を撮影してみました。約2200平方メートルの広大な再開発予定地が目立ちますが、ここに新しい商業ビルが建つと、また景観が変わると思います。




JR新橋駅近くの新橋交差点からここ銀座通り口交差点までほぼ一直線だった中央通りを散策してきました。これで夏日の銀座の散策は終わりです。




明治時代の銀座二丁目から一丁目周辺は「銀座煉瓦街」と呼ばれていたそうです。

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夏日の銀座:銀座四丁目交差点から銀座三丁目交差点へ

2012年08月13日 09時50分21秒 | 中央区全域・銀座


中央通り・国道15号線と晴海通りがクロスしている「銀座四丁目交差点(旧・尾張町交差点)」を横切って銀座四丁目を散策していきます。交通量が非常に多い銀座四丁目交差点を見下ろすように建っているのが旧・服部時計店、セイコーホールディングスの登記上の本店である「銀座和光」です。交差点付近をウロウロしている最中に正午になったのでウェストミンスターの鐘が鳴り響いていました。




日本初の腕時計、世界初のクオーツウオッチを製品化したセイコーの前身ですが、1881年(明治14年)12月に服部金太郎が輸入時計を販売する服部時計店を創業します。当初の服部時計店は京橋采女町に本社がありましたが、木挽町を経て銀座4丁目に本社を移し、初代時計塔を建設したのは1895(明治28)年のことです。翌年の1896年(明治29年)に同社初の懐中時計「タイムキーパー20型」を発売します。




1892年(明治25年)3月に時計工場である「精工舎」を設立し、国産クロックの製造を開始して精工舎で製造した国産クロックの販売を服部時計店で始めます。精工舎設立当時は、服部時計店は企画・マーケティング・保守サービスを担当し、精工舎は服部時計店からは独立した製造部門として、研究開発・設計・製造を行っていました。そのような「協業」によってSEIKOブランドの時計は技術水準を高め、世界的に高い評価を得るに至ります。




銀座四丁目交差点から晴海通りをJR有楽町駅方向をズームで撮影してみました。交通量が大変多い晴海通り沿道も高級ブランドショップや専門店が非常に多いです。JR有楽町駅まで歩いて約400メートルしかないので駅から歩いて銀座へやってくる人々が非常に多いです。また有楽町駅前から銀座四丁目交差点までは地下道も完備されています。




交差点を渡って三越百貨店銀座店前から振り返って新橋方向を撮影してみました。地上10階建て前後の商業ビルが大通りに沿って整然と立ち並んでいて、大阪・心斎橋の御堂筋や長堀橋に沿った高級ブランド街に匹敵するような街並みが続いています。緑が旅行する大阪の中で一番好きな街が心斎橋ですが、その心斎橋を超える勢いが銀座にはあると思います。




1930年(昭和5年)に銀座5丁目地区に編入された「旧京橋区の尾張町五丁目」の現在の様子です。それ以前の地名としての「銀座」は現在の銀座地区の北側半分、一~四丁目までしかなかったのですが、区画整理によって面積的に2倍の規模になりました。なお「尾張町」の名前は江戸時代に湿地帯であったこの界隈を埋め立て工事を行った大名が尾張(現愛知県)の人間であったことから名付けられたそうです。




1983年(昭和58年)8月には社名を「株式会社服部セイコー」に変更、さらに2007年(平成19年)7月に社名を「セイコーホールディングス株式会社」となりました。子会社としてセイコーウオッチ向け腕時計の一貫生産および材料・部品の製造を行っている「セイコーインスツル株式会社」や、長野県諏訪市のJR上諏訪駅周辺に工場群が広がっている「セイコーエプソン株式会社」などを従えています。




銀座四丁目交差点の内幸町側に建っている円状のビルは「三愛ドリームセンター」という商業ビルです。これまで銀座四丁目交差点にやって来ると銀座和光や三越百貨店しか注目していなかったのですが、このビルも少し興味を持ちました。ビルの頭頂部にはカメラメーカーとして有名な「リコー」の看板が掲げられています。通称「銀座三愛ビル」といいます。




「銀座三愛ビル」の立っている場所は戦前は「旧六十九銀行銀座支店」の建物が建っていました。戦後まもない1946年に銀行跡地にリコーグループの創業者である市村清が食料品店を開店します。その前年に市村清は後に婦人服販売を専門とする「三愛商事」を設立しています。銀座四丁目交差点前の一等地を取得するのには様々な苦労があったそうです。




ちなみに市村清は戦前の1929年、理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得しています。1933年には理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘されます。1936年に理研感光紙(株)専務取締役に就任、同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなります。デジタルカメラメーカーで有名な「リコー」の創業者でもあり、リコーの本社も同じ中央区の銀座八丁目にあります。




中央通りを銀座四丁目交差点から銀座三丁目交差点へ散策を続けていきます。100メートルも歩くとすぐに銀座三丁目交差点と松屋銀座本店の巨大な建物が見えてきます。




三越百貨店と松屋銀座店、晴海通りを挟んだ松坂屋銀座店、少し離れたJR有楽町駅前の有楽町マリオンなど、半径数百メートル以内に複数の百貨店が密集しています。日本全国を見てもここまで多くの百貨店が集まっている地域というのは珍しいのではないかと。銀座以外で思いつく場所といえば昨年に伊勢丹が開業し阪急が建替増床を行った「JR大阪駅・梅田」や、JR新宿駅周辺の一帯くらいではないでしょうか。




「銀座三丁目交差点」に到着しました。銀座三丁目交差点といえばなんといっても2003年11月30日に日本初の直営店として開店した「アップルストア銀座店」が有名です。今でも疑問に思いますが、なぜ家電とパソコンの町である秋葉原ではなく、繁華街である銀座三丁目のど真ん中に店を作ったのか今でも不明です。大阪でも「アップルストア心斎橋店」は家電の街として有名な日本橋ではなく、御堂筋沿いの西心斎橋に店舗を構えています。




2011年10月15日にアップル社を創業したスティーブ・ジョブス氏が死去した際は、ここ銀座店や大阪の西心斎橋店では店舗前に多くの献花の花束が一般の人々によって並べられていたそうです。それほどまでジョブス氏のカリスマ性というものは、多くの人々を惹きつけるものがあったのでしょう。




交差点を渡ってアップルストア前へ移動します。引き続き銀座一丁目へ向かって散策を続けます。




銀座四丁目交差点周辺はご覧のように百貨店やファッションビルが密集しています。

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夏日の銀座:銀座六丁目交差点から銀座四丁目交差点(旧尾張町交差点)へ

2012年08月11日 14時46分38秒 | 中央区全域・銀座


銀座六丁目交差点から引き続き中央通りを京橋方面へ散策していきます。平日とは言え正午前の銀座中央通りは多くの通行人で混雑しています。銀座地区の中央通りの歩行者天国は土曜・日曜・祝日の午後0時から夕方(午後5時か6時)まで実施されています。そのうち歩行者天国の銀座も散策してみたいです。銀座六丁目交差点から北側のブロックは「旧京橋区の尾張町二丁目」と呼ばれていたエリアです。




ここ銀座六丁目交差点で中央通りとクロスしている通りを「交詢社通り」と言います。この通りに面した銀座六丁目に「一般財団法人 交詢社」の交詢ビルディングが建っており、通りの名前にも採用されています。交差点から有楽町側へ進んで2ブロック進んだ場所に建物が立っています。




上の写真の中央に写っているビルが交詢ビルディングです。「一般財団法人 交詢社」は1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブである。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来します。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案し、林金兵衛が構想に関わり、宇都宮三郎から煉瓦家屋を譲り受け、1880年1月25日に青松寺(東京芝区愛宕下)で交詢社の発会式が行われ、24名が常議員となりました。




自由民権運動が盛り上がった明治時代、憲法制定が課題になると憲法案を発表したり、第3次桂太郎内閣に対抗する護憲運動の拠点になるなど、政治的な運動を率先して行ってました。2011年(平成23年)7月1日より一般財団法人へと移行しました。




銀座6丁目界隈を散策していきます。衣料品や食品その他のお店の看板が密集している町並みが続いていますが、それさえも「洗練されている」と感じてしまうのが銀座のすごいところだと思います。歴史の浅い繁華街である新宿や渋谷との差は、そういう所に出てくるのだと思います。1980年代から90年代にかけて新宿や渋谷が流行の発信地となったことによって「銀座は凋落した」としばらく言われていましたが、最近では再び銀座が注目され始めているそうです。




松坂屋銀座店の前を散策していきます。道路を挟んだ向かい側を見ると「ユニクロ銀座店」が入居している「ギンザコマツ東館」の建物が見えてきました。もともとこの場所には昭和21年(1946年)に創業者である小坂武雄氏が創業した洋服店「小松ストア」が建っていました。戦後の全国的なモノ不足な世の中に夢を見せたいという思いから、ここ銀座の地にお店を立ち上げたそうです。




創業者である小坂武雄氏の父親は、1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり公園敷地内で洋風レストラン「日比谷松本楼」を開店させた小坂梅吉氏です。梅吉氏は銀座で食堂を経営しており、小松家は戦前から銀座の街に縁があったそうです。ちなみに小松ストアの「小松」とは「小坂」と「松本楼」の頭文字を取って名付けられたそうです。




古い銀座小松ビルは平成20年(2008年)に取り壊されて、その後再開発工事が行われていましたが、今年平成24年(202年)に「ギンザコマツ」として開業しました。中央通りに面した東館にはユニクロとして首都圏初のグローバル旗艦店である「ユニクロ銀座店」が、隣接して建っている西館には「DOVER STREET MARKET GINZA」が入居しています。




「銀座五丁目交差点」で中央通りは「みゆき通り」とクロスしています。この先は「旧京橋区の尾張町一丁目」界隈を散策していきます。和光銀座や三越百貨店のある銀座四丁目交差点はすぐそこにあるので人通りも激しくなってきました。




銀座五丁目交差点脇に立っている建物は「ニューメルサ銀座五丁目店」というファッションビルです。「メルサ」は名古屋鉄道のグループ企業であり、1967年(昭和42年)に床面積で当時東洋最大の規模を誇った「名鉄バスターミナルビル(3階と4階に日本初の立体バスターミナル、「名鉄バスセンター」があることから命名)」が竣工した際に、地下1階から地上6階を使用して開業しました。




銀座界隈にはここ銀座5丁目の「銀座ニューメルサ」と銀座2丁目の「メルサGinza-2」の二つの店舗が存在します。1971年(昭和46年)10月に東京都中央区に「東京メルサ(現在のメルサ銀座2丁目店)」をオープンし、その後1977年に竣工した「中村積善会ビル」に銀座ニューメルサがオープンしました。ちなみにメルサとは「Meitetsu Elegance Ladies Shopping Avenue」を略したものだそうです。




銀座五丁目交差点からズームで撮影してみると銀座和光の建物が見えました。




昭和5年まで「尾張町交差点」と呼ばれていた「銀座四丁目交差点」に到着しました。区画整理により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一丁目〜銀座四丁目に編入します。また現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五丁目〜銀座八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目〜銀座西八丁目としました。この時点での銀座一丁目〜銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、晴海通り、桜通りに囲まれた四角形にあたります。




和光銀座の歴史を振り返るには、明治14年(1881年)に服部金太郎が創業した「服部時計店」(現:セイコーホールディングス)まで遡ることになります。次回の記事で日本一の地価を誇る銀座四丁目交差点の一等地に建物を構える和光銀座の変遷について述べてみたいと思います。




銀座四丁目交差点からズームで銀座三丁目方向を撮影してみました。ここから北側は百貨店などが密集しているので人通りはさらに激しくなります。




今回散策した場所は昭和5年に銀座地区に編入されたエリアです。

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夏日の銀座:東京汐留パナソニックビル前からH&M銀座店前(銀座七丁目)まで

2012年08月10日 13時02分03秒 | 中央区全域・銀座


7月下旬の快晴の天気の平日、JR新橋駅前から中央通り(国道15号線)を歩いて銀座一丁目へ向かいます。新橋駅の銀座口から外堀通りを汐留方面へ歩いていきます。外堀通りの大通り沿いは証券会社や銀行などが密集しているビジネス街となっていて行きかう人々もビジネスマンばかりです。




外堀通り・昭和通りと中央通り(第一京浜・国道15号線)がクロスしている「新橋交差点」にやってきました。ここで左へ曲がって中央通りへ向かいます。正面に建っている汐留シオサイトの「東京汐留パナソニックビル」は2012年4月に実施されたパナソニックグループの拠点再編において、これまで港区の芝にあった東京支社の建物を売却して、東京の拠点機能を「旧パナソニック電工ビル」であったこのビルに集約されたものです。




首都高速道路の効果橋を渡って港区新橋一丁目から「中央区銀座八丁目」の界隈へ進んでいきます。これまでこのブログでは千代田区・中央区・港区の散策は「東京都心部」というカテゴリーで一括りにしていましたが、やはり千葉県に住んでいる緑にとってこの都心三区の散策が圧倒的に多くなってしまいます。なので一週間ほど前に思い切って東京都心部カテゴリーを5つに分けてみました。これからは銀座・京橋・日本橋を中心とした中央通りや中央区全域は「都心三区(中央通・銀座)」に担当させます。




首都高速道路の高架橋をくぐれば「銀座八丁目交差点」となります。首都高速道路の高架橋の下の空間には「ギンザナイン1・2・3号館」というショッピングストリートが存在します。このショッピングストリートには住所が定められてはいないそうなので、便宜的に「銀座九丁目」と呼ばれることがあるそうです。




前回の中央通りの散策では有楽町側の歩道を散策したので、今回は築地側の歩道を散策していきます。銀座は東へ一キロほど歩けば東京湾(というより隅田川の河口)に出ることができるので、結構涼しい風が吹いてきます。東京の内陸部よりもさわやかな雰囲気の中を散策することができます。とはいってもこの日は全国的に猛暑日だったので関係なかったですが。




銀座八丁目から七丁目にかけての中央通りには外国人観光客の観光バスが多く列をなす光景が近年見られたものですが、やはり2011年3月11日以降減ってしまったそうです。とは言っても徐々に最近は戻ってきているとか。




銀座八丁目交差点周辺は1930年(昭和5年)3月4日に銀座地区に編入されるまで「京橋区の南金六町」と呼ばれていました。現在の東京都中央区銀座8丁目7番地から同10番地のうち、東を三原通り、西を西五番街に挟まれた部分の南半分にあたります。




ズームで撮影すると「銀座七丁目交差点」と隣接して建っている「資生堂ザ・ギンザ」が見えてきました。江戸期には東海道の起点から見て芝地域への入口に位置し、汐留川にかかる新橋(芝口橋)の両岸で「芝口」を冠した地域です。当時、隣接して存在した幕府拝領地「金春屋敷」をやがて併合し、同屋敷の下女たちに端を発する「金春芸者」あるいは「新橋芸者」と呼ばれる芸妓の本拠地でした。銀座地区でありながら歴史的に見ると新橋のビジネス街とのつながりが深い場所なのですね。




1872年(明治5年)の銀座大火以降には銀座煉瓦街が建って近代化が進み、「日本初」の近代的建築物、店舗がこの地に登場します。「日本初のビアホール」である「恵比寿ビヤホール」が1899年(明治32年)に5番地(現在の銀座8丁目9番)に、「日本初の映画専門館」と「日本初の撮影所」を開いた「日本最古の映画会社」である吉沢商店は13番地(現在の銀座8丁目10番)に、「日本初のカフェー」とされるカフェー・プランタンは1907年(明治40年)に銀座煉瓦街(5番地-10番地)に生まれました。




東芝の創業者である田中久重が1875年(明治8年)に9番地(現在の銀座8丁目9番)に開いた工場は、「東芝発祥の地」とされています。このほか、1894年(明治27年)には3番地(現在の銀座8丁目8番)に千疋屋フルーツパーラーが、1899年には4番地(現在の銀座8丁目8番)に帝国博品館勧工場が建ちます。当時としては西洋の文化を多く取り入れたお店や工場は珍しかったので、大きな話題となったそうです。




「銀座七丁目交差点」に到着しました。背後に写っているビルは「SHISEIDO THE GINZA」、本社社屋の建て替えや東京銀座資生堂ビルの一部改装などと一体で進める「資生堂-銀座 未来計画」の一環として2011年5月14日に開業しました。この地は1872年(明治5年)9月17日に日本初の洋風調剤薬局として福原有信が東京・銀座に「資生堂薬局」創業したという資生堂発祥の地です。




南金六町の町名の由来は、江戸期に京橋川の南に芝田金六が長屋を開き、1657年(明暦3年)の明暦の大火の後に一帯を「京橋金六町」(のちの木挽町1丁目、現在の銀座1丁目のうち昭和通りより東部分)と称するようになり、その飛地と考えられています。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災を経て、1930年(昭和5年)3月4日には、北に隣接する「出雲町」とともに「銀座八丁目」に改称し、「南金六町」の町名は消滅しました。




資生堂発祥の地として名高い「銀座七丁目」を散策していきます。1930年(昭和5年)の銀座地区編入前はこの界隈は「竹川町」と呼ばれていました。江戸時代の幕府医学所、明治維新後の大学東校(現在の東京大学医学部)で西洋薬学を学んび、卒業後に海軍病院薬局長となった福原有信は文明開化の雰囲気漂う銀座七丁目の地に、日本初の洋風調剤薬局「資生堂」を創業しましす。




薬局から始まった資生堂が化粧品事業へと本格的に舵を切り始めるのは大正時代になってからです。1897年(明治30年)に化粧品業界へ進出、高等化粧水「オイデルミン」発売します。1916年(大正5年)に新製品の開発のほか、商品の品質保証などを行う「試験室」が銀座七丁目に作られました。昭和から戦前にかけては化粧品のシェアをさらに伸ばしていく他、全国に独自の販売網を整備する「販売会社制度」の開始、レストランの運営や洋菓子などの販売を行う資生堂食品販売会社(のちに資生堂パーラー)の設立など事業を広げていくことになります。




スウェーデンのアパレルメーカー「ヘネス・アンド・マウリッツ」は1947年に婦人服を専門としたメーカーとして創立しました。低価格な衣料品や一部高級志向品を中心に全世界で展開を始め、日本では2008年9月13日に1号店として銀座・中央通りに進出しました。高級志向が強い銀座界隈において「H&M銀座店」は低価格志向という意味では目立つ存在です。




JR新橋駅周辺と銀座八丁目は目と鼻の先です。

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