当日券売り場で料金を支払って受け取ったツタンカーメン展の(平日の)当日券です。当日券を受け取って気がついたことですが、別に当日券を買った日のうちに入場しなければいけない、ということではないようです。8月6日から9月28日までの有効期間の間(平日に限り)にどの日にちでも利用することができます。それにしても大人一枚2700円というのは値段的にどうなんでしょうね(土・日・祝日だと300円増しとなります)。
12:00~12:15の入場整理券の列に並んでいます。黄色いユニフォームを着た係員の人たちが美術館の正面玄関まで誘導してくれます。正午過ぎに並んだ時の時点で10人ほどが緑の前に並んでいました。
前に並んでいる人達の後ろから黙って付いていきます。美術館内に傘を持ち込むことは禁止されているので、傘は正門玄関脇の傘立てに収納しなければなりません。また館内では飲食禁止、カメラ・カメラ付き携帯での撮影・通話禁止、万年筆・ボールペン使用禁止となっています。またリュックサックを背負っている人は係員から肩から外して抱きかかえるように指示されていました。
当日券を購入した後に近くのテントで受け取った入場整理券です。この整理券この先で係員に渡して入場することができます。この入場整理券には時間帯が書かれているだけで日付が書かれていません。ということは、この入場整理券を後日に使うということも理論上は出来ることになります。
列に沿って進んで上野の森美術館の正面玄関から入っていきます。この先はデジカメの撮影禁止なので、パンフレットの内容を駆使して展示物の説明をしていきます。
導入編(ミニシアターで約三分間の映像説明)
上野の森美術館の正門玄関に入ってすぐのフロアに約6台のディスプレイが設置してあり、観覧者は一番最初に約三分間ほど映像説明を受けます。古代エジプトにおいて生命の象徴でもあった太陽とピラミッドの映像から始まり、1922年11月にイギリスの考古学者ハワード・カーター氏によってツタンカーメンの王墓が発見されたことなどが説明されます。この映像説明が終わるといよいよ展示物にご対面となります。
第一章 ツタンカーメンの世界(新王国時代とは) ~展示品数29~
日本がまだ縄文時代であった紀元前3050年頃、上エジプト(南部)と下エジプト(北部)をあわせた全エジプトが一人の王によって統一されます。ここに輝かしいファラオ(古代エジプト王朝において王位に就いた者のことです)達の時代が始まります。エジプトは「二つの国」からなるという考え方はその後も存続し、この統一を維持する事が王の大切な役目となりました。
初期王朝時代を経て前2680年頃に上下エジプトの境界にあたるメンフィスを首都とする古王国時代が始まり、エジプトは最初の繁栄期を迎えました。ギザの三大ピラミッドなどで知られる「ピラミッド時代」の幕開けです。繁栄は500年ほど続いたが、やがて王権は衰え、「第一中間期」と言われる事実上の分裂状態となりました。
前2000年頃に上エジプトのテーベ(現在のルクソール)出身の王が国土を再統一し、中王国時代が始まります。エジプトは繁栄を取り戻し工芸や文学など優れた文化が花開きます。しかし国土は再び分裂し、ヒクソスによる初めての異民族支配(第二中間期)を迎えることになります。前1600年頃に異民支配をはねのけ、上下エジプトを再び統一したのはテーベの王たちでした。エジプト最後で最大の繁栄期、新王国時代が始まったのです。
新王国時代、特に第18王朝期にはエジプトの領土は史上最大となり、南北の属国から流入する富によってエジプトは当代随一の大国となりました。テーベのナイル川東岸には壮麗な神殿群が立ち並び、西岸にも葬祭殿群や岩窟墓群などが数多く造営されました。この時代の素晴らしい工芸品や彫像などには、往時の栄華を垣間見る事が出来る秀逸なものが多い。まさに政治的にも文化的にも古代エジプトの絶頂期でした。ツタンカーメンはそんな時代に古代エジプト王朝のファラオとして君臨したのです。
第一章ではツタンカーメンが即位した当時の古代エジプトで建造された神殿群や、王家の谷などの王墓から発掘された品を中心に展示されています。映像説明の部屋から出た先に「展示No.1ツタンカーメンの立像」が出迎えてくれます。入場整理券によって館内を移動する人間の人数がコントロールされているので、満員電車程の混雑ではありません。ただ人の流れが滞るようになると係員の人たちから歩きながら鑑賞するように言われます。
第二章 古代エジプト人 スピリチュアル・ワールド ~展示品数22~
古代エジプト人にとって、光と闇、昼と夜をもたらす太陽は、「死後も生は続く」という再生復活の思想を生み出す根源でした。西に沈んだ太陽が翌朝東から昇ってくる事を生命の復活と考え、来世での復活を信じる独特な死生観が生み出されました。
死せる王は太陽神の船に乗り、昼間は天空を進み、夜には闇の怪物たちを退治しながら冥界を進み、夜明けに復活して東の空から再び天を駆けるのです。このような死生観は王族だけではなく高官から庶民にいたるまで信じられ、来世の家である墓の造営やミイラ作りが盛んに行なわれていました。遺体が腐敗しないよう処理されたミイラは、カアとバアなどの拠り所として重要な意味を持っていた。バアは人間の人格や個性に近い霊的存在で、人頭を有する鳥の姿で表され現世と来世を自由に行き来しました。カアは生命力を表し、死後も飲食物を必要とした。来世での生活に必要な様々な供物が墓に捧げられ、現世での暮らしや来世の様子などが壁画や銘文で残された。
新王国時代の都テーベでは、太陽の沈むナイル川西岸に、広大なネクロポリス(死者の町=墓地)が形成され、王や王族たちの墓や貴族たちの墓貴族たちの墓や壮麗な葬祭殿が造られたのです。このあたりは以前に訪れた六本木ヒルズ森アーツセンターの「大英博物館古代エジプト展」でも同じような説明を受けました。
第二章ではツタンカーメンの親兄弟親戚のシャブティ(古代エジプトにおいて、王墓に埋葬される際に一緒に入れられた人形)や彫像などを中心に展示されていました。ツタンカーメンの家系図が頭の中に入っていないと、誰が誰なのかわからなくなります。
第三章 ツタンカーメンのミステリー ~展示品数10~
ツタンカーメンが生まれ育った時代は、アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)がそれまでのアメン神信仰を捨て、太陽神アテン一神教へと変えたいわゆる「アマルナ宗教改革」の時代です。都はアメン神官団の勢力が強いテーベから、ナイル川中流域のアケトアテン(現在のテル・エル=アマルナ)に移されました。町の中心には大小二つのアテン神殿や官庁街、高官たちの居住区、美しい壁画が描かれた王宮などが造営されたほか、北と南にも居住地域が広がっていました。
アメンヘテプ4世は宗教改革に伴い、自らを「アテン神の輝ける霊」という意味であるアクエンアテンに改名し、この地で生まれたツタンカーメンも当初はアテン神の名を含むツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)という名でした。しかしこうした思い切った宗教改革もアクエンアテンの死後は引き継がれず、幼少(9歳)で即位したツタンカーメンはアメン信仰へと復帰します。都はメンフィスへと移され、宗教的な中心はテーベに戻りました。ツタンカーメンの治世は10年に満たず、その出自も最近までわかっていませんでした。それでも彼の幼い頃の生活の様子はアマルナ遺跡出土の遺物や、彼の墓に納められた数々の玩具や調度品類から、わずかながらうかがい知ることが出来るのです。そして最近になってザヒ博士を中心とするエジプト人の研究チームによって、長らく謎であったツタンカーメンの家族関係の一端が明らかになったのです。
第三章の目玉は「展示No.107 チュウヤの人型棺」です。ルクソール(テーベ)のアメンヘテプ3世の王妃ティイの両親、イウヤとチュウヤの墓(KV46)から発見された棺で、ツタンカーメンの曾祖母であるチュウヤのミイラが入っていました。この棺は360度ぐるりと観ることができました。
第四章 世紀の発見ツタンカーメン王墓 ~第五章ツタンカーメンの真実と合わせて展示品数32~
ヨーロッパの探検家たちは「王家の谷」の存在をはやくから知っていました。しかし19世紀になるまで「王家の谷」に辿りつくのは困難でした。ナポレオンのエジプト遠征によって「王家の谷」が世界に広く知られるようになり、多くの学者や冒険家がエジプトを訪れ発掘を行うようになりました。20世紀のはじめには「王家の谷」は掘り尽くされたと言われるまでになっていました
しかしイギリス人貴族のカーナヴォン卿とハワード・カーターは未発見の墓が残っていると考え、「王家の谷」の発掘権を得ます。発掘調査の最終シーズンになるはずであった1922年11月4日、世紀の大発見となるツタンカーメン王墓(KV62)の入口が掘り当てられます。王墓としては異例なほど小さく、古代に荒らされた形跡があるものの、再封印された後の状態が保たれていました。このような未盗掘の状態で見つかった王墓は「王家の谷」のなかではツタンカーメン王墓だけです。ハワード・カーターによる王墓の発掘と出土品の保存作業は10年にも及びました。黄金の玉座や彫像、指輪、腕輪、胸飾りなど、副葬品の多くが黄金で彩られており、その数はじつに5398点にも及びました。カーナヴォン卿と初めて王墓内に入ったとき、ハワード・カーターはろうそくの先に何が見えるかと聞かれました。そのとき、かの有名な言葉が生ます。「素晴らしいものです。」
ツタンカーメンの小さな墓は、通廊と前室、玄室、宝庫、付属室の4室からなります。通廊と前室からは金箔張りのベッドや戦車、王の幼少の頃の衣類が入った大型の箱など約700点の遺物が発見され、北側の壁際には杖とこん棒を手に持った等身大のツタンカーメンの彫像が二体、玄室への壁を守るように向き合って立っていました。玄室には部屋のほとんどを占めるほど大きな厨子が置かれ、この中にはさらに3つの厨子があり、さらに王のミイラを守るべく羽を広げた4人の女神が四隅に刻まれた石棺がありました。石棺の中には三重の入れ子になった棺が納められており、最も内側の純金製の棺の中に黄金のマスクをかぶり、150点にも及ぶ黄金の宝飾品や護符を身に着けたツタンカーメンのミイラが眠っていました。玄室の隣にある宝庫の入口にはジャッカル姿のアヌビス神像が部屋を守るように置かれ、その奥には4体の女神像に囲まれた小さい黄金の厨子や船の模型、神像などがぎっしり納められていました。そして目を見張るほど美しい黄金張りの厨子の中には、ツタンカーメンの内臓が収められた4つの黄金の棺形カノポス容器が納められていたのです。付属室からは数々の家具やシャブティ、食物やワインなど実に2000点以上の遺物が発見されています。
第三章の展示が終わると1階から階段を上がって2階へ移動します。第四章の「世紀の発見ツタンカーメン王墓」から先はルクソール(テーベ)の王家の谷のツタンカーメン王墓(KV62)から出土した品がほぼ全てとなります。「展示No.92・93 ツタンカーメンの肘掛け椅子と足台」など、実際にツタンカーメンが生前に使用していた品などが多く出てきます。どの品も金や銀などでコーティングされていて、保存状態は非常にいいものばかりでした。
第五章 ツタンカーメンの真実
ツタンカーメンは父アクエンアテン治世11年目に生まれ、新しい都アケトアテン(テル・エル=アマルナ)で育ちました。この地で生活していた頃の名は「アテンの生ける肖像」という意味のツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)です。彼は王族にふさわしい上質な衣類に金や半貴石などで飾られた豪華な装飾品を身につけ、ぜいたくで特権的な生活をしていました。中庭のある美しい王宮で王である父や家族、多くの召使とともに暮らし、マヤという名の乳母に育てられました。またツタンカーメンは王になる以前に、腹違いの姉と結婚をしていました。幼い王子と王女は一緒に育ち、一緒に遊んだのかもしれません。ツタンカーメンの墓にはそうした情景を思い起こさせる6つのゲーム盤が納められています。しばらくして父アクエンアテンが亡くなり、ツタンカーメンは9歳で即位します。幼い王はテーベのアメン神官たちとの軋轢にさらされ、間もなく「アメンの生ける肖像」という意味のツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)へと改名し、アマルナの都から政治の拠点をメンフィスへ遷すとともに、宗教の中心をテーベに戻しアメン神信仰に復帰したのです。幼いながらも王として懸命に政治を行ったに違いない少年王は、おそらく怪我(骨折)がもとで19歳で亡くなりました。二つの名は彼が激動する歴史の中で翻弄されて生きていたことを象徴するものなのです。
「展示No.80 ツタンカーメンの半身像」が自分の中ですごく印象に残っています。木製で金でコーティングされているツタンカーメンの等身大の彫像であり、顔つきは何となく日本人に似ていると感じました。
第六章 黄金のファラオたち ~展示品数13~
展示されている「棺形カノポス容器」はイシス女神と王の肝臓を守るイムセティ神に捧げられたものであり、実際この容器からはミイラの様に処理され布が巻かれた肝臓が発見されています。この棺形カノポス容器は杖とから竿、ハゲワシとコブラ、ネメス頭巾など王権を示す象徴的な標章を身につけています。この棺形カノポス容器の形は王のミイラを納めていた実物大の人型棺と非常に似ていますが、ここに表わされた容貌はツタンカーメンにはあまり似ていません。ツタンカーメンと比べると頬はふっくらとしており、目は大きく、顎は小さく、鼻筋も整っています。この容器については当初アクエンアテンの死後、そしてツタンカーメンが王になる前の短期間エジプトを統治したアンクケペルウラ―の名が刻まれていたことが知られています。従ってこのカノポス容器は、本来は少年王ツタンカーメンのために作られたのではなかったとも言われています。しかしいずれにせよこの容器はツタンカーメンの墓から出土した最も素晴らしい作品のひとつであると言えます。
現代と同様に、古代エジプトにおいても金は大変貴重なものであり、一種の権力の象徴と見なされていました。それに加え来世での永遠の生活を信じ不滅の生命を望んだ古代エジプト人にとって、金は特別な素材でした。神々の体は錆びることのない金でできていると考えられたため、不滅の生命を保証するものとして、金は多くの王たちによって墓の副葬品類に使われたのです。金はおもに東方砂漠やヌビア地方の鉱山から調達されました。 黄金のマスクのように重厚なものの他、薄い板状の金を加工して作られた装飾品類や調度品、金色に塗られた彫像など、ツタンカーメンの墓から発見された多くの副葬品は、黄金に囲まれた王宮での生活の様子を現代に伝えています。若くして亡くなったツタンカーメンは王としては例外的な小さな墓に埋葬されてはいたが、黄金の厨子や黄金の棺に守られ、黄金のマスクを着け、王権の象徴である杖とから竿を握り、さらに黄金の剣や護符などに守られて来世へ旅立ったのです。他の王たちの壮大な墓にいたってははたしてどれほどの副葬品類が納められていたのでしょう? ツタンカーメンの黄金の副葬品は私たちの想像をかきたてます。
最終章である「黄金のファラオたち」では今展示会の最大の目玉である「展示No.101 ツタンカーメンの棺形カノポス容器」を観ることができます。大きさは約40センチくらいでしたが、金や水晶が散りばめられており、素晴らしいと思いました。厨子の中にあった方解石の箱は4つに仕切られ、中に納められた4個の同じく方解石の壺から半貴石とガラスを嵌めこんだ金製のカノポス型容器が発見されたのです。今回展示されているのは、防腐処理がなされた肝臓のミイラが入っていた容器です。この他にもツタンカーメンのミイラの脇に置いてあったという「展示No.105 ハヤブサ形の黄金の胸飾りとおもり」「展示No.102 ツタンカーメンの黄金の儀式用短剣と鞘」「展示No.103 象嵌細工の黄金の首飾りとおもり」なども見ごたえがありました。
「展示No.107 チュウヤの人型棺」。棺には細かい文字で呪文が書かれていました。
「展示No.80 ツタンカーメンの半身像」。シャツを着ているツタンカーメンなんだそうですね。
「展示No.101 ツタンカーメンの棺形カノポス容器」。前部と後部で二つに分かれる構造になっています。
最終章「黄金のファラオたち」で目玉のものが集中しています。
今回も約2時間かけて観終わることができました。事前勉強をしっかりしてきたので、前回よりも楽しく見ることができてよかったです。入場整理券による館内の人数管理がしっかりとなされていたので、そんなに混むような状況ではなかったです。
午後2時前後の上野の森美術館周辺。雨はすっかり上がっていましたが、気温が徐々に上がってきました。建物周辺は相変わらずの混雑が続いていました。
今回もじっくりと観て来たのでフラフラになってしまいました。お盆の人通りの多い上野公園の緑地帯を散策していきます。
リニューアル工事が行われた噴水池脇に今年の春に開店した「スターバックス上野恩賜公園店」にやってきました。アイスコーヒーを飲もうとフラフラしながら立ち寄ってみましたが、ここでも混雑・・・。
10分ほど並んでようやくアイスコーヒーにありつけることができました。ここのスターバックスのお店を利用するのは今回が初めてです。上野公園の緑地帯の雰囲気を考慮してか、ログハウス風のスタバのお店でした。
アイスコーヒーを飲んでJR上野駅へ向かいます。
JR上野駅山手線ホームにやってきました。これで2回目の「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展」の見学は終わりです。また面白そうな特別展が東京で始まったら訪れてみたいと思います。