緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真夏の東京シティビュー:北西~北方向(JR新宿駅方向からJR市ヶ谷駅方向まで)

2012年08月20日 12時56分33秒 | 城南・港区全域


東京シティビューの新宿・渋谷側の前面ガラスに面している喫茶店「サンセットカフェ」より西方向(JR渋谷駅方向)を撮影してみました。海抜250メートルから眺めるパノラマというのは写真で表現する以上に迫力があり、しばらく眼下に広がる東京の町並みをじっと見ていると、その中に吸い込まれてしまいそうな力があります。またこの日は丹沢山地の稜線がくっきりと見えるほど快晴の天気だったので、文句なしです。




飲食用スペースが整備されている「スカイギャラリー3」の吹き抜け空間の中を通り抜けていきます。この先ではJR新宿駅方向からJR山手線環状部の内側部分を中心に楽しんでいきます。




シティビューより北西方向(JR新宿駅方向)。眼下にある青山霊園は前回の記事でご紹介したので、今回は明治神宮・代々木公園や新宿御苑の緑地帯について説明していきたいと思います。正面にはJR新宿駅西口・淀橋浄水場跡地に建設された「新宿副都心」の高層ビル群が密集しています。




新宿副都心の高層ビル群の南側に広がっている「明治神宮・代々木公園」の広大な緑地帯です。明治神宮は明治45年(1912年)に崩御された明治天皇と、昭憲皇太后を御祭神とする神宮です。大正9年(1920年)に完成しました。南側に隣接している代々木公園は元々は陸軍の練兵場であり、戦後占領軍の住宅、東京オリンピックの選手村となり、その後跡地は都立公園として整備され昭和42年(1967年)に開園しました。




高層ビル群の東側(山手線環状部の内側)には「新宿御苑」と「神宮外苑」の広大な緑地帯が広がっています。南北に連なっている緑地帯の間をJR中央線の線路が走っています。鬱蒼とした緑に覆われている新宿御苑と比較すると、神宮外苑の中は「国立競技場」や「明治神宮球場」などの大規模な施設が集まっています。




ズームで撮影したJR新宿駅西口周辺です。この辺は「淀橋台地」と呼ばれている高台であり、高度経済成長期前後にここには「淀橋浄水場」が存在ました。昭和40年(1965年」に廃止されて、その機能は東村山市の東村山浄水場に移されました。その後跡地には「京王プラザホテル」の建設を皮切りに高層ビル群が整備されていきました。




現在の国立新美術館と政策研究大学院大学の敷地は江戸時代は伊予宇和島藩伊達家の上屋敷でした。明治維新後に屋敷が撤去されて更地になり、その後日本陸軍の歩兵第3連隊の駐屯地となりました。美術館が在日米軍の施設と隣接しているのは、元々同じ陸軍の施設だったからです。




終戦を迎え歩兵連隊の兵舎などの建物はその後「東京大学生産技術研究所」の施設に転用されました。研究所は2001年までに駒場リサーチキャンパスに移転を完了し、跡地に「国立新美術館」と「政策研究大学院大学」が建設されました。




シティビューより北北西方向(JR市ヶ谷駅方向)。港区の赤坂地区の住宅密集地が青山通りや外苑東通りに沿って広がっています。普通の住宅よりも中低層マンションが非常に多いのが特徴です。




ズームで撮影してみると「赤坂御用地」の広大な緑地帯が見え、敷地内に「迎賓館」の真っ白な建物が見えます。江戸時代に紀州徳川家の上屋敷があった場所で、明治維新後に皇室に献上され御用地となりました。敷地内に立っている迎賓館は旧・東宮御所として建設され明治42年(1909年)に完成した建物です。その後「赤坂離宮」となり、戦後に「迎賓館」として改築されて現在に至っています。




青山通り(国道246号線)に沿って続いているビル街の奥に広がっている「神宮外苑」の緑地帯。陸軍の演習場であった「青山練兵場」の跡地に明治神宮の整備と同時期に建設された洋風庭園です。東京オリンピックのメイン会場になった「国立霞ヶ丘陸上競技場」や、ヤクルトスワローズの本拠地である「明治神宮球場」が見えます。




展望ガラスに張り付いて真下を見下ろしてみると六本木通りと真上の3号渋谷線、そして「六本木六丁目交差点」が見えました。ここで外苑東通りとクロスしています。東名高速道路とつながっている3号渋谷線は相変わらず交通量が非常に多いです。




2007年(平成19年)3月30日に開業した「東京ミッドタウン」です。敷地の中心部に建っている「ミッドタウン・タワー」は高さ248メートル、緑が今いる森タワーよりも高い高層ビルなのです。しかしミッドタウン・タワーは麻布台地から溜池方面の低地へ続く斜面の上に建てられているので、海抜レベルでは高台の上に建っている森タワーの方が高くなるのです。




江戸時代の東京ミッドタウンの敷地には長州藩毛利家の下屋敷などがありました。周囲には檜の木が多く植えられていたので「檜屋敷」と呼ばれていたそうです。明治維新後は陸軍の駐屯地となり、戦後は陸上自衛隊の基地になるとともに「防衛庁」の本庁舎も建てられていました。2000年(平成20年)に防衛庁(現・防衛省)が市ヶ谷に移転された後の2004年に再開発工事が始まり、その後2007年3月に東京ミッドタウンが開業しました。




東京ミッドタウンのさらに北側を見ると「赤坂サカス」の高層ビル群と、永田町・溜池山王周辺の高層ビル群が見えます。国会議事堂は残念ながらタワーマンションの陰に隠れてしまって見ることができませんでした。国会議事堂の左側に見える目立つ高層ビルは2.26事件の舞台となった「山王ホテル」跡地に建設された「山王パークタワー」です。




最後に近くなりましたが、もう一度新宿副都心方面(北西方向)です。地平線の果てまでも東京西部の住宅密集地が広がっています。高度経済成長期までは、東京都西部はもちろん、23区内も住宅が立っていない野原や林などが多かったですが、2012年現在は世界一の大都市圏である首都圏を支えるベッドタウンとなっています。




新宿副都心の高層ビル群をできる限りズームで撮影してみました。高さ243メートルの「東京都庁第一庁舎」を中心にして高さ200メートル以上のクラスの高層ビル群が密集しています。




最後に六本木通りの北側に広がっている「六本木七丁目」の住宅密集地です。この辺は空襲も受けなかったので戦前の住宅などもまだ残っている場合が多いそうです。これで東京シティビューの屋内展望台の散策は終わりです。次は専用エレベーターに乗って「東京スカイデッキ」へ向かいます!!!



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真夏の東京シティビュー:南~南西方向(目黒方向から乃木坂方向まで)

2012年08月19日 11時51分30秒 | 城南・港区全域


今回の記事は南側の品川区・目黒区方面から渋谷方面のパノラマを楽しんでみます。東京シティビューの展望台には簡易的なベンチが窓に沿って並んでるので、座りながら東京の展望を楽しむことができるようになっています。また通路に沿って喫茶店などが開かれているので休憩することもできます。




JR田町駅前(シティビューより南南東方向)に建っている「NECスーパータワー」の奥には芝浦ふ頭とお台場を結んでいる「レインボーブリッジ」の巨大な吊り橋が見えます。JR田町駅周辺も慶應義塾大学校舎やイタリア大使館などの緑地帯が点在しているのがわかります。




シティビューより南方向(JR目黒駅方向)。JR山手線の南側の環状部分の内側に広がっている山の手の住宅密集地が目の前に広がっています。旧白金御料地(国立科学博物館付属自然教育園)・東京大学医科学研究所の敷地など、都心三区の中でも緑地帯の割合が多い地域となっています。また閑静な高級住宅地として緑も憧れている場所の一つです。




JR恵比寿駅の北側、渋谷区広尾四丁目の「日本赤十字社医療センター」脇には1980年代に整備された「広尾ガーデンヒルズ」の中層マンション群が見えます。海抜250メートル上から見下ろすと、ガーデンヒルズの敷地も緑地帯のように見えます。




シティビューから南側を真下に見下ろすと元麻布三丁目の街並みが見えます。六本木ヒルズの敷地が再開発される以前は、ここ六本木六丁目も周囲と同じような住宅地が広がっていました。起伏に富んだ地形の上に広がっている閑静な住宅地だったそうです。




南南西方向に広がっている中規模の緑地帯は「有栖川宮記念公園」で、敷地内には「都立中央図書館」の建物が建っています。江戸時代に陸奥盛岡藩の下屋敷だった同地は、大正時代に有栖川家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となります。その後昭和9年(1934年)に東京市に寄贈され、公園として整備されました。




次は渋谷方向(西方向)を見ていきたいと思います。六本木ヒルズの敷地前を通過している眼下に見える大通りとその上に架かっている高架橋はJR渋谷駅前までまっすぐ続いています。「六本木通り」とその上の「首都高速3号渋谷線」の高架橋です。西麻布や南青山の地域を東西に縦断して渋谷方面へ向かっていきます。




首都高速3号渋谷線の先には「青山学院大学」の広大な敷地が広がっていて、その先がJR・東急渋谷駅周辺の繁華街となっています。六本木通り沿道は中層マンションやオフィスビルが林立しています。3号渋谷線はこの先で東名高速道路の東京インターチェンジ・用賀料金所と接続しているので、交通量が非常に多いです。




2012年4月28日に東急文化会館跡地に開業した「渋谷ヒカリエ」の真新しい高層ビルの出現によって街のイメージが幾分変わったJR・東急渋谷駅周辺をズームで撮影してみました。青山方向から見ると、宮益坂の坂下の低地に渋谷駅周辺の繁華街が広がっています。旧甲州街道に沿った武蔵野台地の高台の上に整備された新宿と比較すると、渋谷の街は坂下のすり鉢状の地形の中に作られた街です。




JR渋谷駅からさらに奥は世田谷区の広大な人口密集地が広がっています。世田谷区は東京特別区の中で一番人口が多く、84万人が生活しています。この数は山梨県の全人口に匹敵し、上空から見ても住宅地や中層マンションがどこまでも密集している風景画続いています。




六本木通りと後述する青山霊園の緑地帯にはさまれたエリアは「南青山五・六丁目」の閑静な住宅地が広がっています。徳川家康の重臣であった青山家の広大な下屋敷(現在に於ける別荘に該当)にちなみ、この付近一帯の町名に青山を冠した(赤坂青山○○町)ことが地名の起こりだそうです。




シティビューより北西方向(JR原宿駅方向)。山手線の環状内の西側近辺は広大な緑地帯が密集しているエリアです。「東京は大都会の割には緑が多い」というイメージはこのエリアのおかげだと思っています。実際に地上を歩いていても大都会の中を歩いているという感覚には不思議と因われないことが多いです。




北西方向の真下には「青山霊園」の緑地帯が広がっています。1872年(明治5年)に美濃国郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主だった青山家の下屋敷跡に開設されました。当初は神葬祭墓地であり、1874年(明治7年)に市民のための公共墓地となり、現在に至っています。都内屈指の緑地帯の一つである青山霊園は桜の名所としても有名です。




青山霊園に隣接しているのは在日米軍の「赤坂プレスセンター」、機関紙を発行している「星条旗新聞社」、その脇にある「麻布ヘリ基地」です。ヘリポートの真下を外苑東通りの「六本木トンネル」が貫通しています。この場所は旧日本陸軍の駐屯地であり、駐留軍によって現在も使用されています。




六本木トンネルの脇に立っているのは「政策研究大学院大学」と「国立新美術館」です。東京大学生産技術研究所の跡地に建設されました。




国立新美術館が立っている地域は一般的に「乃木坂」の地名で呼ばれています。2007年1月7日に開館したこの美術館は故・黒川紀章氏によって設計された建物で、ウェイブを描いた全面ガラス張りの外観が特徴的です。高さ250メートル上から見渡していても、ひと目でその特徴的な外観に気づくことができます。



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真夏の東京シティビュー:東南東~南方向(JR田町駅方向から目黒方向まで)

2012年08月18日 10時30分39秒 | 城南・港区全域


六本木ヒルズ森タワー52階のフロアにある屋内展望台「東京シティビュー」の散策を続けていきます。この日は夏休みの期間だったので多くの人たちで展望台が賑わっているのかと思いましたが、予想に反してほとんど誰もいない状況に近かったです。そのため真夏の快晴の東京のパノラマを独占することができました。




同じ52階のフロアには「森アーツセンターギャラリー」が併設されており、現在は「大英博物館古代エジプト展」が開催されています。むしろそちらの方の人通りが多く混雑しており、東京シティビューは閑散としていました。




シティビューより西南西方向(JR田町駅方向)。港区の芝地区や三田地区のオフィス街がJRの線路に沿って続いていて、内陸側の緩やかな丘陵地帯には住宅地と業務地が混在しています。この界隈は港区(赤坂区・芝区・麻布区が合併して誕生)において、「旧・芝区」の地域となります。




芝浦埠頭・日の出埠頭周辺をズームで撮影してみました。銀座の電信機工場が発祥となっている「東芝」の本社ビルを始めとして高層ビルがJRの線路や第一京浜(国道15号線)に沿って立ち並んでいます。その向こう側が日の出桟橋ステーションなどがある「日の出埠頭」です。




シティビューより南東方向を向いてズームで拡大すると「麻布山善福寺」の緑地帯と「元麻布ヒルズ」のタワーマンションが見えます。約1200年の歴史がある名刹とされ、「麻布」という地名はこのお寺の山号から採用されたと言われています。このあたりも標高が約20~30メートル前後の丘陵地となっています。




西南西方向(オーストラリア大使館方向)をズームで撮影すると首都高速都心環状線と2号目黒線が合流している「一ノ橋ジャンクション」が見えます。新宿御苑を源流に流れる「古川」が流れており、それに沿って首都高速の高架橋が建設されています。上の写真の左側に見えるこんもりとした緑地帯は「参議院副議長公邸」の敷地です。




南東方向には太陽が迫っているので、若干逆光気味になってしまいました。一ノ橋ジャンクション周辺は芝公園ほどではないですが、中規模・小規模の緑地帯が点在しています。古代から続くお寺や江戸時代の大名庭園の跡地に造られた施設などがこのあたりに集まっています。




シティビューより南南東方向(JR品川駅方向)。港区南部の高輪・白金といった都内屈指の高級住宅地と、その先にはJR品川駅周辺のビル群が見えます。世田谷区や杉並区のような純粋な住宅密集地ではなく、住宅地の中に緑地帯が混在していたりと、街そのものがゆったりとした雰囲気に覆われているところが魅力的です。




外苑東通りの「鳥居坂下交差点」をズームで撮影してみました。この辺は2000年(平成12年)に東京都営地下鉄南北線や都営地下鉄大江戸線が開通する以前は全く鉄道が通っておらず「陸の孤島」と呼ばれていたそうです。この外苑東通りの南側は港区の「麻布十番地域」となっています。古川の低地から麻布台地へと続く斜面に形成された街であり、非常に急な斜面の坂が多い地域です。




おしゃれなイメージの強い「麻布十番」ですが、実際に歩いてみると山の手というよりも下町の雰囲気の方が強かったと思います。実際に六本木地区や元麻布地区と比較すると標高が低いのです。退廃的なイメージのあるここ六本木の方がよほど山の手だなと感じるほどです。上の写真の中央を縦断している通りが「麻布十番商店街」です。




再開発エリアである六本木ヒルズの敷地内に立っている2棟のタワーマンションである「六本木ヒルズレジデンス」。「ヒルズ族」など高収入な人たちが住んでいる人たちが多いイメージが強いですが、実際には再開発工事がなされる以前のこの地域の地権者の人たちが大半なのだそうです。




「港区」は東京都のほぼ全域と埼玉県の一部を形成している「武蔵野台地」の東端部に当たります。標高が20~30メートル前後の緩やかな丘陵地が広がり、その中を「古川(渋谷川)」といった中小の河川が侵食した地形となっています。そのため傾斜地に住宅が建設されているケースが非常に多く、また旧な坂も多いのが特徴です。




JR品川駅方向をズームで撮影してみました。2003年(平成15年)に東海道新幹線新駅が開通を理由に、駅周辺の高層化が進んでます。またJR品川駅は品川区の区域にはなく、港区内にあります。品川駅の後方には羽田空港の広大な埋立地が広がっています。




東京シティビュー内には高さ11メートルの天井の高さと前面ガラス張りの「スカイギャラリー」が3箇所存在します。この日は閑散としてたので、広々とした空間を独占することができました。




南側のスカイギャラリーを抜けて渋谷・新宿方面が見える展望エリアへ向かいます!!!



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真夏の東京シティビュー:北西~東方向(皇居方向からJR浜松町駅方向まで)

2012年08月17日 11時32分52秒 | 城南・港区全域


8月上旬の快晴の平日、港区の六六(六本木六丁目)に建っている六本木ヒルズ森タワー52階の「東京シティビュー」へ行ってきました。以前同じ森タワー内の森アーツセンターで開催されている大英博物館古代エジプト展を訪れた後に展望台から眺めてみたのですが、その日は薄曇りだったのです。なので快晴の天気の日にもう一度訪れたいと思ってたところでした。




以前に大英博物館古代エジプト展を訪れた時と同じように、3階のチケットカウンターで入場券を購入し(東京シティビューとスカイデッキの併用で1800円)、専用エレベーターで一気に52階まで移動します。海抜250メートルから360度の展望を楽しむことができます。真夏の季節なのでやや空気が湿っている感じが否めませんが、文句なしの快晴の天気の東京を見渡すことができました。




シティビューより北西方向(JR新橋駅方向)。港区の北部(新橋・虎ノ門・赤坂)や千代田区全域の業務集積地区と呼ばれている界隈は高層ビルが密集しています。新橋駅や東京駅周辺は再開発工事によって100~200メートル前後の高層ビルが林立していますが、赤坂や虎ノ門といった界隈も近年では高層化が進んでいます。




ズームで撮影してみると、六本木一丁目地区にバブル経済が始まる直前に完成した再開発エリア「アークヒルズ」の高層ビル群が見えます。緑が立っている六本木ヒルズを始め、港区界隈の再開発工事は「森ビル」が多く関わっています。手前の積み木細工のような高層ビルは「泉ガーデンタワー」、旧住友会館及び住友麻布ハイツアパート、多くの民家、そしてアパート、小規模マンションの跡地に2002年に再開発工事によって竣工しました。




JR東京駅方向のさらに奥には墨田区の業平橋に建っている「東京スカイツリー」が見えました。以前に東京スカイデッキに訪れた時は雲に霞んでいてあまり見えなかったのですが、この日はくっきりと輪郭を捉えることができました。それにしても高さ634メートルの構造物の持つ存在感は約5キロほど離れた六本木から眺めても圧倒的だと思います。




北西方向の真下を見下ろしてみると、六本木六丁目・六本木五丁目界隈の住宅地が広がっています。同じ都心三区である千代田区や中央区が業務地区となっているビル群が多いのに対し、港区内は住宅地の割合が比較的多いのが特徴です。比較的標高が高い地域なので古代から人が住み続けてきた場所でもあるのです。




真下に見える、カーブしている大通りは港区内を東西に横断している「外苑東通り」です。海抜250メートル上から見下ろしていてもわかりずらいですが、このあたりは非常に起伏の富んだ地形で、多くの坂が存在し、建物は斜面の上に立っている場合が多いです。右下の建物は六本木ヒルズの再開発工事と共に竣工した「テレビ朝日本社ビル」です。




シティビューより赤坂・永田町方向。写真内の中央を横断している首都高速3号渋谷線の高架橋の左側にはアメリカ大使館宿舎の敷地の緑地帯が写っていて、その北側は国会議事堂や総理大臣官邸を中心とした「日本政府の中枢」地域が広がっています。




シティビューから北北西方向(JR東京駅方向)をズームで撮影してみると、皇居や皇居外苑の広大な緑地帯が見えます。鬱蒼とした木々に覆われている皇居内には御所があり、両陛下がお住まいになっています。皇居の北側の丸の内・大手町も高層ビルが密集しています。




東京駅丸の内や大手町の高層ビル群を可能な限りズームで撮影してみました。タワークレーンが3機並んで建設工事が行われている高層ビルは「(仮称)大手町1-6計画」(計画名は「東京プライムステージ」)です。高さ199メートルと丸ビルや新丸ビルとほぼ同じ高さのビルが誕生します。上の写真のやや右寄りの「グラントウキョウノースタワー」「サウスタワー」の双子ビルの脇に東京駅があります。




北西方向(JR新橋駅方向)をズームで撮影してみると、頭頂部が絞られてるツインタワーが見えます。標高24メートルの愛宕山脇において森ビルによって再開発工事がなされた「愛宕山グリーンヒルズ」です。曹洞宗青松寺を囲むようにツインタワーが建設されています。その奥には「汐留シオサイト」の高層ビル群が見えます。




タワークレーンが立ち並んでいて高層ビルの再開発工事が行われている虎ノ門四丁目周辺(新橋と同じく北西方向)をズームで撮影してみました。2012年8月竣工予定となっている「虎ノ門・六本木地区第一種 市街地再開発事業」の真新しい高層ビル群が見えます。高さ198メートルの「アークヒルズ 仙石山森タワー」が写真の右側に写っています。




シティビューより東方向(JR浜松町駅方向)。東麻布や麻布台などの起伏に富んだ地形の上に広がっている住宅地と、その奥には芝公園の緑地帯が見えます。芝公園の東側を通っている国道15号線(第一京浜)から東京港にかけての周辺は、JR新橋駅から浜松町駅にかけてJRの線路に沿ってオフィスビル街が広がっています。




増上寺を取り囲むような芝公園の緑地帯の敷地の一角に建っている東京タワーです。東京シティビューの屋内展望台は地上からの高さは218メートルですが、森タワー自体が武蔵野台地の高台の上に建設されているので、実質的な高さは250メートルです。なので、東京タワーの第二展望台(高さ250メートル)と同じ高さの場所にいるのです。




東方向の更に先、東京港・臨海副都心方向をズームで撮影してみました。隅田川の河口と一体化されている東京港の広大な海面と、「臨海副都心」として整備されている13号地の埋立地が見えます。さらに奥には2012年2月12日に開通した中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結んでいる全長2618メートルのトラス橋「東京ゲートブリッジ」が見えました。




芝公園をズームで撮影してみました。東京タワーの付け根部分の左側に見えるのが「東京プリンスホテル本館」、右側に見えるのが増上寺の本堂です。東京タワーの南側にも中規模な緑地帯が点在していますが、「ロシア連邦大使館」の敷地です。




六本木ヒルズが建っている六本木六丁目(通称「六六」)周辺は標高が約30~40メートルあります。なので周囲から見ると建物の高さは270メートルくらいあると感じられるのです。

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再び上野の森美術館「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展」を観てきました(後編)

2012年08月16日 20時18分52秒 | 台東・上野周辺


当日券売り場で料金を支払って受け取ったツタンカーメン展の(平日の)当日券です。当日券を受け取って気がついたことですが、別に当日券を買った日のうちに入場しなければいけない、ということではないようです。8月6日から9月28日までの有効期間の間(平日に限り)にどの日にちでも利用することができます。それにしても大人一枚2700円というのは値段的にどうなんでしょうね(土・日・祝日だと300円増しとなります)。




12:00~12:15の入場整理券の列に並んでいます。黄色いユニフォームを着た係員の人たちが美術館の正面玄関まで誘導してくれます。正午過ぎに並んだ時の時点で10人ほどが緑の前に並んでいました。




前に並んでいる人達の後ろから黙って付いていきます。美術館内に傘を持ち込むことは禁止されているので、傘は正門玄関脇の傘立てに収納しなければなりません。また館内では飲食禁止、カメラ・カメラ付き携帯での撮影・通話禁止、万年筆・ボールペン使用禁止となっています。またリュックサックを背負っている人は係員から肩から外して抱きかかえるように指示されていました。




当日券を購入した後に近くのテントで受け取った入場整理券です。この整理券この先で係員に渡して入場することができます。この入場整理券には時間帯が書かれているだけで日付が書かれていません。ということは、この入場整理券を後日に使うということも理論上は出来ることになります。




列に沿って進んで上野の森美術館の正面玄関から入っていきます。この先はデジカメの撮影禁止なので、パンフレットの内容を駆使して展示物の説明をしていきます。




導入編(ミニシアターで約三分間の映像説明)
上野の森美術館の正門玄関に入ってすぐのフロアに約6台のディスプレイが設置してあり、観覧者は一番最初に約三分間ほど映像説明を受けます。古代エジプトにおいて生命の象徴でもあった太陽とピラミッドの映像から始まり、1922年11月にイギリスの考古学者ハワード・カーター氏によってツタンカーメンの王墓が発見されたことなどが説明されます。この映像説明が終わるといよいよ展示物にご対面となります。

第一章 ツタンカーメンの世界(新王国時代とは) ~展示品数29~
日本がまだ縄文時代であった紀元前3050年頃、上エジプト(南部)と下エジプト(北部)をあわせた全エジプトが一人の王によって統一されます。ここに輝かしいファラオ(古代エジプト王朝において王位に就いた者のことです)達の時代が始まります。エジプトは「二つの国」からなるという考え方はその後も存続し、この統一を維持する事が王の大切な役目となりました。
初期王朝時代を経て前2680年頃に上下エジプトの境界にあたるメンフィスを首都とする古王国時代が始まり、エジプトは最初の繁栄期を迎えました。ギザの三大ピラミッドなどで知られる「ピラミッド時代」の幕開けです。繁栄は500年ほど続いたが、やがて王権は衰え、「第一中間期」と言われる事実上の分裂状態となりました。
前2000年頃に上エジプトのテーベ(現在のルクソール)出身の王が国土を再統一し、中王国時代が始まります。エジプトは繁栄を取り戻し工芸や文学など優れた文化が花開きます。しかし国土は再び分裂し、ヒクソスによる初めての異民族支配(第二中間期)を迎えることになります。前1600年頃に異民支配をはねのけ、上下エジプトを再び統一したのはテーベの王たちでした。エジプト最後で最大の繁栄期、新王国時代が始まったのです。
新王国時代、特に第18王朝期にはエジプトの領土は史上最大となり、南北の属国から流入する富によってエジプトは当代随一の大国となりました。テーベのナイル川東岸には壮麗な神殿群が立ち並び、西岸にも葬祭殿群や岩窟墓群などが数多く造営されました。この時代の素晴らしい工芸品や彫像などには、往時の栄華を垣間見る事が出来る秀逸なものが多い。まさに政治的にも文化的にも古代エジプトの絶頂期でした。ツタンカーメンはそんな時代に古代エジプト王朝のファラオとして君臨したのです。


第一章ではツタンカーメンが即位した当時の古代エジプトで建造された神殿群や、王家の谷などの王墓から発掘された品を中心に展示されています。映像説明の部屋から出た先に「展示No.1ツタンカーメンの立像」が出迎えてくれます。入場整理券によって館内を移動する人間の人数がコントロールされているので、満員電車程の混雑ではありません。ただ人の流れが滞るようになると係員の人たちから歩きながら鑑賞するように言われます。


第二章 古代エジプト人 スピリチュアル・ワールド ~展示品数22~
古代エジプト人にとって、光と闇、昼と夜をもたらす太陽は、「死後も生は続く」という再生復活の思想を生み出す根源でした。西に沈んだ太陽が翌朝東から昇ってくる事を生命の復活と考え、来世での復活を信じる独特な死生観が生み出されました。
死せる王は太陽神の船に乗り、昼間は天空を進み、夜には闇の怪物たちを退治しながら冥界を進み、夜明けに復活して東の空から再び天を駆けるのです。このような死生観は王族だけではなく高官から庶民にいたるまで信じられ、来世の家である墓の造営やミイラ作りが盛んに行なわれていました。遺体が腐敗しないよう処理されたミイラは、カアとバアなどの拠り所として重要な意味を持っていた。バアは人間の人格や個性に近い霊的存在で、人頭を有する鳥の姿で表され現世と来世を自由に行き来しました。カアは生命力を表し、死後も飲食物を必要とした。来世での生活に必要な様々な供物が墓に捧げられ、現世での暮らしや来世の様子などが壁画や銘文で残された。
新王国時代の都テーベでは、太陽の沈むナイル川西岸に、広大なネクロポリス(死者の町=墓地)が形成され、王や王族たちの墓や貴族たちの墓貴族たちの墓や壮麗な葬祭殿が造られたのです。このあたりは以前に訪れた六本木ヒルズ森アーツセンターの「大英博物館古代エジプト展」でも同じような説明を受けました。


第二章ではツタンカーメンの親兄弟親戚のシャブティ(古代エジプトにおいて、王墓に埋葬される際に一緒に入れられた人形)や彫像などを中心に展示されていました。ツタンカーメンの家系図が頭の中に入っていないと、誰が誰なのかわからなくなります。


第三章 ツタンカーメンのミステリー ~展示品数10~
ツタンカーメンが生まれ育った時代は、アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)がそれまでのアメン神信仰を捨て、太陽神アテン一神教へと変えたいわゆる「アマルナ宗教改革」の時代です。都はアメン神官団の勢力が強いテーベから、ナイル川中流域のアケトアテン(現在のテル・エル=アマルナ)に移されました。町の中心には大小二つのアテン神殿や官庁街、高官たちの居住区、美しい壁画が描かれた王宮などが造営されたほか、北と南にも居住地域が広がっていました。
アメンヘテプ4世は宗教改革に伴い、自らを「アテン神の輝ける霊」という意味であるアクエンアテンに改名し、この地で生まれたツタンカーメンも当初はアテン神の名を含むツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)という名でした。しかしこうした思い切った宗教改革もアクエンアテンの死後は引き継がれず、幼少(9歳)で即位したツタンカーメンはアメン信仰へと復帰します。都はメンフィスへと移され、宗教的な中心はテーベに戻りました。ツタンカーメンの治世は10年に満たず、その出自も最近までわかっていませんでした。それでも彼の幼い頃の生活の様子はアマルナ遺跡出土の遺物や、彼の墓に納められた数々の玩具や調度品類から、わずかながらうかがい知ることが出来るのです。そして最近になってザヒ博士を中心とするエジプト人の研究チームによって、長らく謎であったツタンカーメンの家族関係の一端が明らかになったのです。


第三章の目玉は「展示No.107 チュウヤの人型棺」です。ルクソール(テーベ)のアメンヘテプ3世の王妃ティイの両親、イウヤとチュウヤの墓(KV46)から発見された棺で、ツタンカーメンの曾祖母であるチュウヤのミイラが入っていました。この棺は360度ぐるりと観ることができました。


第四章 世紀の発見ツタンカーメン王墓 ~第五章ツタンカーメンの真実と合わせて展示品数32~
ヨーロッパの探検家たちは「王家の谷」の存在をはやくから知っていました。しかし19世紀になるまで「王家の谷」に辿りつくのは困難でした。ナポレオンのエジプト遠征によって「王家の谷」が世界に広く知られるようになり、多くの学者や冒険家がエジプトを訪れ発掘を行うようになりました。20世紀のはじめには「王家の谷」は掘り尽くされたと言われるまでになっていました
しかしイギリス人貴族のカーナヴォン卿とハワード・カーターは未発見の墓が残っていると考え、「王家の谷」の発掘権を得ます。発掘調査の最終シーズンになるはずであった1922年11月4日、世紀の大発見となるツタンカーメン王墓(KV62)の入口が掘り当てられます。王墓としては異例なほど小さく、古代に荒らされた形跡があるものの、再封印された後の状態が保たれていました。このような未盗掘の状態で見つかった王墓は「王家の谷」のなかではツタンカーメン王墓だけです。ハワード・カーターによる王墓の発掘と出土品の保存作業は10年にも及びました。黄金の玉座や彫像、指輪、腕輪、胸飾りなど、副葬品の多くが黄金で彩られており、その数はじつに5398点にも及びました。カーナヴォン卿と初めて王墓内に入ったとき、ハワード・カーターはろうそくの先に何が見えるかと聞かれました。そのとき、かの有名な言葉が生ます。「素晴らしいものです。」

ツタンカーメンの小さな墓は、通廊と前室、玄室、宝庫、付属室の4室からなります。通廊と前室からは金箔張りのベッドや戦車、王の幼少の頃の衣類が入った大型の箱など約700点の遺物が発見され、北側の壁際には杖とこん棒を手に持った等身大のツタンカーメンの彫像が二体、玄室への壁を守るように向き合って立っていました。玄室には部屋のほとんどを占めるほど大きな厨子が置かれ、この中にはさらに3つの厨子があり、さらに王のミイラを守るべく羽を広げた4人の女神が四隅に刻まれた石棺がありました。石棺の中には三重の入れ子になった棺が納められており、最も内側の純金製の棺の中に黄金のマスクをかぶり、150点にも及ぶ黄金の宝飾品や護符を身に着けたツタンカーメンのミイラが眠っていました。玄室の隣にある宝庫の入口にはジャッカル姿のアヌビス神像が部屋を守るように置かれ、その奥には4体の女神像に囲まれた小さい黄金の厨子や船の模型、神像などがぎっしり納められていました。そして目を見張るほど美しい黄金張りの厨子の中には、ツタンカーメンの内臓が収められた4つの黄金の棺形カノポス容器が納められていたのです。付属室からは数々の家具やシャブティ、食物やワインなど実に2000点以上の遺物が発見されています。


第三章の展示が終わると1階から階段を上がって2階へ移動します。第四章の「世紀の発見ツタンカーメン王墓」から先はルクソール(テーベ)の王家の谷のツタンカーメン王墓(KV62)から出土した品がほぼ全てとなります。「展示No.92・93 ツタンカーメンの肘掛け椅子と足台」など、実際にツタンカーメンが生前に使用していた品などが多く出てきます。どの品も金や銀などでコーティングされていて、保存状態は非常にいいものばかりでした。


第五章 ツタンカーメンの真実
ツタンカーメンは父アクエンアテン治世11年目に生まれ、新しい都アケトアテン(テル・エル=アマルナ)で育ちました。この地で生活していた頃の名は「アテンの生ける肖像」という意味のツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)です。彼は王族にふさわしい上質な衣類に金や半貴石などで飾られた豪華な装飾品を身につけ、ぜいたくで特権的な生活をしていました。中庭のある美しい王宮で王である父や家族、多くの召使とともに暮らし、マヤという名の乳母に育てられました。またツタンカーメンは王になる以前に、腹違いの姉と結婚をしていました。幼い王子と王女は一緒に育ち、一緒に遊んだのかもしれません。ツタンカーメンの墓にはそうした情景を思い起こさせる6つのゲーム盤が納められています。しばらくして父アクエンアテンが亡くなり、ツタンカーメンは9歳で即位します。幼い王はテーベのアメン神官たちとの軋轢にさらされ、間もなく「アメンの生ける肖像」という意味のツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)へと改名し、アマルナの都から政治の拠点をメンフィスへ遷すとともに、宗教の中心をテーベに戻しアメン神信仰に復帰したのです。幼いながらも王として懸命に政治を行ったに違いない少年王は、おそらく怪我(骨折)がもとで19歳で亡くなりました。二つの名は彼が激動する歴史の中で翻弄されて生きていたことを象徴するものなのです。

「展示No.80 ツタンカーメンの半身像」が自分の中ですごく印象に残っています。木製で金でコーティングされているツタンカーメンの等身大の彫像であり、顔つきは何となく日本人に似ていると感じました。


第六章 黄金のファラオたち ~展示品数13~
展示されている「棺形カノポス容器」はイシス女神と王の肝臓を守るイムセティ神に捧げられたものであり、実際この容器からはミイラの様に処理され布が巻かれた肝臓が発見されています。この棺形カノポス容器は杖とから竿、ハゲワシとコブラ、ネメス頭巾など王権を示す象徴的な標章を身につけています。この棺形カノポス容器の形は王のミイラを納めていた実物大の人型棺と非常に似ていますが、ここに表わされた容貌はツタンカーメンにはあまり似ていません。ツタンカーメンと比べると頬はふっくらとしており、目は大きく、顎は小さく、鼻筋も整っています。この容器については当初アクエンアテンの死後、そしてツタンカーメンが王になる前の短期間エジプトを統治したアンクケペルウラ―の名が刻まれていたことが知られています。従ってこのカノポス容器は、本来は少年王ツタンカーメンのために作られたのではなかったとも言われています。しかしいずれにせよこの容器はツタンカーメンの墓から出土した最も素晴らしい作品のひとつであると言えます。

現代と同様に、古代エジプトにおいても金は大変貴重なものであり、一種の権力の象徴と見なされていました。それに加え来世での永遠の生活を信じ不滅の生命を望んだ古代エジプト人にとって、金は特別な素材でした。神々の体は錆びることのない金でできていると考えられたため、不滅の生命を保証するものとして、金は多くの王たちによって墓の副葬品類に使われたのです。金はおもに東方砂漠やヌビア地方の鉱山から調達されました。 黄金のマスクのように重厚なものの他、薄い板状の金を加工して作られた装飾品類や調度品、金色に塗られた彫像など、ツタンカーメンの墓から発見された多くの副葬品は、黄金に囲まれた王宮での生活の様子を現代に伝えています。若くして亡くなったツタンカーメンは王としては例外的な小さな墓に埋葬されてはいたが、黄金の厨子や黄金の棺に守られ、黄金のマスクを着け、王権の象徴である杖とから竿を握り、さらに黄金の剣や護符などに守られて来世へ旅立ったのです。他の王たちの壮大な墓にいたってははたしてどれほどの副葬品類が納められていたのでしょう? ツタンカーメンの黄金の副葬品は私たちの想像をかきたてます。


最終章である「黄金のファラオたち」では今展示会の最大の目玉である「展示No.101 ツタンカーメンの棺形カノポス容器」を観ることができます。大きさは約40センチくらいでしたが、金や水晶が散りばめられており、素晴らしいと思いました。厨子の中にあった方解石の箱は4つに仕切られ、中に納められた4個の同じく方解石の壺から半貴石とガラスを嵌めこんだ金製のカノポス型容器が発見されたのです。今回展示されているのは、防腐処理がなされた肝臓のミイラが入っていた容器です。この他にもツタンカーメンのミイラの脇に置いてあったという「展示No.105 ハヤブサ形の黄金の胸飾りとおもり」「展示No.102 ツタンカーメンの黄金の儀式用短剣と鞘」「展示No.103 象嵌細工の黄金の首飾りとおもり」なども見ごたえがありました。




「展示No.107 チュウヤの人型棺」。棺には細かい文字で呪文が書かれていました。




「展示No.80 ツタンカーメンの半身像」。シャツを着ているツタンカーメンなんだそうですね。




「展示No.101 ツタンカーメンの棺形カノポス容器」。前部と後部で二つに分かれる構造になっています。




最終章「黄金のファラオたち」で目玉のものが集中しています。




今回も約2時間かけて観終わることができました。事前勉強をしっかりしてきたので、前回よりも楽しく見ることができてよかったです。入場整理券による館内の人数管理がしっかりとなされていたので、そんなに混むような状況ではなかったです。




午後2時前後の上野の森美術館周辺。雨はすっかり上がっていましたが、気温が徐々に上がってきました。建物周辺は相変わらずの混雑が続いていました。




今回もじっくりと観て来たのでフラフラになってしまいました。お盆の人通りの多い上野公園の緑地帯を散策していきます。




リニューアル工事が行われた噴水池脇に今年の春に開店した「スターバックス上野恩賜公園店」にやってきました。アイスコーヒーを飲もうとフラフラしながら立ち寄ってみましたが、ここでも混雑・・・。





10分ほど並んでようやくアイスコーヒーにありつけることができました。ここのスターバックスのお店を利用するのは今回が初めてです。上野公園の緑地帯の雰囲気を考慮してか、ログハウス風のスタバのお店でした。




アイスコーヒーを飲んでJR上野駅へ向かいます。




JR上野駅山手線ホームにやってきました。これで2回目の「エジプト考古学博物館所蔵ツタンカーメン展」の見学は終わりです。また面白そうな特別展が東京で始まったら訪れてみたいと思います。

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