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緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

上野の森美術館「ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」を見てきました。

2012年08月09日 17時17分35秒 | 城南・港区全域


本日、東京都台東区の上野の森美術館で開催されている「エジプト考古学博物館所蔵 ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」を観てきました。ツタンカーメンが日本に上陸するのは47年ぶりで、ツタンカーメン王墓から運び出された副葬品や装飾品、調度品など約50点を含む122点の古代エジプトの秘宝が展示されます。日本国内では大阪の大阪天保山特設ギャラリー(旧・サントリーミュージアム)で今年の3月17日から6月3日まで開幕して、8月4日から東京の「上野の森美術館」で開催されています。大阪では平日でも2時間待ちが当たり前であり、最終的には100万人近くが訪れたそうなので東京ではそれ以上の混雑になるでしょう。

日程:12年8月4日(土)~12月9日(日)
場所:上野の森美術館(最寄り JR上野駅)
時間: 10:00~18:00(最終入場17:00)
当日チケット:一般2700円・高校生1800円・小中学生1400円(土日祝日は300円増し)




朝9時過ぎのJR上野駅から上野公園の敷地内にある「上野の森美術館」へ向かいます。東京開催の前に2012年3月から開催された大阪では平日でも2時間待たなければならないと聞いていたので、「朝一番」で入場してみようと思って早く家を出発しました。

※今回の記事の写真は見終わったあとに撮影したのがほとんどです。




9時過ぎの時点でもうすでに混雑が始まっていて、当日券(2500円)を購入して入場整理券を受け取ります。「午前10時」の入場整理券を受け取って列に並んでいました。上の写真は見終わった後に上野駅から美術館への連絡通路所にあった案内板です(時間は午後1時過ぎ)。午後1時過ぎの時点で15時まで待たなければいけませんので、約2時間待ちです。




上野の森美術館というのは今まで行ったことがなかったのですが、JR上野駅から歩いて約5分くらいで到着します。




ツタンカーメン展は多くの人出が予想されるのか、臨時のチケット売り場が設けられていました。夏休みのお盆の期間に限って午前9時から入場できるそうです。




ツタンカーメン展のポスターなどに写っているのが「黄金のカノポス」です。1922年にツタンカーメンの王墓が発見された時に見つかった少年王の内蔵が保管されていた容器です。




エジプト考古学博物館で展示されている122点の装飾品や副葬品すべてを全世界で展示する「ツタンカーメン展」は2004年のスイス・バーゼルでの開催を皮切りに、ニューヨーク、ロンドン、メルボルンなどの世界11都市で1000万人以上が観てきたわけですが、2012年になってようやく大阪と東京で開催されることになりました。




上野の森美術館の入口です(見終わった午後1時過ぎに撮影)。展覧会は
1.ツタンカーメンの世界(新王国時代とは)
2. 古代エジプト人 スピリチュアル・ワールド
3.ツタンカーメンのミステリー
4.世紀の発見ツタンカーメン王墓
5.ツタンカーメンの真実
6.黄金のファラオたち
の6つの展示ゾーンに分かれています。一番の目玉である「黄金のカポノス」もしっかり観てきました。122点も展示物があるので観終わるのに約2時間半かかりました。




約2時間半かけて見終わって出てきたときはフラフラになってしまいました




特別展とはいっても上野の森美術館の1階と2階のフロアを使うなど展示エリアそのものはすごく広かったです。




この展示会の最大の目玉である「ツタンカーメンの棺形カポノス容器」は約40センチの大きさしかありませんでしたが、この目でしっかり見ることができました。それ以外にも全面に金が貼られている木製の柩「チュウヤの人型棺」、それぞれ違う形の王冠を被った二体のツタンカーメンの像など、いろいろなものが展示されていました。

一度だけでは見足りない気がするので、そのうちもう一度行ってきたいと思います!!!




上野の森美術館は上野公園の緑地帯の中にひっそりと建っています。同じ上野公園内にある国立博物館や西洋美術館、東京都美術館と比べると影が薄い気がしますが、美術館そのものは立派な建物でした。

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夏日の東京駅:佳境を迎えている丸ノ内駅舎復原工事(3)

2012年08月08日 14時40分18秒 | 東京駅周辺


新丸の内ビル前から丸の内オアゾの前を通って散策を続けていきます。新丸の内ビルの正面玄関前から撮影した丸の内駅舎の北ドームです。南ドームには「南ウイング部」という建屋が続いていますが、北ドームの脇には線路がそばに敷かれているので、北ドーム建屋の北側部分ですっぱりと切れてしまっています。背後の高層ビルは大和証券グループ本社やフランスのパリを本拠としているBNPパリバ日本支社が入居している「グラントウキョウノースタワー」です。




連合国の方針に基づく財閥解体政策によって三菱本社、三菱商事は解散。三菱重工業、三菱化成が三分割に追い込まれます。死の床にあった岩崎小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来ませんでした。とは言っても世界最強の軍事国家であるアメリカに戦争をふっかけて、アジア全土を占領する戦争を日本が行えたのも、三菱を始めとした財閥の力があってこそだったのです。




日生丸の内ビル前から撮影したJPタワーです。JPタワー特有の「折り紙を折って作った紙飛行機」のような外観はいつ見てもこれまで見たことがない高層ビルの外観なので圧倒されます。




1954年に三菱商事が再合同、また同年には三大財閥中2番目に三菱主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした三菱金曜会が始められ、10年後の1964年には三菱重工業も再合同するなど再びグループ化します。金曜会は戦前の三菱本社を頂点とした三菱財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成です。ちなみ、住友グループは1949年(正式には、1951年4月)に白水会が設立され、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立しています。




北口改札の前に建っていた「びゅうプラザ」が入っていた建物も取り壊されています。三菱グループは、特に戦後の日本の高度経済成長期に、高度成長を担った重化学工業分野に中核有力企業が多いという強みが大いに発揮し、戦後も引き続き日本を代表する企業グループの一つとして発展しました。




「スリーダイヤ」をシンボルマークに持つ「三菱グループ(金曜会)」は21世紀現在も日本経済を引っ張る一大グループとなっています。特に三菱グループの中核とされる三菱東京UFJ銀行、三菱商事、三菱重工業の3社は「三菱グループ御三家」と呼ばれています。グループの主要企業ながら、社名に「三菱」が付かない企業(日本郵船、JXホールディングス、明治安田生命保険、東京海上日動火災保険、旭硝子、ニコン、キリンホールディングス(旧・麒麟麦酒)など)もあります。




「三菱グループ御三家」の一つ目の「三菱東京UFJ銀行」は2006年1月1日、東京三菱銀行 (BTM) とUFJ銀行 (UFJ) が合併して誕生しました。JPタワーの裏側に本社ビルを構えています。二つ目の「三菱商事株式会社」は岩崎弥太郎が後継となった九十九商会の流れを汲む総合商社で「丸の内ブリックスクエア」に本社機能を置いています。三つ目の「三菱重工業株式会社」は2003年に丸の内から「品川グランドコモンズ」に本社機能を移転しました。




丸の内オアゾ前から撮影した北ドームの全景です。北ドームの建屋内では現在も内装工事が行われていて、今年の10月の開業に向けて急ピッチで進められています。丸の内側の赤レンガ本駅舎は1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲によりその多くが破壊され、終戦後の1947年(昭和22年)に開業当初の状態より一回り規模を縮小して修復されました。




復原工事に先立って2006年(平成18年)春に丸の内駅舎内で「東京駅ルネサンス」が開催され、2007年(平成19年)5月30日より、鹿島・清水・鉄建 建設共同企業体が担当となって、駅舎を本来の姿に近い形態に復原する工事が開始されます。この工事では鉄骨鉄筋コンクリート壁で躯体を増築して建築当初の3階建てに戻した上で、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠も再現し、新たに地下1・2階を増築し免震装置を設置しました。




丸の内オアゾ前から撮影した東京駅八重洲口に建っている「グラントウキョウノースタワー」と「丸の内トラストタワー」です。晴れの日の午後の時間帯になると西日の強烈な光が建物の壁面全体に照りつけて、高層ビル全体が光り輝き始めるのですが、訪れた時はまだ少し時間が早かったみたいです。




東京駅の日本橋口周辺には東京変電所跡地にJR東日本の東京駅再開発構想「東京ステーションシティ」で最初に竣工した建設された「サピアタワー」や、「JR東日本新幹線運行本部ビル」など旧国鉄時代から続く建物や、国鉄が所有していた建物の跡地に再開発された高層ビルが密集しています。




最後に「丸の内オアゾ」の中を散策して終わりにしたいと思います。三菱地所、日本生命保険、中央不動産によって再開発が進められて2004年(平成16年)に竣工しました。名前のオアゾ(OAZO)は、丸の内地区(O)と大手町(O)を包括的に(AZ)結ぶ、「Office&Amenity ZOne」であることを表現しており、エスペラントで「オアシス、憩いの地」を意味するオアーゾ(OAZO)の意味も含んでいます。




かつてここ丸の内駅舎の前の一等地には「JR東日本本社ビル」(1987年の国鉄民営化以前は「日本国有鉄道本社ビル」)が建っていました。2012年現在でこそおしゃれなブティックや飲食店が増えてきた東京駅の丸の内ですが、1990年代の東京駅丸の内といえば昭和の雰囲気のオフィスビルに囲まれた無機質なビジネス街で、土日や祝日になると町全体がゴーストタウンの雰囲気に満ちていました。




2002年の「丸の内ビル」の開業や、2004年の「丸の内オアゾ」の開業によって丸の内のイメージは激変したと思います。丸の内界隈に勤務しているビジネスマンの人たちをターゲットにしたレストランや雑貨など56もの店舗が入居しています。大丸東京店を有する八重洲口ほどの賑わいはありませんが、確実に単なるオフィス街から東京の新名所になりつつあります。




丸の内オアゾの吹き抜け空間から撮影した丸ノ内駅舎の北ドームです。東京駅の丸の内駅前広場前に面した一等地にあるのですから、もう少しこの「丸の内オアゾ」が全国的に有名になってもいいと思いますが・・・。




丸の内のビジネスマン向けのお店が並んでいる吹き抜け空間の中を散策していきます。これで東京駅の散策は終わりです。




丸の内オアゾは東京地下鉄東西線大手町駅とも直結しています。緑が千葉方面から東西線に乗って大手町駅で降りて、東京駅まで移動するのにいつも丸の内オアゾの中を通り抜けています。JR東日本の本社ビルがあった頃(1990年代)は、まさか再開発跡地にレストランやショップ街ができるとは予想もしていなかったです。

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夏日の東京駅:佳境を迎えている丸ノ内駅舎復原工事(2)

2012年08月07日 17時42分55秒 | 東京駅周辺


資材置き場と化している丸の内駅前広場と臨時タクシー乗り場の間に歩行者用通路が設けられていて、南ドームから中央改札口まで徒歩で移動していきます。平日の昼間の時間帯の丸ノ内駅舎周辺は本当に人通りが少ないです。駅構内は凄まじいほどの人通りですが、ほとんどが乗り換えの乗客なので、駅の外に出てくるお客さんはほとんどいないのです。




岩崎弥之助が三菱社を継いだ同時期(1890年前後)に弥之助は日本陸軍から150万円で丸の内の練兵場跡地を買い取ることになります。当時は官営東海道本線の始発駅は新橋駅であり、日本鉄道(後に国鉄に買収される)の東北本線の始発駅は上野駅でした。まだ東京駅周辺は雑草が生い茂っており「三菱ヶ原」と呼ばれる始末でした。




私有地とはいえ明治天皇がお住まいの皇居前の一等地が荒れ地となっていることに対して世間の批判が始まります。社内外からの批判に弥之助は「竹でも植えて虎でも飼うさ」と周囲に言い続けていたそうです。ちなみに弥之助が購入した土地は丸の内だけでなく、同じ千代田区内の三崎町や、日比谷・数寄屋橋周辺も含まれていたそうです。




歩行者用通路から中央改札口建屋までは資材置き場の中に造られた狭い小路の中を進んでいくことになります。この場所のすぐ脇に工事用のプレハブ小屋があるので、関係者などの往来が頻繁にあります。




1894年(明治27年)に現在のJR有楽町駅前・東京国際フォーラムが建っている場所(高知藩屋敷跡地)に東京府庁の庁舎が完成します。それまでの東京府庁舎は日比谷公園の南側にありましたが、北東側へ移動したのです。当時はまだ官営東海道本線は新橋駅止まりであり、中央停車場(東京駅)も存在しません。




1889年(明治22年)に神戸まで全通した官営東海道本線の新橋駅と、日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決されます。新橋駅は始発駅から途中駅となり、新線は丸の内・皇居の脇を通過するルートが採用されます。




官営東海道本線の延伸部の新線の線路が敷かれたのは三菱が買い取った私有地です。「政商」と言われるほどの力を持っている岩崎弥之助も、政府の鉄道建設に対して何も口を出すことはできなかったそうです。当時の日本政府は陸軍や海軍の軍事力によって支えられている軍事政権であり、鉄道を陸上戦闘の手段と考えていた陸軍に逆らうことはできなかったのでしょう。




日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月18日に開業しました。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され「東京駅」と名付けられました。1919年(大正8年)に中央本線が、1925年(大正14年)に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4年)には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していきます。




東京府庁舎が高知藩屋敷跡に建設された1894年(明治24年)に丸の内最初のオフィスビルである「三菱一号館」が竣工、これを皮切りにロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになります。三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中しています。




行幸通り脇・丸の内ビル前から撮影した丸ノ内駅舎です。背後には八重洲口に建設された「グラントウキョウノースタワー」の高層ビルが建っています。




1893年(明治23年)に商法が施行され三菱社は「三菱合資会社」へと改組します。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任します。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大されました。1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任します。この頃から三菱財閥は来るべき「国家総力戦」の経済体制を支える存在となっていきます。




行幸通りの東端部を横切っていきます。2010年4月に交通解放された行幸通り、まだ知名度が低いためか閑散としていました。写真の右端に立っている「日本生命丸の内ビル」、真夏の午後の西日に照らされて真っ白に光り輝いています。




1917年(大正6年)に三菱造船、三菱製紙、1918年(大正7年)に三菱商事、三菱鉱業、1919年(大正8年)に三菱銀行、1920年(大正9年)に三菱内燃機製造、1921年(大正10年)に三菱電機と次々に分割化していきます。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大します。土佐藩の海運業から始めた三菱は、「三菱財閥」として戦前の激動の時代を支える存在に成長したのです。




行幸通りの東端部から撮影した丸ノ内駅舎です。まだ工事用のプレハブや工事用の仕切りが写っていますが、秋口にはほとんど撤去されて駅舎の全容を見渡すことができるようになるでしょう。




1945年(昭和20年)8月15日に日本は連合国にポツダム宣言を受託し無条件降伏、同年9月11日に東条英機内閣閣僚などに駐留軍から出頭命令が下されます。そして9月22日に「日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進」することを旨とした「財閥解体」政策が三菱財閥に襲い掛かることになります。




地図の中心点は行幸通りの東端部です。関東大震災後に「不燃都市」を作るという計画の元に整備されました。

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夏日の東京駅:佳境を迎えている丸ノ内駅舎復原工事(1)

2012年08月06日 13時40分17秒 | 東京駅周辺


JPタワー低層棟脇から丸の内駅前広場方向へ引き返して散策を続けていきます。皇居と中央停車場(東京駅)の間の南北に細長いエリアは「丸の内」といい、日本国内で一番地価の高いエリアとして有名です。2012年度の国土交通省実施の地価公示においては、それまで猛追し続けていた中央区の銀座4丁目と同額となりました。丸の内は名実ともに日本一のビジネス街としてこれからも発展していきます。




東京駅の丸の内は地図を調べてもらうとわかりますがこれまで大阪に本社機能があった大企業が集結しています。なので丸の内というのは「東京一極集中」と「大阪の衰退」の象徴のような場所であり、東京の繁栄というものは「1990年代までの日本一の大都会」であった大阪の経済力を犠牲にして成り立っているのです。人・物・金の集積機である東京のお隣の千葉県に住んでいる緑からすると東京の繁栄は素直にうれしいものですが、やはり後ろめたい気持ちはあります。




内装工事が実施されている丸ノ内駅舎南ウイング部の全景です。「丸の内」は「本丸の内」、江戸時代は江戸城の敷地であり全国の大名の屋敷が密集していました。明治維新後は大名屋敷は全て取り壊されて官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などになりました。その後大阪の三菱財閥の2代目当主・岩崎弥之助に150万円で払い下げられます。




2012年現在、丸の内周辺は30棟以上の三菱系列のビルが並んでいますが明治時代に誕生した「三菱財閥」と「岩崎弥之助」について振り返ってみます。創業者である岩崎弥太郎氏は明治維新直後の維新政府の樹立後の全国統一貨幣制度改革に乗じて莫大な起業資金を得ます。これは江戸時代まで流通していた藩札を大量に買い集め、新政府に買い取らせたのです。




その後坂本龍馬暗殺後に解散された海援隊の後進として設立された商社組織「九十九商会」の監督を土佐藩から命じられた岩崎弥太郎は政商として活躍することになります。九十九商会は大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷にありました。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開していきます。




「JPタワー」の正面玄関にやってきました。写真には「郵便局・ATMは営業していません」という看板が掲げてありますが、7月17日より東京中央郵便局、ゆうちょ銀行本店及び郵便事業銀座支店JPタワー内分室がJPタワーに移転・オープンしています。




これまで「ゆうちょ銀行」の本店は丸の内の郵船ビル内にありましたが、7月17日よりJPタワーに移転しました。同行は総資産が約226兆円で、発足前まで業界トップだった三菱UFJフィナンシャル・グループの約198兆円を抜き、2008年(平成20年)末現在で日本最大の預金金融機関です。 都市銀行には含まれておらず、みずほ銀行以外で全国47都道府県全てに支店を有しているのはゆうちょ銀行のみです。




三菱財閥の話に戻りますが、三菱商会は西南戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになります。三菱商会の台頭に危機感を抱いた長州閥と三井は三菱バッシングに打って出ます。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して政府が音頭とって三井、渋沢、大倉らの財界人を結集して設立した半官半民の「共同運輸会社」でした。




復元工事によって見事に創建当時の姿となった丸ノ内駅舎。真新しい赤レンガの壁面が東京の新しい象徴となるのでしょう。「国を挙げての三菱潰し」と称された三菱商会と協同運輸の競争のさなか、岩崎弥太郎氏が死去します。死後、三菱と共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(1885年9月、資本金1100万円、うち岩崎家出資金500万円)します。




岩崎弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが岩崎弥之助です。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創します。いわばこれが後の財閥形成の基になりました。




東京駅丸の内口前にあった旧日本国有鉄道本社ビル(1987年 - 1997年までは東日本旅客鉄道株式会社本社ビル)・交通公社ビル(旧ジェイティービー本社)・東京中央ビル跡等を再開発して造られた「丸の内オアゾ」の一角に建っている「日本生命丸の内ビル」です。2004年9月に竣工した大理石調の高層ビルです。




1889年(明治22年)に創業した日本で3番目に古い生命保険会社です。滋賀県彦根で第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)の頭取をしていた弘世助三郎が関西の財界人に呼びかけて、社長に十一代目鴻池善右衛門を据え、片岡直温らを取締役にして資本金30万円の有限責任日本生命保険会社として大阪に発足させました。




1891年(明治24年)に株式会社(社名は日本生命保険株式会社)に改め、相互扶助の精神のもと1898年(明治31年)の第1回大決算において、日本で最初に契約者への利益配当を実施しました。第二次世界大戦中に戦時統合として、富士生命保険・愛国生命保険と合併しました。戦後は金融機関再建整備法に基づき、1947年(昭和22年)に相互会社(社名は日本生命保険相互会社)として再出発しています。




高度経済成長期である1963年(昭和38年)に東京日比谷に日生劇場を完成させます。1988年(昭和63年)2月4日に生命保険会社の総資産部門の世界ランキングで米国のプルデンシャル保険を抜いてトップにたちます。すでに新契約高・収入保険料・保有契約高の三部門で世界一になっていたので、これで四部門のすべてを制する「四冠王」に輝き、名実ともに世界第1位の生命保険会社となりました。




丸の内駅舎の復原工事中は駅前広場が工事用の資材置き場となっていましたが、この先資材置き場も縮小されていきます。そうなると丸の内駅舎の全景を見渡すことができるようになります。次回の記事でも東京駅丸の内駅舎の現況の写真と、引き続き三菱財閥の発展と、東京駅丸の内への進出を述べていきたいと思います。




明治時代の初期の丸の内は雑草が生い茂る「三菱が原」と呼ばれていたそうです。

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夏日の東京駅:丸の内駅舎南ウイング部とJPタワー周辺

2012年08月05日 08時39分56秒 | 東京駅周辺


7月の下旬の快晴の天気の日を選んでJR東京駅の丸の内へ散策してきました。丸ノ内駅舎やJPタワーの工事用シートは6月中に取り除かれているので目立った大きな変化はないですが、駅前広場に展開されていた工事用のプレハブが撤去され始めるなど、丸ノ内駅舎の復原工事が最終段階に入ってきました。




丸の内駅舎の丸の内南改札口周辺では新しい屋根の建設がなされていて、青いネットに屋根の骨組みが覆われていました。新しい屋根は高さが3メートルくらいと意外と高さがあり、軒下部分もかなり面積が広く取られていました。




「東京駅南口交差点」です。「東京駅の復原工事」の完成予想図を見てみると暫定的に設置されていた路線バス乗り場は駅前広場の中に設置することになっており、この臨時のバス乗り場はいつ移設工事に入るのか気になります。




南ドームの改札階を取り巻いている新しい屋根は既に一部が完成してありました。




屋根の外側に出てみて南ドームを撮影してみました。午後の快晴の青空に赤レンガが鮮明に映っていました。




完全に工事用シートが取り払われてその全貌が見えているJPタワーの低層棟です。これまで東京中央郵便局跡地の再開発工事は「(仮称)JPタワー」もしくは「丸の内二丁目7地区計画新築工事」と呼ばれていましたが、2012年5月31日に竣工してついに正式名称が「JPタワー」に決定しました!!!




「JP」とは郵政民営化によって誕生した「郵便局株式会社 Japan Post Network Co.Ltd」の頭文字をとって命名されています。緑も「JPタワーが正式名称でいいと思う」と考えていたので、希望がかなってよかったです。7月17日より東京中央郵便局、ゆうちょ銀行本店及び郵便事業銀座支店JPタワー内分室がJPタワーに移転・オープンしました。JPタワー全体のグランドオープンは2013年春を予定しています。




真下から見上げて撮影したJPタワーです。建築物としては、旧東京中央郵便局舎を一部保存した低層棟と最高軒高200.0mの高層棟から構成され、旧東京中央郵便局の保存部分は免震構造で構造躯体を保存しています。高層棟には日射遮蔽ルーバー(庇)と高性能遮熱断熱ガラス(Low-Eガラス)によるエアフローウィンドを採用した、床から天井まで1枚ガラスの窓(フルハイト窓)を設置していて、今まで見てきた高層ビルとは全く違った雰囲気です。




午後の時間帯だと丸の内駅舎全体が周囲のビル群によって影に囲まれてしまいますが、めげずに散策を続けていきます。丸の内駅舎の南ウイング部脇ははとバス乗り場となっていますが、散策していた時は停車していたバスが一台もなかったので好きに撮影することができました。




高さ200メートルの高層棟も迫力がありますが、JPタワーの低層棟もそばから見上げると迫力があります。低層棟は地上5階建てですが1階当たりの天井の高さが高いので、7階の建物に相当しています。




秋の東京ステーションホテル開業へ向けて内装工事が進められている南ウイング部の全景です。




丸ノ内駅舎とJPタワーの低層棟の間に新丸の内ビルを収めて撮影することができました。




JPタワーの低層棟の裏側に回り込んでみます。この建物に入居する「郵便局株式会社」は前政権与党が推し進めた「郵政民営化」によって誕生した組織です。郵政解散後に成立した法案を読んでみると「郵便局および郵便窓口業務を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務を営むことを目的とする株式会社(特殊会社)」であると規定されています。




「郵便局株式会社」の他に郵便事業株式会社・郵便局株式会社の全ての発行済み株式を保有・管理する「日本郵便株式会社」、郵便業務・収入印紙の売りさばきを行う「郵便事業株式会社」、従来の通常郵便貯金などを郵政公社から継承し、郵便貯金業務を行う「ゆうちょ銀行」、生命保険業務を行う「かんぽ生命」、従来の郵便貯金契約(通常郵便貯金などを除く)・簡易生命保険契約を承継・管理する「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構 」の6つに分けられました。




ズームで撮影してみると丸ノ内駅舎の南ウイング部の奥に「日本生命丸の内ビル」の純白の高層ビルが移りました。赤レンガの丸の内駅舎と大理石の日生丸の内ビルの真っ白な壁面の組み合わせはいつ見ても素晴らしいと思います。




丸の内駅者の周辺を散策していきます。

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