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緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

向寒の日比谷散策:中央省庁街を抜けて国会議事堂前まで(1)

2012年11月25日 10時40分43秒 | 皇居周辺・城西


日比谷公園の西幸門、「西幸門前交差点」から霞ヶ関一・二丁目の中央省庁が密集しているエリアを散策していきます。昼食時までまだ2時間は時間がある霞ヶ関周辺はびっくりするほど人通りが少なく、閑散としていました。片側3車線の立派な大通りが整備されている霞ヶ関周辺の道路も交通量はそんなに多くはなかったです。




日比谷公園の敷地の西側に整然と並んでいるビル群。一番手前のビルは「合同庁舎5号館」の別館と本館です。本館には 内閣府・厚生労働省・環境省が入居していて、工事用シートに覆われている別館は人事院が入っています。




ズームで撮影すると一番奥から合同庁舎6号A棟(法務省・最高検察庁・東京高等検察庁・東京地方検察庁・東京区検察庁公安審査委員会・公安調査庁) 、B棟(公正取引委員会・東京地方検察庁・東京区検察庁)、C棟(東京家庭裁判所・東京簡易裁判所・東京地方裁判所)です。




中央省庁又は中央政府とは、「国の行政機関」と定める省とそれらの外局(委員会、庁)、および、内閣府設置法に定める内閣府とその外局(委員会、庁)を指します。また、単に「国の行政機関」もしくは中央省庁といった場合、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省、国家公安委員会(警察庁)の1府12省庁を指しています。




国会通りを西へまっすぐ歩いていると、前方に「財務省庁舎」が見えてきました。霞ヶ関の官庁街と言うと、無機質なビル群に囲まれていて、制服警察官が常に警戒していて物々しいイメージがありますが、実際に歩いてみると大通りには街路樹が多く意外と穏やかな雰囲気な場所なのですね。




財務省庁舎の堂々とした雰囲気の建物と、その南側には「中央合同庁舎第7号館(霞ヶ関コモンゲート)」の2棟の高層ビルが建っています。高層ビルには文部科学省と国立教育政策研究所、科学技術政策研究所、会計検査院、民間企業等が入居しています。霞ヶ関コモンゲートは2005年10月に竣工しました。




2001年(平成13年)の中央省庁再編によって大蔵省から分割されて誕生した「財務省」は健全な財政の確保、適正かつ公平な課税の実現、税関業務の適正な運営、国庫の適正な管理、通貨に対する信頼の維持及び外国為替の安定の確保を図ることを任務とするとしています。(財務省設置法第3条より)。中央省庁街の中でも特に優秀な人たちが働いていることでも有名ですね。




財務省庁舎前、国会通りと桜田通り(国道1号線)が交差している「霞ヶ関二丁目交差点」。国会通りはこの先で「潮見坂」と呼ばれている急坂となっています。この急坂を登り切るとすぐに国会議事堂前に出ることができるのですが、今回の散策では右へ曲がって桜田門経由で向かってみたいと思います。




桜田通り(国道1号線)を桜田門へ向かって歩いていきます。鬱蒼としている街路樹もまだ紅葉には程遠かったです。




農林水産省・林野庁・水産庁が入居している「中央合同庁舎第1号館」の脇を通り抜けていきます。中央省庁というよりは、大学の校舎のような雰囲気の建物でした。




大通りを挟んだ向かい側には「外務省庁舎」の建物が見えました。世界各国に特別の機関として在外公館を置いており、外交政策、外交使節、通商航海、条約等の国際法規の締結・運用、外国政府との交渉、情報収集・分析・発信、在留邦人の保護および文化広報活動など国の対外関係事務全般の業務を行っています。




「霞ヶ関一丁目交差点」に到着しました。交差点の北側には内閣府(国会等移転審議会事務局)・総務省・消防庁・国家公安委員会・警察庁・運輸安全委員会・海難審判所が入居している「中央合同庁舎第2号館」の巨大な建物が建っています。




その先をズームで撮影してみると「警視庁本部庁舎」の建物が見えました。警視庁の建物は皇居の桜田門の前に建っていますが、実際には桜田門という地名は存在せず、正式な住所は霞ヶ関二丁目となっています。




法律上は東京都の警察は飽くまで「東京都警察」であり、警視庁はその本部にあたります。警視総監がその事務を統括しますが、給与支払者は東京都知事です。他の府県警察のように管区警察局の管理下に置かれておらず、広大な面積を有する北海道警察と同じく、警察庁の直接の監督下にあります。




日本の首都である東京都を管轄している他に、天皇・皇族の警衛、立法府、行政機関、駐日大使館、総理大臣官邸等の重要施設の警備、内閣総理大臣等要人(国務大臣、主要党首、与党幹部)の警護も任務としています。すなわち「警視庁」という語は、他の道府県警察と同様の「東京都を所管する警察本部」という意味と、他の道府県警察と異なる「日本国の首都警備を担う警察」という意味を併せ持つといえます(ただし皇宮警察本部は警察庁の所管です)。




しばらく歩いていると、右手に赤レンガの庁舎が見えてきました。




歴史的建造物(重要文化財)に指定されている「法務省旧本館(中央合同庁舎第6号館赤れんが棟)」です。旧司法省庁舎として1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の歴史主義建築であり、戦時中に空襲によって被災した後の1950年に法務府庁舎(1952年からは法務省本館)として再利用されることになります。




その時の改修工事では屋根材(スレートから瓦)等に変更が加えられました。しかし1994年の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになります。同年12月27日には国の重要文化財に指定されています。




次回の記事では桜田濠に沿って歩いて国会議事堂前へ向かいます。

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向寒の日比谷散策:紅葉にはまだ早い日比谷公園(3)

2012年11月24日 14時13分41秒 | 皇居周辺・城西


首かけイチョウの大木の前を通り過ぎてしばらく歩くと、散策道は「雲形池」の脇につながっています。雲形池周辺は紅葉が綺麗なことで有名ですが、まだ11月の上旬だと程遠かったみたいです。霞が関の中央官庁街に隣接しているこの池の周辺も閑散とした雰囲気でした。




明治時代初期の都市構想「官庁集中計画においては日比谷ヶ原にも官庁の建設が予定されたのですが、元々入江だったため地盤が悪く、大掛かりな建物の建設には不向きと判断されます。同年11月、内務省東京市区改正委員会において古市公威・芳野世経により公園地としての利用が提案され、翌年には日比谷公園を第一とする第四十九までの公園の整備を盛り込んだ市区改正が告示されます。




明治26年(1893年)に東京市が軍から払下げを受け、告示第六号により跡地は正式に日比谷公園と命名されます。明治34年(1901年)に造園委員でもありドイツ留学を終えたばかりの本多静六を中心として立案することとなるのですが、これ以前に多くの専門家によって設計案が出されたのですが、どれも不採用になっていたのです。




本多は留学経験を生かしてドイツ式庭園を目指した一方で、江戸城に連なっていた堀を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残しました。心字池ではかつての石垣の一部を今でも見ることができます。ついにこの案が採用となり、本郷高徳により図面が起こされ、明治35年(1902年)4月着工、翌年6月1日に仮開園を迎えました。




鬱蒼とした緑に囲まれている「雲形池」。春の時期には桜が満開となり、今の季節は紅葉が楽しめるはずなのですが、1~2週間ほど早かったです。冬の時期になると氷柱が立つなど四季の季節に合わせた表情を楽しむことができます。




東京都心部の中枢とは思えないほどひっそりと静まり返っていて、逆に怖くなってきてしまった程でした(汗)。




早くも開園と同年に洋風喫茶店松本楼、和風喫茶店三橋亭(現パークセンター)、結婚式場高柳亭(現日比谷パレス)、洋風レストラン麒麟亭(現レストランなんぶ)、植木屋などが出店し、現在もある店舗の多くが出揃います。日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実しました。明治38年(1905年)8月に音楽堂が竣工、大正11年(1922年)には野外音楽堂が完成しました。




開園後には日露戦争祝賀会やほとんどの国葬などの開催場所として政府に積極的に活用された一方で、大正デモクラシーの中、東京市電賃上反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなりました。日露講和条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展する事件も多々起こりました。




「鶴の噴水」をズームで撮影してみました。




昭和17年(1942年)に太平洋戦争が開始すると、日比谷公園は軍用地となります。真鍮製の外柵は金属供出に出され、松本楼は海軍省将校宿舎として利用されました。食糧難のため花壇ではジャガイモが栽培されました。戦後、日比谷第一生命ビルの近くで軍用地でもあった日比谷公園はGHQの接収を受け、松本楼は米軍宿舎として利用されました。昭和26年(1951年)接収が解け、再整備が始まります。




雲形池の脇を離れて先へ進むと公園の南端、霞ヶ関官庁街に面した「西幸門」に到着しました。門の脇には「かもめの広場と郷土の森」が整備されています。全国都道府県の木を記念に植樹し、東京都の鳥であるユリカモメを模したカモメの噴水を設置した広場とのことです。




立派な門柱が建っていました。




かもめの広場といえば春の時期になると満開の桜を楽しめることで有名ですね。




「かもめの噴水とフェニックス像」です。東京都の鳥であるユリカモメをモチーフとして作られているそうです。




西幸門前から日比谷シティ方向を撮影してみました。次回の記事から霞ヶ関の中央省庁が立ち並ぶビル群の中を抜けて永田町へ向かいます!!!




西幸門前交差点から散策していきます。

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向寒の日比谷散策:紅葉にはまだ早い日比谷公園(2)

2012年11月23日 13時02分26秒 | 皇居周辺・城西


洋風花壇として整備されている「第一花壇」へやってきました。この花壇周辺もそんなに人通りは多くはなく、閑散としていました。花壇の中では工事が行われていました。改めて日比谷公園を散策していると、東京都心部のど真ん中にこんなに緑豊かな緑地帯が綺麗に整備されているのかと驚きます。




芝生広場の中は養生中のためか入ることができなかったので、散策道の中を歩いていきます。




東京都心部の中枢でありながら、西洋庭園の中を散策している感覚に囚われます。大阪都心部にある中之島公園の雰囲気にも似ています。第一花壇の目玉の一つであるバラの花壇も所々で咲いているのが見えました。




明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれます。明治4年(1871年)に日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)日比谷練兵場と改称されます。その後、練兵場は明治21年(1888年)青山火薬庫跡、現在の明治神宮外苑に移されました。周囲に官庁街が整備され手狭になったためと説明されることが多いが、竹橋事件が影響したとする説もあります。




同時期の明治16年(1883年)には日比谷公園に隣接している場所には、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である「鹿鳴館」が建設されています。当時は日比谷・丸の内一帯は広大な更地であり、官営東海道本線の中央停車場延長は大正時代まで待つことになります。




日比谷公園の敷地の中央部に位置する「噴水広場」へやってきました。お昼時の時間帯になると、日比谷一帯のオフィス街からビジネスマンの人たちや、霞ヶ関の中央省庁に務める人達で賑わうことで有名ですが、閑散としていました。




噴水広場を抜けて一度「日比谷門」の方へ戻ります。




日比谷公園の西側に面した門である「日比谷門」へやってきました。この門の前から「日生劇場」や「帝国ホテル」の建物がよく見えます。




日比谷門前から公園内のメインストリートを歩いて「雲形池」へ向かいます。メインストリートといっても大型バスが余裕で末違えるくらい道幅が広いです。




しばらく歩いていると洋風レストランの「日比谷松本楼」のシックな雰囲気の建物が見えてきました。




1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンしました。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどの人気でした。




日比谷公園のど真ん中にあるという場所柄か、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件など政治的な活動が行われていました。1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月には遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、約7年に渡り営業できない日々が続きました。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切ることになります。




関東大震災によって一度倒壊した後に再建された二代目の建物は1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、その中で左翼過激派学生の投じた火炎瓶が松本楼を直撃し焼失の憂き目に合います。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要しました。




松本楼の建物脇には「首かけイチョウ」と呼ばれている大木のイチョウが植えられています。このイチョウは日比谷公園開設までは日比谷見付(現在の日比谷交差点)にあったものです。1901年(明治34年)に道路拡張工事の際に伐採されようとしたのをこの公園の設計者であった本多静六(ほんだせいろく)博士が、「私の首を賭けても移植を」と東京市参事会議長の星亨(ほしとおる)氏に懇請し、イチョウを今の場所まで450メートル移動させたことから名付けられました。




日比谷松本楼の創業者である小坂梅吉は銀座三丁目で「小松食堂」という名前のレストランも経営していました。梅吉氏の息子である小坂武雄は戦後すぐの1946年に「小松ストア」というファッションストアを開業しています。現在のユニクロ銀座店がある敷地です。




3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場しました。2003年には創業100年を迎え、現在に至っています。




少し離れた場所から撮影してみると、まるで緑のトンネルの中を歩いているみたいです。




国会議事堂や霞ヶ関の官庁街、大企業の本社が建ち並ぶ日比谷地区の中心に位置する日比谷公園。大正デモクラシーの中、東京市電賃上反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点としてたびたび利用されてきました。

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向寒の日比谷散策:紅葉にはまだ早い日比谷公園(1)

2012年11月22日 11時56分32秒 | 皇居周辺・城西


日比谷交差点前に面した有楽門から「日比谷公園」の緑地帯を散策していきます。平日の午前中、通勤ラッシュが一段落した時間帯の日比谷公園内はひっそりとした雰囲気というか、閑散としていました。公園内を一周した後は、霞ヶ関の中央省庁街の中を散策してみたいと思います。




まずは日比谷公園の敷地の北東の一角にある「心字池」へ向かいます。土日や祝日になると有楽町方面から日比谷公園へ散策する人々で賑わう石畳の散策道も閑散としていました。




心字池周辺には江戸城の石垣が設置されているなど、非常に立体的な地形が広がっています。江戸時代の心字池周辺は江戸城の日比谷濠と繋がっている内堀でした。また江戸城外郭城門の一つである「日比谷御門」がこの場所に設置されていました。現在は石垣としてその一部が保存されています。




散策道を歩いていると唐突に江戸城の石垣が目の前に現れます。そしてそばには「日比谷見附跡地」の案内標識が設置されていました。街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所(見附)のことで、都内には市ヶ谷見附、四谷見附、赤坂見附など地名として残っています。




日比谷見附跡地の石垣と、鬱蒼とした木々の中に「心字池」の水面が広がっています。都市公園として整備される際に内堀の埋め立て工事が実施された際、公園内に日本庭園を造営することになり、濠の一部が心字池として残されることになりました。上空から俯瞰すると「心」の文字に見えることから「心字池」と命名されました。




心字池周辺は石畳の散策動画きれいに整備されており、回遊式日本庭園として散策を楽しむことができます。




古びた石垣と心字池の水面を見ていると、まさに江戸城の内堀を改築して造成されたものであることがわかります。池そのものはそんなに深さはないように感じられました。




徳川家康が江戸城に入城する以前の日比谷周辺は「日比谷入江」と呼ばれている内海で、現在の皇居周辺は入り江に面した湿地帯でした。天下を掌握した家康は江戸城を築城するために大規模な土木工事を実施します。現在の丸の内や日比谷周辺の湿地帯は大量の土砂で埋め立てられます。




日比谷入江も陸地にするために土砂で埋め立て工事が行われ、水面の一部は江戸城の内堀として残されます。現在の皇居前広場や日比谷公園の地盤はこの時に造成されたのです。




江戸時代には錚々たる大藩の上屋敷が置かれました。当時は現在の霞門を直進する道路で南北に別れており、幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在したのです。




心字池周辺から日比谷や丸の内の高層ビル群を眺めることができます。




日比谷入り江の埋め立て工事は「天下普請」という、城郭の工事や道路整備、河川工事などインフラ整備などの工事によって実施されました。埋め立てに使用された土砂は、神田川の流路を変更するために神田山(現在の御茶ノ水)を切り崩した際に発生した残土が使用されたのです。




心字池から西側を見ると、奥には霞ヶ関の中央省庁のビル群が並んでいるのが見えます。




午前中の早い時間帯だったので、思い切り逆光になってしまいました(汗)




周囲の木々や散策道を無視して、心字池の水面や石垣だけを見ていると本当に江戸城の内堀の脇を歩いているようにしか見えないです。




心字池の南端部から池全体を撮影してみました。柳の木々など多くの樹木に囲まれているのでイケの水面がほとんど見えなかったです。




日比谷見附の石垣を見ていると、まるで朽ち果てたまま放置されている城郭のようにしか見えなかったです。石垣以外にも高麗門・枡形・渡櫓・番所が設置されたいたのですが、明治時代になって撤去されました。




日比谷公園造営時に埋め立てられた内堀は、心字池の南側で直角に曲がり、日生劇場と帝国ホテルの間の道路のルートを通って数寄屋橋で外堀につながっていました。

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向寒の日比谷散策:内幸町一丁目から日比谷へ(2)

2012年11月21日 12時47分59秒 | 皇居周辺・城西


「日生劇場(日本生命日比谷ビル)」前から撮影した日比谷通りと日比谷公園の緑地帯です。引き続き日比谷通りを北へ向かって散策して日比谷交差点へ向かいます。ちなみにこの日比谷通りの地下には東京地下鉄千代田線と東京都営地下鉄三田線、2本の地下鉄の線路が併走している区間となっています。




ズームで撮影してみると、丸の内や大手町の高層ビル群が密集している光景を撮影することができました。東京駅周辺の再開発による高層化はここ10年くらいで急激に進んだので、周辺部から見る景観も激変していることがわかります。




大阪の淀屋橋の一等地に本店を構える日本生命が東京に進出するにあたって、そのメセナ活動の一環として「日生劇場」は建設されました。劇団四季の創設者の一人である浅利慶太や、東急グループ総帥の五島昇などがスポンサーとなって日比谷の一等地に建設されたのです。




「日本生命日比谷ビル・日生劇場」は建築家村野藤吾の代表作のひとつで、1963年9月に竣工(設計村野・森建築事務所、施工大林組)しました。鉄骨鉄筋コンクリート造8階建、地下5階。オフィス部分と日生劇場から構成される複合ビルです。オフィス部分には、竣工後、日本橋の日本生命館(日本橋高島屋)から日本生命東京総局(後に東京本部)が移転してきました(ただし、東京本部機能の多くは2004年、丸の内オアゾの日本生命丸の内ビルに移転しています)。




取り壊されて更地となっている「日比谷三井ビル」跡地の脇を通り抜けていきます。このビルに入居していた「三井住友銀行本店」が大手町に移転されたのを機に2011年の初頭から解体工事が実施され、2012年のつい最近まで続いていました。この先どんな再開発計画が発表されるのか注目するところです。




日比谷三井ビル跡地からズームで日比谷交差点を撮影してみました。丸の内や大手町に続いて、日比谷地区でも再開発による高層化がこの先進んできそうです。




内堀・日比谷通りに沿って100尺(約31メートル)の高さに統一されたビル街を見ていると、まるで大阪の御堂筋の大通りを散策している錯覚に囚われます。




日比谷三井ビルと同じく2008年に解体された「三信ビル」跡地前から撮影してみました。




日比谷通りは日比谷交差点の場所で緩やかな左カーブを描いているので、丸の内の高層ビル群を綺麗に撮影することができるのです。東京都心部を通っている大通りはこのように途中で緩やかなカーブを描いている箇所が何箇所もあります。大阪の御堂筋のようにどこまでも直線が続いている幹線道路は皆無に近いです。




日比谷通りと晴海通りが交差している「日比谷交差点」に到着しました。日比谷通りも交通量がものすごく多いですが、銀座から麹町方向へ抜けるルートとなっている晴海通りも交通量が大変多いです。




タクシーや業務用車両などが多いのはもちろんですが、東京都心部では至る所で再開発工事が行われているのでダンプトラックなどの工事用車両を見かけることがここ10年くらいで多くなってきた気がします。




信号が青に変わると一斉に車が走り出す瞬間は圧巻です。




日比谷交差点前に設置されている「有楽門」から日比谷公園の中を散策していきます。




有楽門前から振り返って日比谷のビル群を撮影してみました。正面に写っているのは終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の庁舎として使用された「旧第一生命館(DNタワー21)」です。マッカーサーの総司令室が保存されている旧第一生命館の建物を改装し、高層棟を隣接させる形で建設しています。




かつて旧日活国際会館(日比谷パークビル)の古びたビルが建っていた場所には現在、最高級ホテルの一つである「ザ・ペニンシュラ東京」が建っています。2007年9月1日に開業した都内屈指の高級ホテルで、香港に本社を構えるホテル運営会社「香港&上海ホテルズ」によって運営されています。




この次は、日比谷交差点前の有楽門から日比谷公園をさんさくしていきます。

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