みどりの野原

野原の便り

3月28日 知らなかった飛鳥 通り過ぎていた飛鳥

2016年03月28日 | Weblog
飛鳥 祝戸から稲渕あたりを案内していただいた。

何回も歩いていても見過ごしているもの、知らなかったことがたくさんあり、説明を聞くのは面白かった。

 
     今まで気が付かなかった飛鳥川から水を分ける堰 

飛鳥稲渕宮殿跡 
祝戸荘の駐車場を作る時の調査で石敷きや建物跡などが見つかった。
大規模なものではなく、中大兄皇子が難波宮から飛鳥宮に帰り一時期過ごした仮の宮殿「飛鳥川辺行宮」跡かもしれないとのこと。 

坂田寺
行かなかったが、ここから登った所にある。
最初の建物は土砂崩れで流されて全く残っていないが、豊浦寺と並ぶ飛鳥時代の尼寺。
傾斜地に建つ変則的な建て方だったよう。
東大寺大仏の腋侍は坂田寺の寄進によるものだそうで、当時の坂田寺の力を示す。

稲渕への途中
  
「太子の井戸」があったという場所。今も水がしみ出して、井戸があったというのも想像できるような場所だった。    右)その下方、道路の下は「太子の前」、川を挟んで「太子の向かい」という太子つながりの?地名が残っているとか。

稲渕

「勧請橋」から見た男綱 五穀豊穣と子孫繁栄 そして疫病などが入り込まないようにとの願いのこもった勧進縄「男綱」が架かる。  
中央には大きいシンボルが。うるう年の今年は横縄が13本巻かれている。 
神事が行われる下の橋は「神所橋」 シデコブシが満開だった。

この「男綱」の縄掛け神事が神式で行われるのに対し、上流の栢森の「雌綱」は仏式で神事が行われる。神も仏も関係ないおおらかさ。

 
勧請橋の欄干に「南淵請安先生講義図」渡来人で隋や唐に学んだ学問僧・南淵請安が中大兄皇子・中臣鎌足に講義をしている図。  右)反対側には「宮滝遊行女官図」があった。
この上流、栢森から吉野へ抜ける古道がある。この道を通ったのかどうか?

 
少し登り、高いところの山裾に「水路」が続いていた。棚田の水はここからひかれている。
飛鳥川上流、栢森から提灯で高低差を測りながらの水路作りは渡来人の高い土木技術によるものだという。

朝風峠の下に広がる棚田のあたりは、元は「朝風千軒」と言われる渡来人の集落があったそうだ。
この水路が出来て、日当たりのよいこの傾斜地は稲作ができるようになり、田んぼに当て、そこに住んでいた渡来人たちは住居を移転した。
稲渕 龍福寺にある石塔も、今は丘の上にある南淵請安の墓も朝風の集落から移されたものらしい。

渡来人なくして飛鳥の都作りはできなかったといわれるぐらい、渡来人の技術力は高かったという。

 
「朝風千軒」聞いて知ってはいたが、あらためて目の前に広がる棚田を見下ろして想像した。オーナー制度もある棚田 菜の花が植えられたり、稲藁を保存する「ススキ」が立てられたりして写真を取りに来る人も多い。
 
「朝風峠」から山道をずっと入って行くと「あさかじ地蔵」がある。ブロックのお堂は新しい。
国道沿いにある「みみなおし地蔵」と対をなすというのも初めて知る。
肩の部分が大きく欠けているのは、ある時、両地蔵が喧嘩をして「耳なおし地蔵」は耳をそがれ、「あさかじ地蔵」は肩を切られたという話が残っているとか。
地蔵菩薩が人間の身代わりになったとの話もある。
江戸時代には地蔵はすでにここにあり、今も毎年7月地元の人たちがお参りしておられるそうだ。

 
少し下った所にある「塚本古墳」壊されて原型をとどめないが、露出した石は石室の一部で、綱かけのある石棺の蓋部分は土に埋まっているという。
崩した石は石垣などにも利用されているとか。
ずっと下を見下ろすと、ピラミッドのような段積みの墳丘でニュースになった「都塚古墳」や「石舞台古墳」がある。
蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳 その父、蘇我稲目の墓かもと言われる都塚古墳
そして、この塚本古墳は馬子の弟、境部臣摩理勢の墓との説もあるらしい。(他説もあり)
蘇我氏の勢力圏であったのには違いないと思う。

飛鳥路も花ざかりの時期

 
          サクラの仲間                    スモモ?

 
            コブシ           ノアザミの大株
レンギョウ シロバナタンポポ タンポポ スミレの仲間 これからますます野も山も色どりを増す。
コメント
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