400年前の今日 5月8日に、大阪夏の陣で大坂城が落城。秀頼・淀君が自刃した。
この日に合わせての史跡めぐりの会に参加した。
大坂城
先ず
大坂の由来を聞く。
昔、河内湾 河内潟 河内湖と呼ばれたこの一帯は水湿地で、それに対して、台地に向かう坂が大坂。坂を登ったところにできた城・・というような意味で
大坂城
大阪の字が使われたのは明治以降とのこと。
そして、いまある大阪城は秀吉が建てた大坂城ではなく、昭和6年に作られた鉄筋コンクリート造りの3代目のものとの説明があった。
秀吉の
初代の大坂城は天正13年(1585)~慶長20年(1615)に完成した。天守閣は天正13年(1585)完成
その後、秀吉が没し、関ヶ原の戦いの後、大坂冬の陣(1614)
その講和後、外堀が埋められ、大坂夏の陣(1615)に至る。
大坂夏の陣で初代大坂城は焼けてなくなり、豊臣家も滅びた。
その後、徳川幕府が大坂を直轄地にし、大坂城を再建する(
これが2代目大坂城天守閣 1626完成)
それは初代の大坂城の地盤をすべて覆い尽くしかさ上げした地盤の上に作られた。
2台目の天守閣は39年後に焼失。他の建物も戊辰戦争の時の火災で焼失する。
そして、昭和6年(1931)今の
大阪城3代目天守閣が完成
第2次世界大戦の空襲によって被害もあったが修理・また整備されている。
今、秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こし公開しようという動きがあるそうだ。
現在の 3代目大阪城天守閣
青屋門から極楽橋を渡り本丸~ミュージアムとなっている天守閣へ入館
大阪城天守閣はエレベーターで8階まで登り周りを展望。
各階の展示を見ながら下った。
大坂夏の陣の様子をジオラマで再現したもの。
大坂夏の陣図屏風から各場面を抜き出し解説してくれるものがおもしろかった。
この屏風図には5071人の人物 348頭の馬などが描かれているそうで、特定できる人物もいるらしい。生々しい戦いの様子が描かれている。
自筆の書状などの展示では実在した人として感じることができた。
天守閣を見学してもらった記念のカード
左)表 右)裏 400年前の今日 大坂城は落城
桜門桝形の巨石 小豆島から運ばれた残念石
大坂城修復のために切りだされながら使われなかった石。小豆島青年会議所が創立10周年記念事業として、大阪青年会議所と共同で、この石を当時を再現した方法で運び入れたもの。
先日、小豆島の残石公園へ行った時、その話を聞いていたので、今日話がつながった。
多聞櫓を出て大坂を下る。古代は坂の下まで海であったというが信じられない。
午後は
難波の宮跡と大阪歴史博物館を見学
大阪歴史博物館・隣のNHKビルのあるあたりを含めて難波宮の建物跡や倉庫群の跡があり、史跡公園になっている。
大阪歴史博物館に入る。
班に分かれ、ボランティアさんの説明を受ける。
発掘の結果、飛鳥時代の前期難波宮と奈良時代の後期難波宮の2つの宮跡があることがわかった。
前期難波宮は7世紀中頃 孝徳天皇によって造られた「難波宮長柄豊碕宮」と考えられ、屋根は板葺 掘立柱の建物
後期難波宮は8世紀前半に聖武天皇によって造られた。内裏以外の建物は礎石建物で瓦葺き。
足元の床に並ぶ○は柱跡を示している。太さと並び方によって、倉庫・管理棟・塀の跡とわかるという。直径50cmの柱が20本(5本×4本)並んでいるものは管理棟 同じく直径50cmの柱が20本(5本×4本)間隔が狭いのが倉庫 直径30cmの柱穴が一直線上に並んでいるのが倉庫を囲む塀 とのこと。
赤い丸は前期難波宮 黒い○は後期難波宮を表している。
地下に入って柱跡を示す光の柱を見る。(床の○と対応した地下遺構)
パイプルーフ構造というやり方で、この土の下に実際の柱跡が保存されている。
倉庫群や塀の模型
その後10階へ登り、難波宮について見学
前期難波宮 復元模型 後期難波宮復元模型
10階から難波宮跡公園を見降ろす。
帰りに宮跡公園で大極殿跡にも立った。