月刊「Hanada」10月号を買った。
その中の名物対談「蒟蒻問答」の中から一部転載。
(続き)
堤 かつて岸信介を御殿場の別荘に訪ねて、五時間を超えるインタビューをやった。北村サヨの話も聞いたよ。終戦直後、岸は地元・長州の田布施に帰っていた。そこへマッカーサーから逮捕令が出て、特高に付き添われて出頭することになった。
「なにしろ勝者による報復裁判だからねえ。絞首刑を覚悟して、家族と水杯を交わして家を出た。ところが近くにいた北村サヨ婆さん(踊る宗教の教祖として一世を風靡)が、『この岸という男は三年で帰って来る。日本再建に必要な男だから』というお告げだ。有り難いお告げだけど、まさかと思ったね」
取り調べは執拗だったが、けっきょく、岸は無罪放免だ。中央に復帰して九年で首相になった。
「サヨ婆さんのお告げは信じていなかったけど、当たったわけだ。もっとも三年ではなく三ヵ月のおまけが付いたけどね(笑)」
久保 「宗教と金」でいえば、違法に集めるのはむろん取り締まるべきだけれど、宗教に「喜捨」は必ずあるもの。仏教だって、金を集めなければ大仏一つできやしないでしょう。
アメリカでは、統一教会は数あるキリスト教分派の一つくらいの認識だそうですが、たとえば『新約聖書』のなかの「マルコによる福音書」には次のようなイエスの言葉があります。
「金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通り抜ける方がまだやさしい」
「自分の持っているものを売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう」
たとえばアッシジのフランチェスコは、このイエスの教えに従って全財産を放棄し、修道士となって貧民に仕えたといいます。
しかし、仮にその間に邪な下心のある教会などが介在して、貧者の救済のために還元されるべきはずの財産を横取りしてしまったとしたらどうでしょう。旧統一教会の問題は、明らかにそういう疑いが濃厚です。
ところで、中世以来築かれた豪華絢爛な教会などの建築物は、はたしてイエスの教えに忠実に従ったものなのか。旧統一教会の被害者やその擁護者は、あたかも政治家がその教会と関係していたことで、被害者が信用したかのような世論誘導や印象操作をしている。この問題はもっと「信仰」という宗教の本質に根ざした事柄のように僕は思えるんですがね。
堤 堯(つつみ ぎょう)
久保 絋之(くぼ こうし)
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「喜捨」・・・。そういえば「貧者の一灯」なんて言葉もありました。
これこそが誠心誠意の真心だ、と。富貴者の万灯は足元にも及ばない。
けれど、実は現世に在って出家者を支える「在家」があってこそ、全てを捨てて出家した者も求道修行を続けられる、という事実。
「仮にその間に邪な下心のある教会などが介在して、貧者の救済のために還元されるべきはずの財産を横取りしてしまったとしたら~」
原始共産制と違ってこれまでにも書いてきた通り、「近代共産主義」の仕組みはほとんど宗教団体ですから。書記長と言いながら、紛うことないただ一人のリーダー(教祖)であり、彼の下にいる者は還元されるべき財産を・・・。