明日、安倍元総理の国葬。
正確には国葬儀。今は流石にみんな知ってる。
先日、アナウンサーの安住氏が「(この言葉)初めて聞きました」と発言してツイッターで散々に叩かれていたけど、彼のことだから意外に計算づくだったのかも。
辛坊治郎氏が国葬の招待状、「俺のとこには来てない!」と激怒していたというのも、半分は話のネタ、半分は本気。真正面から捉えての批判は違うだろう。
何しろ「やしきたかじんのそこまで言って委員会」の委員長として、難病を抱え辞任したことを「ぽんぽん痛いから辞める」と散々に揶揄された安倍総理の捲土重来のために一緒に風呂まで入った、文字通りの「裸の付き合い」をしたという自負がある。
あれ、また脱線した。
「国葬儀」、だった。確かに耳慣れない言葉だ。「国葬」ならわかる。けど「国葬儀」、ってのは何だか収まりが悪い。語感が良くない。
でも、これ「葬式」って意味だから。葬式の「式」は形「式」や型「式」と同じ意味だろう。決まりとか決め事の意味で使う。
「葬儀」の「儀」も同じ。やっぱり決まり・決め事。だから「儀式」なんて言葉もある。
ということで「国葬儀」って収まりは悪いけど、本来は「国」の(行う)「葬儀(葬式)」という言葉だとみたら、略して「国葬」という方がおかしいんじゃないかという気がする。
さて。
今、「ミヤネ屋」という番組を見てたんだけど、バックで「国葬反対!」というデモの声が入っていた。太鼓叩いて。流石に「国葬上めろ」という手書きのプラカードも簡体字のも、ない。日本人だけで構成されているんだろう。
で、思い出した。「金官デモ」ってのがあったなあ。あの時と同じ雰囲気。
日記を見直してみた。
もう、十年も経っている・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012.07/12 (Thu)
(略)
(略)
さて、毎週金曜日に官邸前で行われているデモ。「金」曜日の「官」邸前の「デモ」、ということで、これを「金官デモ」と言うんだそうですね。いかにも、の略し方で、「ははあ、大体、主唱者が見えるなあ」と思う方もあるかも、なんて思ったりしますが。
首相官邸前のデモ、結構報道していました。
例によって、公称20万人(!)、警察発表1万7千人。「一桁違う!」どころじゃないけれど、実数1万7千人というのは大変なものです。撮りようもあるだろうけれど、交差点の一区画は人、人、人ですっかり埋め尽くされていました。
「大事件だ!ジャスミン革命だ!」「いやアジサイ革命だ!」
マスコミは大騒ぎ。
それに対して、
「漁船体当たり事件やフジテレビ前デモはちっとも報道しなかったじゃないか!マスコミはおかしい!」
とお怒りの方もあるか、と思いますが、それはまあ、ひとまず置いときましょう。
前回の日記にも少し書きましたけど、あの鳥越氏の、いたく感激して口にしていたという、
「今回のデモは、組合の旗や学生の旗がないからこれはまったく生粋の市民のデモだ。1960年安保デモの時以来だ。52年来絶えてなかった市民デモの復活だ。凄く感慨深い」
「これは世界的傾向で日本は遅かった。ようやく原発という危機が目の前にドーンと来た時に、日本の市民は初めてこれはいかんぞ、自分たちが立ち上がらないとダメだと思った。日本に新しい波が来たなと言う感じがしている。今後もっと増えて行くという感じがする。利権に反対する人たちに僕も共感する」
などという
「これは生粋の普通の人のデモなんだ」
といったような科白や、その考え方の周辺について思ったことです。
まあ最初に書いておきますと、確かに、これ、色々なところで報道されているように、これまでのデモとは違う。
組織的に行われていたこれまでの一般的な「デモ」というのは、それぞれの参加者が、仕事を休んだりサボったり、休日出勤で穴埋めをしたりと、諸事繰り合わせ、準備万端整えて同じ日に、例えば今回のように官邸前に集まる。これ、そう簡単にできることではありません。
更に、実は「止むに已まれず」、ではない、他の事情によって参加している場合が多い。それを鳥越氏などの年齢の人は能く知っている。
この「そう簡単にできることではありません」ことを、敢えてやっている。連絡取りあって、「何月何日○○でデモ、やるんだけど来ない?」なんてのは表向きだけです。
本当は
「動員かかってるんだ。今度は君の番だ。」とか「組合員は全員参加!」
みたいなのが普通です。決して「喜んで」、あるいは「止むに已まれず」行ってるわけじゃない。
だからと言って、野次馬根性もあまりない。それどころかすっぽかしてやろうという気満々。
召集掛ける方も心得たもので、
「これ。場所と時間、書いてあるから。『当日病気になったり、緊急事態が起こった場合は連絡して(当時はケータイはなかったので、実質、不可能)』。じゃ、よろしく!」
、なんてことで「人員を確保」していく。
・・・・分かりますよね、その先。
当日「あ!急に体の具合が悪くなった。こんなんでデモに行ったりしたら死ぬかもしれない!今日は家で静養だ。いや、釣り堀に行った方が却っていいかもしれない」。
色々考える。
「だって、デモ行って、仲間見殺しになんかできないでしょ!」「でも、それゲームの話でしょ?」「まあ、そうですけど・・・」、なんてのはなかったと思いますが。
というわけで、デモには推定参加者数を発表するものだから、警備側(警察ですね。暴動にならないように、という理由からです)が調べた人数は(推定)参加者数より、ひとケタ少ないのが普通です。
今度のはどうでしょう。「動員はかかってない」?。そりゃそうです。
職場の労組は「そんなこと」に組合員を動かしたりなんかはしない。「反原発」が職場の、また、その延長線上にある労組の益には全くなりませんから。
「これは生粋の市民のデモなんだ!」
組織が係わっていないという観点から言えば、そうです。
でも、こういうことって誰かが声を掛けなきゃ、起こるものではない。
つまり、自然発生的に起こるものではない。
ツイッターとか、ネットの力だ、とか言うけれど、それだからこそ、誰かが火をつけなきゃ燃え上がる筈がない。自然発火するデモなんてないんです。自然発火するのは「暴動」です。その暴動だって必ず仕掛け人がいる。
デモには必ず複数の仕掛け人と、綿密な計画がある。
「これは生粋の市民のデモなんだ!」
或る意味では正しい。しかし、何者かが目論み、それに呼応した結果のデモであることに変わりはない。いや、デモというより「大人しい暴動」と言うべきかもしれません。
証拠は参加者数の推移です。
ここ毎週行われていたデモ、初めは数百人だったそうですね。それが二か月ほど経って、口コミ(と言ってもネット、ツイッターですから全国規模ですが)で広がり、それでもずっと数百人規模だった。
それが6月末、数千人となり、今回は1万7千人、と急激に膨れ上がった。
毎週やっている、ということが国会で採り上げられた途端に倍増した。それをマスコミが採り上げ、全国に流す。
総理の、国会での答弁も流されて、一気に爆発的に増えて、1万7千人。
河野太郎議員も来ていた。古賀氏も来ていた。二人とも参加しているような報道だったけど、実際は、初めて来た中の一人であり、参加というより見物だったし、河野議員に至っては、「子供に見せるために連れて来た」、と。
或る人からこんなコメントをいただきました。
「あのデモは、プロ市民が煽ってお花畑が乗せられただけのもんだ」
そんなこと聞いたら怒り狂う人、結構いるんでしょうね。「将来のこと、『この国』の未来のこと、子供の将来のこと、考えてどこが悪いんだ!」って。
え?と思います。将来のこと、国の未来、そこで子供が安心して暮らせるように?
そのために今できることは「再稼働反対!原発反対!」と叫ぶことか?
(略)
首相官邸前のデモ、結構報道していました。
例によって、公称20万人(!)、警察発表1万7千人。「一桁違う!」どころじゃないけれど、実数1万7千人というのは大変なものです。撮りようもあるだろうけれど、交差点の一区画は人、人、人ですっかり埋め尽くされていました。
「大事件だ!ジャスミン革命だ!」「いやアジサイ革命だ!」
マスコミは大騒ぎ。
それに対して、
「漁船体当たり事件やフジテレビ前デモはちっとも報道しなかったじゃないか!マスコミはおかしい!」
とお怒りの方もあるか、と思いますが、それはまあ、ひとまず置いときましょう。
前回の日記にも少し書きましたけど、あの鳥越氏の、いたく感激して口にしていたという、
「今回のデモは、組合の旗や学生の旗がないからこれはまったく生粋の市民のデモだ。1960年安保デモの時以来だ。52年来絶えてなかった市民デモの復活だ。凄く感慨深い」
「これは世界的傾向で日本は遅かった。ようやく原発という危機が目の前にドーンと来た時に、日本の市民は初めてこれはいかんぞ、自分たちが立ち上がらないとダメだと思った。日本に新しい波が来たなと言う感じがしている。今後もっと増えて行くという感じがする。利権に反対する人たちに僕も共感する」
などという
「これは生粋の普通の人のデモなんだ」
といったような科白や、その考え方の周辺について思ったことです。
まあ最初に書いておきますと、確かに、これ、色々なところで報道されているように、これまでのデモとは違う。
組織的に行われていたこれまでの一般的な「デモ」というのは、それぞれの参加者が、仕事を休んだりサボったり、休日出勤で穴埋めをしたりと、諸事繰り合わせ、準備万端整えて同じ日に、例えば今回のように官邸前に集まる。これ、そう簡単にできることではありません。
更に、実は「止むに已まれず」、ではない、他の事情によって参加している場合が多い。それを鳥越氏などの年齢の人は能く知っている。
この「そう簡単にできることではありません」ことを、敢えてやっている。連絡取りあって、「何月何日○○でデモ、やるんだけど来ない?」なんてのは表向きだけです。
本当は
「動員かかってるんだ。今度は君の番だ。」とか「組合員は全員参加!」
みたいなのが普通です。決して「喜んで」、あるいは「止むに已まれず」行ってるわけじゃない。
だからと言って、野次馬根性もあまりない。それどころかすっぽかしてやろうという気満々。
召集掛ける方も心得たもので、
「これ。場所と時間、書いてあるから。『当日病気になったり、緊急事態が起こった場合は連絡して(当時はケータイはなかったので、実質、不可能)』。じゃ、よろしく!」
、なんてことで「人員を確保」していく。
・・・・分かりますよね、その先。
当日「あ!急に体の具合が悪くなった。こんなんでデモに行ったりしたら死ぬかもしれない!今日は家で静養だ。いや、釣り堀に行った方が却っていいかもしれない」。
色々考える。
「だって、デモ行って、仲間見殺しになんかできないでしょ!」「でも、それゲームの話でしょ?」「まあ、そうですけど・・・」、なんてのはなかったと思いますが。
というわけで、デモには推定参加者数を発表するものだから、警備側(警察ですね。暴動にならないように、という理由からです)が調べた人数は(推定)参加者数より、ひとケタ少ないのが普通です。
今度のはどうでしょう。「動員はかかってない」?。そりゃそうです。
職場の労組は「そんなこと」に組合員を動かしたりなんかはしない。「反原発」が職場の、また、その延長線上にある労組の益には全くなりませんから。
「これは生粋の市民のデモなんだ!」
組織が係わっていないという観点から言えば、そうです。
でも、こういうことって誰かが声を掛けなきゃ、起こるものではない。
つまり、自然発生的に起こるものではない。
ツイッターとか、ネットの力だ、とか言うけれど、それだからこそ、誰かが火をつけなきゃ燃え上がる筈がない。自然発火するデモなんてないんです。自然発火するのは「暴動」です。その暴動だって必ず仕掛け人がいる。
デモには必ず複数の仕掛け人と、綿密な計画がある。
「これは生粋の市民のデモなんだ!」
或る意味では正しい。しかし、何者かが目論み、それに呼応した結果のデモであることに変わりはない。いや、デモというより「大人しい暴動」と言うべきかもしれません。
証拠は参加者数の推移です。
ここ毎週行われていたデモ、初めは数百人だったそうですね。それが二か月ほど経って、口コミ(と言ってもネット、ツイッターですから全国規模ですが)で広がり、それでもずっと数百人規模だった。
それが6月末、数千人となり、今回は1万7千人、と急激に膨れ上がった。
毎週やっている、ということが国会で採り上げられた途端に倍増した。それをマスコミが採り上げ、全国に流す。
総理の、国会での答弁も流されて、一気に爆発的に増えて、1万7千人。
河野太郎議員も来ていた。古賀氏も来ていた。二人とも参加しているような報道だったけど、実際は、初めて来た中の一人であり、参加というより見物だったし、河野議員に至っては、「子供に見せるために連れて来た」、と。
或る人からこんなコメントをいただきました。
「あのデモは、プロ市民が煽ってお花畑が乗せられただけのもんだ」
そんなこと聞いたら怒り狂う人、結構いるんでしょうね。「将来のこと、『この国』の未来のこと、子供の将来のこと、考えてどこが悪いんだ!」って。
え?と思います。将来のこと、国の未来、そこで子供が安心して暮らせるように?
そのために今できることは「再稼働反対!原発反対!」と叫ぶことか?
(略)
親が全ての御膳立てをしてやって、子供らが安心して何不自由なく暮らす、なんて、それ、人間の生き方じゃないでしょう。
西郷隆盛が「児孫のために美田を買わず」と言ったことだって、あれは「甘やかしたら駄目になる」等という後ろ向きの考え方ではない。「自分で苦労し、努力しなければ、立派な大人にはなれない」ということです。「若いうちの苦労は買ってでもせよ」「可愛い子には旅をさせよ」も同じです。
親は、大人は、汗水垂らして働いている懸命な姿を、また、そういう生き方を見せることが大事なんじゃないですか。
(以下略)