月曜は「ハッピーマンデー」による「成人の日」。
元来(と言っても戦後だが)成人の日は1月15日だった。しかし日付が固定されていると自然、日曜と祝日が重なることが起きる。当然、休日が減る。年によって働く日が増える。では、とそのことを考慮し、その際は月曜を休日としようではないか。うまくいけば休日が増える年もできる。
おかげで当時外国からの「日本人は働き過ぎ」と批判する声が、少し低くなったような感じはある。
が、この「ハッピーマンデー」は当然月曜日の休日を増やすことになり、学校の時間割は当然のこと、色んな職種に様々な影響を及ぼすことになる(公立機関は緊急時対応が原則の警察消防は別として、基本、みんな休みになる)。
何よりもの問題は祝日が年毎に移動する、ということ。
実際に移動するわけではない(元)祭日は別にして、何だかよく分からない理由で設定された祝日は、本来の意味合いまでも薄れていく。そして、「~の日は、何月何週の月曜日」なんて決まっていく。祝「日」だったのが祝「曜日」になる。やっぱり変だ。
というわけで、以前に成人式について書いた日記を再掲する、といったことを繰り返してきた。見直してみたら、何と同じ日記を4回も。
でも、今年も挙げようと思う。成人式の「本意」を、この日だけでも思い出してみたい。
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2018年1月10日の日記より
《世間話 「成人式」》
(略)
それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。
30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。そこはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。
ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。
けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村はともかく、いきなり「国民の祝日」となって
「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
本来の
「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」
と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなそう」というやっつけ感が生れる。
祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。
どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。
大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。
いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言わないけどね。
でも、折角、御膳立てしてくれてるんだから、
「日本人として恥ずかしくない生き方をしよう」
と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。
《世間話 「成人式」》
(略)
それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。
30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。そこはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。
ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。
けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村はともかく、いきなり「国民の祝日」となって
「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
本来の
「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」
と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなそう」というやっつけ感が生れる。
祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。
どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。
大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。
いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言わないけどね。
でも、折角、御膳立てしてくれてるんだから、
「日本人として恥ずかしくない生き方をしよう」
と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。
追。
内閣府のホームページには下記の通り
成人の日
1月の第2月曜日 | おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。 |
とある。
「大人になったことを自覚する」新成人を「祝い励ます」大人。
そういうことだから、双方にその気がなければ「成人式」は成り立たないし、挙行すべきではない。・・・は言い過ぎか。