「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月4日(月曜日)弐
通巻第8035号
連載41 『暴走老人、南へ』
全アジア諸国を回ってみた(最終回)
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(略)
▼パール判事は日本無罪を主張した
インドのパール判事と言えば、日本の無罪を主張してくれた恩人という評価で保守陣営から高い人気が続いている。
安倍首相が最初にインドに足を踏み入れたとき(第一次安倍政権)、わざわざコルコタ(旧カルカッタ)に立ち寄ってパール判事の記念館などを回った。
中嶋岳志・西部遭共著『パール判決を問い直す』(講談社新書)によると、パールの日本無罪論は「A級戦犯」に関して「刑事上無罪」であるとし、道義的無罪を主張してはいない。張作霖爆破や満州建国、南京事件に関しては「毒を制するに毒を以てなした行為」であって非常にネガティブだと指摘されている。要は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という事後法によった裁き方が当時の国際法にはない概念であり、A級戦犯は当然だが無罪であり、また連合国が主張したような「共同謀議」は成立しないとパール博士は言ったのである。
パール判事は大東亜戦争を肯定してもいなければ全面的に日本が無罪とは言っていない。西部遭は「パール判事より清瀬一郎のほうが東京裁判の問題点をきちんと指摘して」おり、「東京裁判が一つの事後法にもとづく不法行為であり、二つに政治的復讐劇である、と最初に指摘したのは清瀬」だったと言う。そういえば筆者も学生時代に清瀬一郎を熟読した記憶が蘇った。講演も聴きに行った。清瀬一郎『秘録東京裁判』(中公文庫)には傍線を引いて何回か読んだ。
そもそもパールは現在のバングラデシュ出身でベンガル人だ。身分の低いカーストであったため差別され、苦学して大学をでたが、法律研究の動機は伝統的な長子相続法だった。なぜなら「インドでは『政治経済』の領域はイギリス流に、文化宗教の領域はインドの伝統を尊重するという(英国の)統治」であったがため法の分断が生まれていた。
商法、契約、訴訟などはイギリス流の法律が裁くが、結婚、相続、扶養家族はインドの伝統に基づき、ムスリムにはイスラム法典が、ヒンズー教徒にはヒンズー法が用いられた。
問題は統一されたヒンズー法が存在しなかったため絶対的な判定をできる法典がなかった。そこで「法学者らが依拠したのが、サンスクリット語で書かれたヒンズーの古典籍」だった。学者らは古典籍を体系化し、ヒンズーの法律は「古典回帰によって統一され、全インドに施行されて行きました」(中嶋)
西部遭は「(だからパール判事は)イギリスの植民地であるインドが如何にプライドを取り戻すか、(中略)いかにインド文化のレジティマシー(正統性)とジャストネス(正当性)を保証するための歴史的拠点を見いだすかという、インドの思想家としての姿勢がある」とまとめる。
つまり東京裁判を通して、「パールは旧宗主国であるイギリスに、思想的な反撃を加える機会として書いた」わけであって、パールには、「親日の前に反英があった」のだ。
パールは法廷に逐一出席せず、また東京裁判の最中にもインドへ帰国したりして、判決文を書き上げることだけに熱中した。日本軍がインド独立の指導者として熱心に支援したチャンドラ・ボーズにパールは一言も言及していない。
西部遭はパールの思想は結局、日本の保守派は受け入れないとする。
筆者はパール判決文を精密に読んだことがない。殆どは清瀬一郎のもの、裁判記録は富士正晴の著作、そして最近明らかになった証拠書類として申請し東京裁判で却下された夥しい証言などを小堀桂一郎が編集した。
印象深かった言葉は清瀬一郎が「ベトナム戦争で日本が心理的にベトナム側を支援している理由は大東亜戦争の復讐をそこにみているからだ」だった。
インド亜大陸は英国が植民地とした。強引に地図を線引きしてインドからパキスタン、バングラデシュ(当時は東パキスタン)、そしてミャンマーをわけた。
これに果敢に立ち向かったのはインド、ミャンマーの知識人で日本軍に協力し、戦後、かれらが中心となって独立を獲得した。背後には日本の徹底した独立運動への理解と支援があった。
英国の植民地支配は被征服民族の分裂と内訌を煽り、たとえばミャンマーでは国王夫妻をインドへ強制移住させ、王女はインド兵にあたえ、王子たちは処刑した。旧ビルマから王制は消えた。そのうえでムスリム(イスラム教徒)を60万人、いまのバングラデシュから強制的にミャンマーへ移住させ、仏教の国に激しく対立するイスラムを入れた。これがロヒンジャ問題の根幹なのだ。一方、北部のマンダレーには大量の華僑をいれ、少数民族を山からおろしてキリスト教徒に改宗させ民族対立を常態化させて植民地支配を円滑化した。西洋列強の植民地経営は、これほど阿漕、悪質だった。
ベトナムでフランスが同じ事をやり、インドネシアでオランダがそれを真似、インドにも英国は民族の永続的対立の種をまいた。
つまり言語と宗教の対立をさらに根深いものとして意図的に残し、あるいは強化し、インド支配を永続化させようと狙った。
アジアの植民地を解放したのは日本である。
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【インドのパール判事と言えば、日本の無罪を主張してくれた恩人という評価で保守陣営から高い人気が続いている。】
【パール判事は大東亜戦争を肯定してもいなければ全面的に日本が無罪とは言っていない。】
【東京裁判の最中にもインドへ帰国したりして、判決文を書き上げることだけに熱中した。日本軍がインド独立の指導者として熱心に支援したチャンドラ・ボーズにパールは一言も言及していない。】
【英国の植民地支配は被征服民族の分裂と内訌を煽り、~国王夫妻をインドへ強制移住させ、~旧ビルマから王制は消えた。~仏教の国に激しく対立するイスラムを入れ~民族対立を常態化させ(た)。~ベトナムでフランスが同じ事をやり、インドネシアでオランダがそれを真似、インドにも英国は民族の永続的対立の種をまいた。】
「張作霖爆死事件」や「南京事件」は日本軍が実際に行ったこととして捉え、「満州国建国」も以毒制毒で決してほめられたものではない(まあ、ああするしかなかった、程度の認め方)といった扱いで、日本の道義を、把握肯定するよりも英国叩きの手段にしたのだ、と。
実際、英国をはじめとする欧米諸国は、今でも東南アジアでやったことと同じ内容をイスラエルとパレスチナ(本当はハマス)間で「やらせている」とも言えますが。