CubとSRと

ただの日記

洗う

2018年11月20日 | バイク 車 ツーリング
 手が入れられないからどうにもならない。
 で、見て見ぬふりをする。或いは見なかったことにする。
 でも(当然だけど)、問題は解決しない。
 じゃあ、と無策のまま直心(ぢきしん)のみを頼りに猪突してみたら?
 それなりに何らかの変化はあるかもしれないけど、消耗も激しく新たな大問題が生れたりして、下手をすると取り返しのつかないことになる。
 ・・・かもしれない。
 やっぱりそれが怖くてためらってしまう。
 けどためらっていても問題は解決しない。
 「じゃ、やっぱり猪突猛進だ!!」
 ・・・・・?何の話?バイクの話、勿論。
 三十年余り前。バイクに乗り始めた頃。
 最初は何の問題もなかった。新車を買ったんだもの。
 一ヶ月もせぬうちに汚れが気になるようになる。
 この辺りまでは、雑巾でも持って来て拭けば大方は片付く。
 ただ、チェーンオイルが飛び散ってホイールに付着した分は、少々拭いたくらいじゃ取れなくなる。それで悩む。
 三十半ば近い歳して、プライド(何のプライド、だか)が邪魔をする。
 「この歳になって、恥ずかしくって聞けないよ」
 で、バイク雑誌等を当たってみる。
 「ワックスがけなら一石二鳥。汚れも落ちるし艶も出る」
 なるほど。早速ワックスを買う。
 サッとひと拭きで汚れが落ち、乾いた布で拭き上げれば新車の輝きを一瞬で取り戻す。ちょっと面倒ではあるけれど、ホイールのスポークだってピカピカになる。
 しかしワックスのかけられないところはただ水洗いするしかない。
 一ヶ月が三ヶ月、半年、一年・・・・。
 気が付けば「時折きれいになるところ」と、買って以来「触れないから」と「汚れが重なり、頑固になっていくところ」が、できる。
 「生活格差」ならぬ「汚れ格差」。
 確かにワックスがけは一石二鳥だ。
 けど、それで汚れを見てないことにした結果、本来の「汚れを落とす(一石一鳥)」、正面攻撃を疎かにしてしまった。

 古絵画の修復で、くすんでしまった画面を洗う場合、何よりも大切なのはどの修復技法にするか選択することだそうだ。
 「選択の条件」は何よりも、まず「簡便であること」だという。
 複雑な修復法を用いれば大抵のものは修復できるが、大きなものでそれをやると、修復にムラができる。
 ムラができたら、それは修復としては失敗。「修復した」とはいえない。
 みんなで、誰でもできる簡便な方法で、手分けして一気にやる。
 そうすればムラはできない。

 バイクの洗車と古絵画の修復は、同じにゃならないけど。
 「簡便な方法で」、「一気に」、「全部」、やってみる。
 これなら少なくとも概容を崩すことはない。
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思い込み

2018年11月16日 | バイク 車 ツーリング
 先日の「雨模様」じゃないけど、思い込んでそこから先を考えない、「常識だろ」で思考が停まってしまう、ってことが能くある。
 本人はただ「必要がないから考えない」だけと思ってるけど、実は「考えない」のではなく、停まってしまっただけ。
 これ、すっかり市民権を得た「思考停止」というやつ。
 先日ネットの動画で「台所用のクレンザーでバイクの錆びや汚れを落とす」というのを見た。
 「そんなことをすれば、錆が落ちるどころか余計に錆びるだろう」
 「台所用のクレンザーなんかでバイクの頑固な油汚れが落ちるわけない」
 何となく、そう思っていた。
 「そんなもので大事なバイクを。余分な香料や水分で金属に良い影響を与える筈がない」
 とも思っていた。
 全くの思考停止だ。
 
 百聞は一見に如かず、で動画は、長いこと洗車をせず、すっかり薄汚れて錆まで浮いてしまっているヤマハのメイトみたいな原付、それがピカピカになっていく様を見せつけてくる。
 そこでやっと考え始めた。
 汚れの中身は油と埃。「金属に影響が云々」を言うなら、本来、金属同士が干渉しあっているのが機械なんだから、汚れをほっとく方がよっぽど良くない。汚れは潤滑の役目は果たさない。
 まずは汚れを落として、金属同士の干渉ポイントには潤滑油を!
 だよねぇ~。
 
 チェーンオイルが埃と一緒になって飛び散る。それがリアホイール周辺に付着する。ワックスがけと同時に拭けばホイールはきれいになる。
 けど、元凶であるリアのスプロケットは拭くに拭けないから、洗車時に申し訳程度に汚れを拭う程度。
 ・・・だった。
 或る意味一番タフな場所なんだけど、見ないようにしていた。ワックスがけ、なんてできないし。
 というわけで、バイクに乗るようになって初めて(!)スプロケットを洗ってみることにした。
 それも台所のクレンザーで。
 洗って、きれいにクレンザーを流して、間を置かず、走って水気を飛ばし、チェーンオイルを注す。それでいいじゃないか。
 やってみれば当たり前すぎるくらい当たり前のことなんだけど、
 「今、スプロケット、交換しました!」
 みたいな状態になった。
 「水が掛かっちゃいけないから、手入れをしないところ」がある、と思ってたけど、考えてみりゃ通勤だってツーリングだって雨の中を走ることは普通にあるわけで。
 今度はめんどくさいホイールのスポークをやってみるかな。
 メカ音痴だってできることはあるもんだ。
 
 
 
 
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一夜明けて

2018年11月15日 | 日々の暮らし
 昨日、日記に
 ・・・・・
 「けど、いつも言ってるように『楽しかった』んだろう?」
 と問われたら、
 (「楽しかった」かどうかは、そういうわけで)
 「まだ分からない」。
 そう言いながら、またツーリングに出ようと計画する。
 ・・・・・
 、と書いたので、一夜明けてどう思いが変わったかを書こうと思った。
 それで偶然、以前に書いた日記を見てしまったんだけど。
 何だか以前に書いたことで言い尽くしているような気がする。
 まあ、とにかく転載してみる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 天気を見誤り、進路を見間違え、それでも景色の中で、風にあたる心地良さに我を忘れてひたすら進む。
 そして目的地に着き、夢に描いた景色や味と、現実のそれ、とのギャップに驚く。多くは失望が胸に広がる。
 早い話が、素晴らしい景色は安っぽい新造の土産物店や傍若無人の神様連中(お客様、とも言う)のせいで色褪せ、期待していた食べ物は、「?」が頭の周りをぐるぐる巡り続けるような味だったりする。
 帰途。同じく風を割いて走りながら、左右に飛び去る景色の中で味も景色も忘れていく。
 帰り着いた時には失望感はすっかり失せて、帰り着いた気の緩みと疲労感だけが残っている。
 夢の方がいいか。
 一歩も出ないで、想像だけする。がっかりしたり嫌悪を感じたり、疲労感だけが残ったりするツーリングより、実感はないけど「良いこと尽くめ」の、夢の方がいいか。
 がっかりしても、嫌悪を感じても、疲労感だけが残っても、それらは全て「路上を走る、風の中にいる快感」に包まれていた。
 笑顔で「がっかりだぁ~」、「ヤな感じ」、と言っているようなものだ。心と体は裏腹だ。根底に充足感がある。
 確かに風の中に居る快感は何よりも大きい。何ものにも代え難い。
 フェラーリに乗ってのドライブを夢想するより、衆目を集めるド派手なハーレーでのツーリングを夢見るより、軽トラに荷物を放り込んで、そうでなければスーパーカブに雨具を括り付けて、目的地に向かって走り出してみる。そうやって全身で手応えを感じ取る。
将来を切り拓くヒントはそこにあるのだろう。
 (中略)
 何度も道を間違えて、十年ぶりに何度も通った店に入り、皿そばを十枚ほど食べて、そのまま帰ってきた。いつも通り美味しかったから、それでいい。
 他には何もしなかった。
 今、久し振りに出石蕎麦を食べた記憶が、フロントフォークが錆びて真っ白になったSRで風に向かっていった記憶と共に、ある。
 フジツボこそついていないけれど、カリブの伝説の海賊船「黒真珠号」みたいになった、フロントもドラムブレーキのSR。
 「夢」では、こうはいかない。

         2015年10月24日の日記

 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ちょっとぉ~~!センチメンタル過ぎない?
 自分でツッコミ入れたくなるくらい。赤面しそうだけど60半ばとなった今は、全く平気だ。
 とは言っても、これ、書いたのは三年前だから。
 
 
 
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違い

2018年11月14日 | 日々の暮らし
 行ってきた。
 全く同じコースを走ったら、クルマとバイク、どう違うか。
 そりゃ単純に比べることはできない。
 車で行った時は晴れ。これ以上ない、と言っても良いような秋の一日。風もさほど強くない。
 トリオくらいのジャズライブができる店で昼食。
 バイクで行った今日は、同じく晴れながら、寒冷前線通過後の冷たい強めの風が吹く。
 ただ走り抜けただけで、あとはいつもの通り、道の駅で野菜を買ったり、ドラッグストアで食料を買ったり。
 震えるほどではないけれど、寒かった。
 「けど、いつも言ってるように『楽しかった』んだろう?」
 と問われたら、
 「勿論!」
 と答えるだろうか?
 それとも
 「う~ん。どうだろう・・・」
 もしかして
 「あまり楽しくなかった・・・かな?」
 と言うかも。
 ただ、はっきりしていることは、明日以降に同じことを問われたら間違いなく
 「勿論!」
 と答えるだろうということ。
 物忘れが激しいから、「寒かった」とか「いつもと同じことをした」とかいう当たり前のことはもう忘れて、
 「今年初めての晩秋の風だった」
 「冬のグローブ、どうしようかな」
 「路面からのショックも楽しさの一部だな」
 とか。
 クルマなら「不快」とまではいかずとも、「気になるかならないか」の問題でしかない路面からのショック。
 これがバイクでは「気持ちよく走ることができる」か「苦労させられた」か、が問題になるだけ。
 先日クルマで走った時には思いもしなかった路面からのショックを、今日はずっと身体で感じていた。
 「今年初めての晩秋の風」
 最高のドライブ日和だった先日だって、秋の風は吹いていた「筈」だ。
 言うまでもなく今日は全身を秋の風の中に置いていた。・・・・で、「寒かった」。
 ツーリングを余さず満喫した。
 「楽しかった」かどうかは、そういうわけでまだ分からない。
 そう言いながら、またツーリングに出ようと計画する。
 ギャンブルは儲かるかもしれないけど、バイクは儲からない。
 金にもならないことをしてるんだから、バイク好きはギャンブル好きよりバカ、ということになる、か。
 なら、バカでもいいかな。
 
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雨模様

2018年11月13日 | 日々の暮らし
 「雨模様」って、雨が降ってない時に言うんだ。
 雨粒が一つでも落ちてきたら、それはもう「雨」。「模様」じゃない。
 …って知ったのは随分前の事。
 知ったか振りじゃなくって、ホントに知ってた。
 でも、何でそういうのか考えたこともなかった。これはホント。
 今の今まで。
 字面を見りゃ、その本意はすぐ分かることだ。「雨」と「模様」だから。
 でも「雨」は分かり切っているけど「模様」ってどういう意味?って考えたことはなかった。
 「模様」の「模」は「模している」の「模」。似ているとか似せているの意味。
 「模様」の「様」は「様式」の「様」。形とかパターンとかの意味。
 で、「模様」「と言うのは「~みたいな形」とか「~みたいな雰囲気」ということになる。
 これがもっとはっきりした「形」なら「紋」とか「文」と書かれる。
 そうすると、「文様」或いは「紋様」。
 「縄文」と言うのは縄(のような)文様。
 そんな紋様のついた土器が縄文土器だから、縄目(のような)紋様のついた土器を「縄文式土器」ともいう。
 (別に縄を押し付けて作ったわけじゃない)
 対して、東京の本郷弥生町で初めて発見されたから「弥生(町)式土器」、略して「弥生土器」というのはちょっと変だ。何だか弥生町が総本山みたいに聞こえる。
 「雨模様」は、だから「雨が降ってる」んじゃなくて「雨が降ってるみたいな雰囲気の~」ということになる。

 「唐突に何でこんなことを、書いてるんだ?」
 そりゃ勿論。
 「今日は雨模様で、またもやツーリングには行かなかった」
 、からです。
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