CubとSRと

ただの日記

次は何を

2019年02月13日 | バイク 車 ツーリング
 グダグダな日記でも、毎日書いていると同じようなところに目が向いてしまったり、同じようなことを書いてしまったりする。
 煮詰まるというか、自身、追い詰められているような、強迫観念みたいなものに囚われているような気になる。(勝手に自分で自分を追い詰めているだけなのだが。)
 たかが日記、それも一人か二人しか訪れる者のない日記に、何を責任感じてるんだ?と思う時もある。
 けど、これ、リハビリ日記だから。ボケていく自分に対しては責任を感じなきゃ。
 自分のことだ、何とかしなきゃと悪戦苦闘する責任は、ある。
 今、「どうしても毎日書かなければ」、と自分に課している。
 「内容はともかく」、という但し書き付きだからいい加減なものだけれど、本人にしてみれば、内容は元々自慢できるようなものじゃないんだから、この但し書き、全く「保険」にはなってないんだけど。
 そんなだから、書き終えたら数時間後には「次は何を書きゃいいんだ?」と追われ始める。
 「書くことが見つからない」。
 こんな時に、初めの一歩はどんな大言壮語をしたのか、どこまで大仰に考えて始めたのか、を見直す。
 経験がないから本当のところは分からないけど、自分に子供ができた時、親となる二人は
 「どんな名前をつけようか。賢くなってほしい。優しい子になって。注目を浴びる名前が良い。カッコいい名前」
 等、いろんな思いから最高の名前を付けようと苦心惨憺する。
 ブログの名前も同じで、その名前には色々な思い入れ(思い込み?)があってつけるのが普通だろう。だからその名前を見れば、管理者のブログ開設の意図は大体わかる。
 「あんまり大袈裟な肩肘張ったような名前だったら、誰も気軽に見に来てくれないだろうから」
 、と、とっつきやすい名前を付ける場合もある。
 それもまた、「だから、その名前を見れば、管理者のブログ開設の意図は大体わかる」。
 
 ところで、このブログは前のブログと違って、分かったようで分からない名前にした。
 けど、名前は変わったとしても、書いている奴は同じだ。
 だから実は「終わらなければ終わらないよ(by少女終末旅行)」。
 ここには前のブログ「繋ぎたる舩に棹差す心地して」の考え方が、どうしたって、途切れず「在る」。
 「cubとSRと」。
 繋がれた船に乗って棹を差し、進もうとしたって水面を辷り出すことはできない。
 だから「もやい綱を解け」。
 けど、その前にまずは
 「じっとしていられない。棹を差そう、行動を起こそう」
 、という、じたばたする気持ちを持とうじゃないか。
 そういうつもりで題名にした。その延長線上の「cubとSRと」。
 「cubとSR」、ではない。「cubとSRと」。その他のバイクとジイさんも加わって、じたばたし続ける。これがこの日記の目論見。
 有限の命だからゆっくりしているヒマはない。
 だからと言って、素早く適切に少々無理をしてでもやっていく、というような体力(肉体、神経共に)は、ない。

 と言うわけで(?)、次はGB250クラブマンのことを。
 
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寒い

2019年02月12日 | 日々の暮らし
 今日は全く外に出る用事がない。
 用事はないが、こんなに気持ちよく晴れた冬の空も滅多にない。
 田舎に帰っていた時はまず見ることのなかった硬質の青空。
 こんな天気の日に、一日家の中で燻っている、なんてあり得ない。
 全くどうかしている。
 しかし寒い。この寒いのはここ数日来の寒さの中でもトップクラス。
 でも、家に居たって炬燵に潜り込んでいるのが精々のところ。
 炬燵の守をしたって却って腰の痛みが酷くなるだけだ。
 家の中の寒さ。外に出て寒さに直面する。
 さあ、どっちを選ぶ。
 レザージャケットを着て出ようとした。
 襟のボタンを留めてみると、じわじわと首を絞められているような感覚が。
 これでは走っているうちに気絶しそうだ。
  
 仕方がない。走りながらあの世行き、ってのは嫌だから、着替えて出た。
 どちらにしたって涙滴型潜水艦、又は軟式飛行船みたいなシルエットになってるんだろう。
 しかし、それは下に着ているライナーシャツジャケットのせいであって、自身の太さのせいではない、と断言しておく。
 まあ、おかげでほとんど寒さに震えることなく、飛行船の如くふわふわと近辺の冬景色の中を逍遥することができた。
 雪は明日だけらしいが、今週一杯は低温が続き、週間予報では最低気温はマイナスになる、とあった。特に水~金はマイナス3度、と出ている。

 ここまでが2月10日の話。
 翌2月11日は、朝、6時に散歩に出ようとしたら雪が降り始めた。
 折り返して帰途についた辺りから、常に服を叩かなければ半分凍って張り付くようになる。
 帰り着いた頃には、周囲の家の屋根も庭も白くなっていた。
 しかし、予報通り午前中だけ降って、12時を境にピタッと止み、あとは風もなく冷え込むのみ。
 降雪のため、国旗を門柱に掲げることはやめて玄関脇に揚げる。
 雪の中の紀元節。
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二月十一日

2019年02月11日 | 重箱の隅
 一昨年に書いた日記ですが、ここに転載します。
 昨日書いた日記とほぼ同じことを書いてます。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 今日は明治以降、敗戦まで「紀元節」とされていた日だ。
 あまり昔のことで、「建国の日」がはっきりしていない。神武天皇が「建国の大業」を為された、と日本書紀に書かれているだけだ。 文字のない昔のことだ。日本書紀に書かれているだけだから、実在したという証拠にならない。
 「年月日がはっきりしないのだから、日を定めるのは時期尚早」
 確たる証拠(出土品、文書など)がないのだから、考古学者の立場からすれば、皇族である三笠宮崇仁殿下であっても、そう仰るしかない。
 そうすると、
 「皇族でさえ否定されているのに、建国記念日を制定するなど言語道断!」
 と、反対派が我々こそ正義、とばかりに祝日に制定する(実質は紀元節の復活)ことに猛反対する。
 よくもまあ馬鹿々々しい議論をしていたものだ。
 そして、15年もかかって、やっと「建国記念の日」が制定された。
 大体、二千数百年も前に遡って、の正月一日を、「めでたい日」「新年」なんだから、これを「建国記念の日」にしよう、「紀元」節、つまり「祭」、「祭日」にしようというだけのことであって、そこら辺の国の「独立記念日」なんかとは謂れが全く違うのだ。
 今朝、「正義のミカタ」で所先生が「聖徳太子の時から遡ること1260年を紀元としよう、ということになった」という話をされていた。
 これ、暦が一回り60年で、二十一回(つまり1260年)毎に、大きな変転がある、という「讖緯説(しんいせつ)」からの計算だ。
 「神武天皇が日本を作られた」のだから、大きな変転なんだ、なら、1260年前としよう、と。
 (だから少なくとも聖徳太子の以前から日本は「在る」のだから、この時点からでも日本は1400年以上続いているわけだけど)
 この時点で、「計算したら、天皇によっては百数十歳以上の長命になる」なんて間抜けなことを言うのも、「そんなに古い筈がない。大嘘だ」と騒ぎ立てるのもナンセンスの極み、ということになる。
 要は
 「確かに建国されたからこそ国があるのであって、その日時が分からないから記念日は作れない、なんて発想の方がおかしいだろう?」
 ということだ。
 それに、誰が好き好んでこの雪の降る厳冬の日に「国家創業!」、なんてするのだ。
 しかし、だ。
 詳細はともかく、建国の理念は「新しい世界を作る」ということだ。これはどこの国でも同じだ。
 ならば、「新しい年明け」と「肇国の大業」を重ねるという考え方はなかなかのものではないか。
 正月一日を、「めでたい日」「新年」なんだから、これを「建国記念の日」にしよう。
 こんなおめでたい、じゃなかった、清々しい考え方をする国が他にあるかい?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 昨日書いた日記は大まか過ぎて。
 でも、こうやって以前の日記を見直すと、僅か二年ながら、随分頭が不自由になっているなあと思います。
 ただ、頭が不自由になったから、と言って後ろ向きになったって、いいことなんか一つもないから。
 不自由なら不自由なりに付き合わなきゃ。自分のことだ、代わりの自分はいない。


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建国記念「の」日

2019年02月10日 | 重箱の隅
 明日は「建国記念の日」。
 「建国記念日」、じゃない。
 
 「日本が建国されたことを記念する日」、と言うことで、この日が「建国された日」そのものではないから。
 大体、こんな古い国が、
 「いつ建国された?何年何月何日だよ!言ってみろ!!」
 なんて言われたって、ねえ。暦もなかった昔のことなんだよ?
 それを建国、肇国(ちょうこく)の大業を成した、と言うことで紀元を設定する。つまり暦を始める。
 天皇が国を始め、天皇が国を統(す)べるわけだから、天皇の国、皇国の暦は「皇紀」と言う。
 
 けど何度も言うように、いつ「肇国の大業が」為されたのか、あんまり昔のことではっきりしない。でも、間違いなく日本は「在る」。
 建国された日は分からないけど、確かに国は「在る」。
 だったら、
 「いつかは分からないけど、『建国記念日』を適当に設定したっていいだろ?」
 となっても、別におかしくはない。
 それをどうしても
 「いつ建国された?何年何月何日だよ!言ってみろ!!」
 と、
 「建国の日を特定できなきゃ、駄目!」
 と、まるでヴェニスの商人みたいな無理難題を言って来る勢力がある。
 「暦自体が、まだ、なかったんだから」と説明したって聞きやしない。
 連中は皇族まで巻き込んで
 「日が特定できるまでは定めるべきでない」
 、と、論陣を張った。
 そんなもの、考古学的見地からは絶対に特定なんてできるわけない、と分かっているわけだから、「建国記念日」の設定は頓挫しかけた。
 「紀元節」、なら良かったんです。紀元(国の始まり)の節(節目)、なんだから、都合の良いところで。日本人の考える「正月一日を紀元としよう」、って。
 大体、旧暦の正月一日がそれなんだけど、新暦に直した明治では、それが小正月前後になってしまう。紛らわしい。
 で、計算して遡っていく。讖緯説で皇紀何年になるかは算出できているから、そこから戻って、昔の正月一日は今の何月何日になるかなと見直したら、2月11日になった。
 「じゃ、2月11日が紀元節だ」。
 「いつできた?何年何月何日だよ!?」
 なんて無粋、というか野暮なことは言わなくて済んでいた。
 けど、GHQによって祝祭日は全部廃止されましたからね。特に「皇国日本」を解体するためには、何が何でも紀元節だけはなくさなきゃ。
 でも敗戦国日本であっても、「国」であり続けたい。建国されて今に至っているのだという誇りは何としてでも持ち続けたい。
 で、
 「紀元節という名称が使えないなら、実質は同じ『建国記念日』と言う名前に」
 、となったんだけど、上記の
 「いつできた?何年何月何日だよ!?」
 という勢力が東大史学会を先頭に猛反対してきた。
 こうなったら理屈で反撃するしかない、ということで、上記の「の」を追加することで「何年何月何日だよ!?」という稚拙な攻撃を封じ込めることに成功した。

 ・・・なんてことを、これまで何度も日記に書いてきましたが、今年も、また書いてしまいました。
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同じ道を 同じ速さで

2019年02月09日 | バイク 車 ツーリング
 昨日、生協までパンを買いに行ったついでに、館内の書店に行った。
 「コペン開発物語」の著者である中部博という人が、「スーパーカブは、なぜ売れる」という名の本を出している。
 小説「スーパーカブ」と同じく、生産台数一億台突破を記念して書かれた本らしい。
 手に取ってみるのは確か二回目。真面目に立ち読みしたのは今回が初めて。中になるほどと思わされることがあったので、忘れないうちに。
 「スーパーカブは、なぜ売れる」。又は「何故スーパーカブばかりが売れ続けるのか」。
 ヤマハだってスズキだって似たような原付きを作って来た。
 失礼だけど「似たような」の一言が必ず付く。
 これ、一言で言えば「カブみたいな」という言い方で分かるように、決して「メイトみたいな」「バーディーみたいな」ではない。
 カブが本物で、後のは紛い物という捉え方。
 じゃあ、メイトやバーディーがカブに劣るのか、と言うと、決してそうではない。運動能力は却ってカブが一番劣っているのじゃないか。
 にも拘らず、カブは売れ続けている。そしてメイトやバーディーとは桁違いの信頼性を誇る。
 カブは購入者層の目的を特定し、その層の要求する物を用意し続けてきている。
 「物」と書いたが、勿論「有形」「無形」のものだ。
 購入者は「仕事に用いる」のを目的としている。
 「仕事の場で求められるもの」とは何か。
 それは「積載性」であり、「扱いやすさ」であり、「故障しない」ことであり、「修理しやすい」こと等ではあっても、決して、速度、馬力、運動能力などではない。
 次に、「仕事で使う」のだから、毎日同じ道を同じ速さで同じように走り続けられることが至上命題。
 ということは、乗り手も同じ道を同じ速さで同じように走り続けているわけで、結果、「カブに関しては」、研ぎ澄まされた感覚を持つようになる。
 そんな乗り手が次に新型カブに乗る。
 どうしたって「仕事に使うなら」、という評論家の目で新旧のカブを見ることになる。その際の評価基準は何か。
 やはり「積載性」、「扱いやすさ」、「故障しない」こと、「修理しやすい」こと等ではあっても、決して、速度、馬力、運動能力などではないだろう。
 「積載性」、「扱いやすさ」、「故障しない」こと、「修理しやすい」こと等に関する性能向上に力が注がれていなければ、「仕事で使う乗り手」は忽ちそっぽを向く。新型カブの最強の敵は旧型カブ、ということになる。

 毎日(同じバイクで)「同じ道を、同じ速さで、同じように走り続ける」ことで得られる理解と操縦能力。そして異常を感じ取る能力。
 これ、福沢諭吉が生涯続けたという居合の稽古や、平山子龍の早朝稽古と同じだろう。
 腕前を人前で派手に見せることはなくとも、その修練によってつくって来た考え方や感覚は、その人の人間形成にも深く関わっている。
 ということは
 「通勤ライダーの場合も、バイクは人格形成に相応に関わっているのだ」
 と言いたい!

 ただ、人間はナマモノだから。通勤ライダーをやめてしまえば(或いはバイクをやめてしまえば)感覚も鈍る・・・・かも。
 …通勤、やめて十年になるからなぁ。

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