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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

謙信もびっくり?斎場山の主現る!(妻女山里山通信)

2010-06-06 | 歴史・地理・雑学
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 もう少しで斎場山と陣場平、天城山の分岐点の長坂峠(東風越)にさしかかろうとするカーブを曲がったところで林道の真ん中にスックと立つ黒い獣が見えました。妻女山展望台辺りから斎場山、薬師山辺りまでを縄張りとするニホンカモシカです。以前は、この子の母親の縄張りだったのですが、子供に譲って自分はもう少し奥の山に移ったのです。

 仁王立ちしてこちらを観察してなかなか道を譲ってくれません。仕方なく時々立ち止まりながら少しずつ間合いをつめていくと、わざとよそ見をしたりしますが、道を空けてくれません。それでもこの辺りが限界距離かなと思われるところまで来ると、ゆっくりと下の斜面に駆け下りました。といっても、声を掛けるとすぐに立ち止まって振り返ります。小さなころから顔見知りなので、私の個体識別はできているのかもしれません。

 すっかり緑が濃くなった斎場山古墳の頂上へ久しぶりに登りました。円墳の頂上はほぼ平坦ですが、北東部が一番高く、千曲市の計測では513mあります。そこから盗掘された石室のところが窪んで、西南部はさらに低くなっています。

 この斎場山古墳は、1982(昭和57)年から1986(昭和61)年に長野市、更埴市(現千曲市)で共同で発掘調査がおこなわれました。その際には「斎場山古墳」ではなく「妻女山古墳」と命名されました。ここが本来の妻女山であるという古史に基づいての命名です。ただし、この命名は誤解を招く恐れがあります。現妻女山にも古墳があり、それは旧名称に基づいて「赤坂山古墳」といわれているのですが、現在ここが妻女山として定着しているので、「妻女山古墳」というとどちらの古墳を指しているのか分からなくなってしまうからです。

 そこで、2002(平成14)年から、今度は千曲市が単独で「斎場山古墳」の調査をしたのですが、「五量眼塚古墳」と名付けました。斎場山古墳の西方に広がる平地を俗称で「竜眼平」ということに因む命名ということです。しかし、この名称が一般的になることには非常に問題があります。

 まず、「斎場山古墳」のある「斎場山」の地名が「竜眼平」ではなく「斎場山」であるということ。「竜眼平」は、正しくは「御陵願平」といい転訛して「龍眼平」「竜眼平」「両眼平」「五量眼平」などとも呼ばれますが、これは文盲率が高く教育も行き届いていなかった時代の結果で、元の意味から外れて変化していったものです。「御陵願平」とは、この平地から御陵、つまりは斎場山古墳を拝んだという伝説から生まれた名称だといわれています。

 ここからが重要なところなのですが、北の麓の集落である岩野にとっては、「斎場山古墳」でなければならない理由があるのです。それは、岩野という集落の名前のルーツが、正に「斎場山古墳」であるといわれているからなのです。
 古墳があったからこそ「斎場山」という名前がつきました。「斎場」とは、古くは「ゆにわ」のことです。「ゆにわ」とは「斎庭」「斎場」を表す古語で、おおよそ「神様を祀る為に清められた場所」という意味になります。

 そして、その麓の集落は、斎場の下にある野ということから「斎野(いわいの)」と呼ばれ、「祝野」になり、「岩野」になったといわれているのです。(途中、江戸時代に上野村と称したこともあります)
 あくまでも伝説ですが、これは地名も大切な文化遺産であるという見地からすると非常に重要なことなわけです。ですからここは「斎場山古墳」でなければならないのです。岩野にとっては、上杉謙信が床几をすえて本陣としたという伝説よりも、こちらの方がはるかに重い伝説なのです。

 因みに、雨宮の御神事で有名な「斎場橋」は、この「斎場山」で祀事を行う際に渡った橋としての名称だといわれています。『日本三大実録』によると、貞観8年(866)会津比売神は従四位下を授かっていますが、その叙位を申請したのが時の大領金刺舎人正長でした。金刺氏はこの地の産土神出速雄命とその御子・会津比売命の末裔です。そのためなぜか延喜式外社だった会津比売神社の叙位を申請したのだろうといわれています。当時の社殿は山上にあったといわれており、「御陵願平」がその地であり、「斎場山古墳」が会津比売命の墳墓ではないかともいわれているのです。雨宮にいた金刺氏が「斎場橋」を渡り、「斎場山古墳」に参拝していたのかもしれません。すると、やはり「斎場山古墳」という名称が最適となるわけです。

 現在山頂には、千曲市教育委員会が命名した「五量眼塚古墳」の標識が立っていますが、これでは岩野集落の人が納得しません。村のルーツにかかわる問題ですから。そこで、この標識を手作りして立てておられる倉科のM氏に理由を話してお願いしたところ、「斎場山古墳」の標識も立ててくださるとの言質をいただきました。氏の素敵な標識が立つ日をとても楽しみにしています。

 私の妻女山のサイトをご覧になってか、斎場山を訪れる人もかなり増えました。先日も歴女とおぼしき女性に斎場山のことを話すと、「行きます!」といって登っていきました。それはいいのですが、一応月の輪熊の棲息地です。遭遇する確立はかなり低いのですが、陣場平や天城山(てしろやま・てしろさん)まで行くとなると、かなり目撃例もあるので注意が必要です。その先の鞍骨城跡まで行くとなればなおさらです。必要以上に恐れることはありませんが、熊鈴や高い音の出る笛、ラジオなどを持って登ってください。そして、これからの季節は、オオスズメバチが営巣します。黒髪、黒い帽子や服は禁物です。頭に体当たりされたり、カチカチという威嚇音が聞こえたら速やかにその場を離れてください。

★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。

★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、旧埴科郡の古墳や山城を巡ったトレッキングルポがたくさんあります。
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