梅雨の中休みらしいということで、三泊四日の車中泊ぶらり旅にでかけました。道の駅での車中泊なので宿泊費がかかりません。その分食費を少し豪華にできます。いつものように歴史と自然探索がメインです。今回は、城跡巡りと古刹巡り。そして博物館巡りでした。素敵な出会いもたくさんあった充実した旅でした。
早く着きたいので上信越自動車道で。しかし、途中は拡幅工事で片側通行や対面通行だらけ。思いの外時間がかかりました。まず訪れたのは、上杉謙信、上杉景勝の春日山城跡。ガイドの男性から最も効率的に全部を周れる行き方を教えてもらいました。謙信公の銅像が立つ向こうに本丸。春日山城跡は自然地形をいかした土の城なので、この石垣は公園にする際に造られたものです。
(左)城跡のほぼ全貌。非常に大規模な山城です。2キロ四方あるとか。(右)左上が本丸。その下が二ノ丸。斜面は非常に急で、攻めるのは困難です。
(左)甘粕近江守の屋敷跡。甘粕景持は、千曲川に布陣して妻女山(斎場山)から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げたといわれています。戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を柿崎景家・直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子不動尊の本尊として安置したといいます。先日参拝に訪れました。二つ前の記事を御覧ください。 (右)広い三ノ丸。この前に、教育委員会の方と邂逅しました。本丸の裏に井戸丸があるのですが、なぜ水が出るのか。重要な資金源だった青苧(あおそ)の話など。そして、お返しではないですが、現在の妻女山が謙信の本陣ではないことをお話しました。
(左)青苧(あおそ)。別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがあります。イラクサ科の多年草木であるカラムシの表皮から採れる繊維で、「越後上布」の原料として珍重されました。小千谷縮(おぢやちぢみ)など、高級織物の糸として、武士の裃(かみしも)や富裕階級の夏の単衣などに使われていました。美しい薄青色の織物です。(右)ウツボグサ(靫草)の群生が散見されました。別名を夏枯草(かごそう)ともいう薬草でシソ科の植物です。名前の由来は、円筒形の花穂の形が、武士が弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ているから。城跡に相応しい野草です。日本ではハーブティとして用いられ、また、止血作用と治癒促進作用があるとされ、外傷薬として古くから利用されてきた。強壮剤、うがい薬としても用いられる。ヨーロッパでは、セルフヒールという名で知られる(wiki)。
(左)二ノ丸。(右)本丸。「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、芭蕉が平泉で詠んだ俳句ですが、過ぎていった栄華と戦いの日々を想像させます。吹き抜ける爽風が気持ちいい。
(左)本丸から信州の方向を見たところ。今でこそ新潟は米どころ、山梨は葡萄や桃の産地ですが、戦国時代は寒冷期でもあり充分な米は生産できませんでした。川中島や塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。両者とも領民を食べさせるために、信州が欲しかったのでしょう。領主は、小説や大河ドラマの様に絶対的な権力を持っていたわけではないのです。英雄史観では、真実は見えてきません。(右)井戸丸。現在も水があります。礫層があり遠くの山から水脈が通じているのだそうです。彩るのはヤマアジサイでしょうか。
◉「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)
(左)吸蜜するキアゲハ。春型なので小ぶりです。(右)カラスアゲハがアザミで吸蜜。城跡は、また自然豊かな里山でもあるのです。
(左)出陣に際し、謙信公が戦勝を祈願したとされる護摩堂。(右)鎮座する毘沙門天。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。謙信の兜の前立ては日月前立が有名ですが、飯綱権現を前立てとしたものもあります。飯縄権現とは白狐に乗った烏天狗。古代ユダヤ人の一部族ともいわれています。徐福伝説で検索を。
(左)木本のシモツケが林下に咲いていました。(右)あちこちで見られたヤマアジサイ。咲き終えたシャガも。
(左)次に五智国分寺へ向かったのですが、間違えて本願寺国府別院へ。ここがまた凄い歴史を持つ古刹でした。(右)本堂。参拝すると、見事な木彫がありました。本堂は寛政10年(1798)に造立、 文化2年(1805)に建立。
◉本願寺国府別院
(左)左右の木鼻には、唐獅子と貘(ばく)の木彫。材は欅でしょう。見事です。彫師は誰なのでしょうか。(右)壮麗な本堂内部。自由に入って参拝できます。内陣正面の同一須弥 壇上に宮殿(本尊)と厨子(親鸞聖人)が鎮座しています。
(左)鮮やかな内陣。唐獅子と象の木彫りが見えます。(右)鐘楼にも体毛が風になびく見事な唐獅子が。ちょうど参拝に来た地元のおばあさん二人に国分寺への行き方を聞きました。そこを左に曲がってずっと真っ直ぐ行くといいよと。母もそうなんですが、田舎のおばあちゃんの真っ直ぐはやばいです。結局迷いましたがなんとか到着。
五智国分寺のシンボルともいえる三重塔。五智国分寺は、天台宗の寺院で山号は安国山、院号は華蔵院。本尊は五智如来です。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、越後国国分寺の後継寺院です。安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されえたそうです。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれています。かなり骨太な印象の三重塔です。
◉越後五智国分寺公式サイト
(左)国道8号を西へ。途中名立食堂という車がたくさん止まっていた店が気になったのですが、通り過ぎてしまったので、「うみてらす名立」へ。二階の店で海鮮丼。ボリュームがあります。(中)宿泊は、「道の駅マリンドリーム能生」と決めていたのですが、その前にネットで調べた「長者温泉ゆとり館」へ。いいお湯でした。宿泊もできます。(右)車中泊する「道の駅マリンドリーム能生」へ。昨年の夏に息子達と訪れたときに訪れた「海富丸」で蟹を購入。スタンプカードを持っているので凄くおまけしてもらいました。結局。蟹でお腹いっぱいになりました。
◉長者温泉ゆとり館 Facebookもリンクしています。
◉道の駅 マリンドリーム能生
海まで5mのところで車中泊。燻製のタンをつまみにビールを。キャンピングカーが4台と普通車や軽自動車が10台ぐらい。他に国道沿いには大型トラックが何台も。色々歩き回って疲れたので、9時半過ぎには就寝しました。
そして、それは起きました。10時22分、突然の地震に叩き起こされました。これは尋常ではないとすぐにFM新潟を。すると、上越中越下越に津波注意報が出たので海岸べりにいる人はすぐに高台へ避難をというアナウンス。周りの車も次々と出ていきました。さてどこへ逃げようと。震源地は山形沖らしいので西へ逃げることに。そうだ長者温泉方面へ逃げようと。坂を登って北陸道と北陸新幹線の間に広いスペースを見つけて駐車。ラジオに耳を傾けました。まあここなら大丈夫だろうと就寝。2時過ぎに目を覚ましてラジオを聞くと、どうやら津波はなかった様です。戻ることにしました。やれやれ。その後、被害が報告されました。被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。
翌日は、天気が崩れると分かっていたので、富山県の魚津まで足を伸ばしました。埋没林博物館と魚津水族館へ。そして再びマリンドリームへ。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
早く着きたいので上信越自動車道で。しかし、途中は拡幅工事で片側通行や対面通行だらけ。思いの外時間がかかりました。まず訪れたのは、上杉謙信、上杉景勝の春日山城跡。ガイドの男性から最も効率的に全部を周れる行き方を教えてもらいました。謙信公の銅像が立つ向こうに本丸。春日山城跡は自然地形をいかした土の城なので、この石垣は公園にする際に造られたものです。
(左)城跡のほぼ全貌。非常に大規模な山城です。2キロ四方あるとか。(右)左上が本丸。その下が二ノ丸。斜面は非常に急で、攻めるのは困難です。
(左)甘粕近江守の屋敷跡。甘粕景持は、千曲川に布陣して妻女山(斎場山)から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げたといわれています。戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を柿崎景家・直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子不動尊の本尊として安置したといいます。先日参拝に訪れました。二つ前の記事を御覧ください。 (右)広い三ノ丸。この前に、教育委員会の方と邂逅しました。本丸の裏に井戸丸があるのですが、なぜ水が出るのか。重要な資金源だった青苧(あおそ)の話など。そして、お返しではないですが、現在の妻女山が謙信の本陣ではないことをお話しました。
(左)青苧(あおそ)。別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがあります。イラクサ科の多年草木であるカラムシの表皮から採れる繊維で、「越後上布」の原料として珍重されました。小千谷縮(おぢやちぢみ)など、高級織物の糸として、武士の裃(かみしも)や富裕階級の夏の単衣などに使われていました。美しい薄青色の織物です。(右)ウツボグサ(靫草)の群生が散見されました。別名を夏枯草(かごそう)ともいう薬草でシソ科の植物です。名前の由来は、円筒形の花穂の形が、武士が弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ているから。城跡に相応しい野草です。日本ではハーブティとして用いられ、また、止血作用と治癒促進作用があるとされ、外傷薬として古くから利用されてきた。強壮剤、うがい薬としても用いられる。ヨーロッパでは、セルフヒールという名で知られる(wiki)。
(左)二ノ丸。(右)本丸。「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、芭蕉が平泉で詠んだ俳句ですが、過ぎていった栄華と戦いの日々を想像させます。吹き抜ける爽風が気持ちいい。
(左)本丸から信州の方向を見たところ。今でこそ新潟は米どころ、山梨は葡萄や桃の産地ですが、戦国時代は寒冷期でもあり充分な米は生産できませんでした。川中島や塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。両者とも領民を食べさせるために、信州が欲しかったのでしょう。領主は、小説や大河ドラマの様に絶対的な権力を持っていたわけではないのです。英雄史観では、真実は見えてきません。(右)井戸丸。現在も水があります。礫層があり遠くの山から水脈が通じているのだそうです。彩るのはヤマアジサイでしょうか。
◉「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)
(左)吸蜜するキアゲハ。春型なので小ぶりです。(右)カラスアゲハがアザミで吸蜜。城跡は、また自然豊かな里山でもあるのです。
(左)出陣に際し、謙信公が戦勝を祈願したとされる護摩堂。(右)鎮座する毘沙門天。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。謙信の兜の前立ては日月前立が有名ですが、飯綱権現を前立てとしたものもあります。飯縄権現とは白狐に乗った烏天狗。古代ユダヤ人の一部族ともいわれています。徐福伝説で検索を。
(左)木本のシモツケが林下に咲いていました。(右)あちこちで見られたヤマアジサイ。咲き終えたシャガも。
(左)次に五智国分寺へ向かったのですが、間違えて本願寺国府別院へ。ここがまた凄い歴史を持つ古刹でした。(右)本堂。参拝すると、見事な木彫がありました。本堂は寛政10年(1798)に造立、 文化2年(1805)に建立。
◉本願寺国府別院
(左)左右の木鼻には、唐獅子と貘(ばく)の木彫。材は欅でしょう。見事です。彫師は誰なのでしょうか。(右)壮麗な本堂内部。自由に入って参拝できます。内陣正面の同一須弥 壇上に宮殿(本尊)と厨子(親鸞聖人)が鎮座しています。
(左)鮮やかな内陣。唐獅子と象の木彫りが見えます。(右)鐘楼にも体毛が風になびく見事な唐獅子が。ちょうど参拝に来た地元のおばあさん二人に国分寺への行き方を聞きました。そこを左に曲がってずっと真っ直ぐ行くといいよと。母もそうなんですが、田舎のおばあちゃんの真っ直ぐはやばいです。結局迷いましたがなんとか到着。
五智国分寺のシンボルともいえる三重塔。五智国分寺は、天台宗の寺院で山号は安国山、院号は華蔵院。本尊は五智如来です。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、越後国国分寺の後継寺院です。安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されえたそうです。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれています。かなり骨太な印象の三重塔です。
◉越後五智国分寺公式サイト
(左)国道8号を西へ。途中名立食堂という車がたくさん止まっていた店が気になったのですが、通り過ぎてしまったので、「うみてらす名立」へ。二階の店で海鮮丼。ボリュームがあります。(中)宿泊は、「道の駅マリンドリーム能生」と決めていたのですが、その前にネットで調べた「長者温泉ゆとり館」へ。いいお湯でした。宿泊もできます。(右)車中泊する「道の駅マリンドリーム能生」へ。昨年の夏に息子達と訪れたときに訪れた「海富丸」で蟹を購入。スタンプカードを持っているので凄くおまけしてもらいました。結局。蟹でお腹いっぱいになりました。
◉長者温泉ゆとり館 Facebookもリンクしています。
◉道の駅 マリンドリーム能生
海まで5mのところで車中泊。燻製のタンをつまみにビールを。キャンピングカーが4台と普通車や軽自動車が10台ぐらい。他に国道沿いには大型トラックが何台も。色々歩き回って疲れたので、9時半過ぎには就寝しました。
そして、それは起きました。10時22分、突然の地震に叩き起こされました。これは尋常ではないとすぐにFM新潟を。すると、上越中越下越に津波注意報が出たので海岸べりにいる人はすぐに高台へ避難をというアナウンス。周りの車も次々と出ていきました。さてどこへ逃げようと。震源地は山形沖らしいので西へ逃げることに。そうだ長者温泉方面へ逃げようと。坂を登って北陸道と北陸新幹線の間に広いスペースを見つけて駐車。ラジオに耳を傾けました。まあここなら大丈夫だろうと就寝。2時過ぎに目を覚ましてラジオを聞くと、どうやら津波はなかった様です。戻ることにしました。やれやれ。その後、被害が報告されました。被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。
翌日は、天気が崩れると分かっていたので、富山県の魚津まで足を伸ばしました。埋没林博物館と魚津水族館へ。そして再びマリンドリームへ。
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