《洋梨のある静物》 油彩 1887-88
どうも、デジカメどころかスキャナの調子も悪くなったらしく、少し画像がくすんでいます。ほんとうはもっと明るくてくっきりした色合いです。
ゴッホの魅力の一つは、燃えているというより、純粋には存在不可能なようなイオン化傾向の高すぎる金属が、それ自身存在するだけで燃えているかのような、黄色です。
ゴッホが描くと、麦畑も、夜のカフェの明かりも、空さえも、金属質の純真な愛の叫びに見える。死の壁を越えなければ見えないような、虚無の刃に引き絞られた愛の叫び。それが、まぶしいくらいの美しい黄色に現れているような気がします。
筆のあとが荒々しく見えるのに、対象の真実を明確につかんでいる。ナシはナシにしか見えない。布も布にしか見えない。それなのに、まるで何か別のもののように見える。ナシの奥で、見知らぬ新しい何かが燃えている。そんな風に感じる。美しい。激しく美しいのに、悲しいくらい、可憐。
後期印象派と、人は名づけたがりますが、ゴッホは印象派に学んで、まったく別のものを作り上げたような気がします。見るほどに苦しくなるのは、絵の奥で、近代文明の中では生きていくことの不可能な、純真な愛が、激しく殺され続けている叫びを感じるからです。
印象派の原動力の一つとなったマネは、近代文明の矛盾と偽善を暴きながらも、それに巻き込まれていかざるをえない悲哀に浸りこみ、死んでいった。けれどもゴッホは狂気の中で、真実の愛を非情な現実の嘲笑にぶつけて、自ら粉々に砕くような生き方をした。それ以外では生きられなかった人は、それ以外に道がなかったかのような時代でした。
美しすぎるものが、激しく壊されていく時代、ゴッホの絵は、壊れていく真実の向こうから、何かが見え始めてくるという予兆をも見せています。それが本当に見えてくるのは、もっと後になってからです。
芸術はそれから、シュルレアリズム、キュビズムと、自らを破壊し始める方向に向かいます。その向こうで、新しい何かが見えてくる。現代は、まさしく、その新しいものが何なのかを、求めていく時代です。
美しいものが、美しいものに、帰って行く。本来の正しい姿に戻っていく。安らかで気持ちのいい故郷に、魂が戻っていく。
これからの芸術は、きっとそうなっていくでしょう。
どうも、デジカメどころかスキャナの調子も悪くなったらしく、少し画像がくすんでいます。ほんとうはもっと明るくてくっきりした色合いです。
ゴッホの魅力の一つは、燃えているというより、純粋には存在不可能なようなイオン化傾向の高すぎる金属が、それ自身存在するだけで燃えているかのような、黄色です。
ゴッホが描くと、麦畑も、夜のカフェの明かりも、空さえも、金属質の純真な愛の叫びに見える。死の壁を越えなければ見えないような、虚無の刃に引き絞られた愛の叫び。それが、まぶしいくらいの美しい黄色に現れているような気がします。
筆のあとが荒々しく見えるのに、対象の真実を明確につかんでいる。ナシはナシにしか見えない。布も布にしか見えない。それなのに、まるで何か別のもののように見える。ナシの奥で、見知らぬ新しい何かが燃えている。そんな風に感じる。美しい。激しく美しいのに、悲しいくらい、可憐。
後期印象派と、人は名づけたがりますが、ゴッホは印象派に学んで、まったく別のものを作り上げたような気がします。見るほどに苦しくなるのは、絵の奥で、近代文明の中では生きていくことの不可能な、純真な愛が、激しく殺され続けている叫びを感じるからです。
印象派の原動力の一つとなったマネは、近代文明の矛盾と偽善を暴きながらも、それに巻き込まれていかざるをえない悲哀に浸りこみ、死んでいった。けれどもゴッホは狂気の中で、真実の愛を非情な現実の嘲笑にぶつけて、自ら粉々に砕くような生き方をした。それ以外では生きられなかった人は、それ以外に道がなかったかのような時代でした。
美しすぎるものが、激しく壊されていく時代、ゴッホの絵は、壊れていく真実の向こうから、何かが見え始めてくるという予兆をも見せています。それが本当に見えてくるのは、もっと後になってからです。
芸術はそれから、シュルレアリズム、キュビズムと、自らを破壊し始める方向に向かいます。その向こうで、新しい何かが見えてくる。現代は、まさしく、その新しいものが何なのかを、求めていく時代です。
美しいものが、美しいものに、帰って行く。本来の正しい姿に戻っていく。安らかで気持ちのいい故郷に、魂が戻っていく。
これからの芸術は、きっとそうなっていくでしょう。