世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

鬼神を敬して

2007-11-27 09:57:14 | てんこの論語

樊遅、知を問う。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂うべし。」(雍也)
(はんち、ちをとう。しいわく、たみのぎをつとめ、きしんをけいしてこれをとおざく。ちというべし。)

樊遅が知についてたずねた。先生はおっしゃった。「人間としてやるべきことをきちんとやり、人間にはわかりかねることには、礼儀を尽くして、遠ざかっていること。これが知というものです。」



毎日は書けないかもしれないなどといいながら、いったん書き始めると、次々と書きたいことが出てきてしまいます。この上は、毎日カテゴリを変えながら、一通り全部書いていこう、なんていうことを考えています。パターンを作って、きちんとそれを踏んでいきたいっていうのが、どうやらわたしの性分のようで。しばしおつきあいくださいね。

孔子の大きな特徴の一つは、神などの、この世を越えた存在については、深く言及しなかったことです。ほかにも、「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ」などのことばがありますが、人間を越えた存在を考えすぎると、人間が、馬鹿なことをし始めるということを、彼が経験上知っていたからだとわたしは考えています。

確かに、人間を越えた存在はありますが、それは、人間の知では計り知れないこと。つかもうとしても、つかみきれないもの。おおすじで、こういうものだということは、わかりますが、すべてを感じ、すべてをつかむことは、とうていできないものです。

神はすべてであり、すべての知を越えたもの。それを知でつかむことは、不可能なもの。あまりに大きすぎるからです。

かといって、人間が馬鹿なわけではありません。人間の知は、人間として生きていくにちょうどよくできているものだからです。人間は、本来人間らしい人間として生きていくに必要な知は持っている。それを、本来の正しい形で使っていくことが、先なのです。人間本来の正しい知を使って、正しく生きるとき、人間は人間のすばらしさを感じることができるのです。

しかし、人間が本来の人間らしさを忘れ、人間を越えたものに惹かれすぎると、まちがいが起こってきます。それらのあまりの大きさ、すごさに、人間がちっぽけなつまらないものに思え、人間として努力することが、くだらないことに思えてくるからです。そして、生きることがたまらなく辛くなる。苦しくなる。

その苦しみを、人間を越えたものに、救ってくれと頼んでも、滅多に救ってはくれません。なぜなら、人間を越えたものは、必ず知っているからです。人間が、自分で自分を救わない限り、救われないということを。人間が、人間本来の美しさに目覚めない限り、すべては動かないということを。

あまりに大きすぎることを考えすぎると、人は何もできなくなる。まずは、等身大の自分を感じ、その存在の力に目を覚まし、自分を動かし始めること。本当の自分を、やること。それがまず最初なのだということが、わかっていること。それが本当の知なのです。そしてそれがわかっていて初めて、人間を越えたものの本当のすばらしさがわかり、心から敬することができるのです。そして、自分のやるべきことを、むやみに越えてはいけないのだという、節度が備わってくる。

本当の自分に目覚める。ただそれだけで、自然に、すべてがわかってくる。それが知というものなのです。

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