季節は晩秋から冬にさしかかろうとしていますが、こちらでは、山々や町の木々が、美しい紅葉を見せてくれています。ご近所のケヤキも、ナンキンハゼも、目の覚めるように色づいています。
いつもなら、デジカメ片手に写真を撮っているところですが、今年の春に買ったばかりのデジカメくんが、早々と妖精さんになってしまったため、せっかくの紅葉をお見せすることができません。新しいのがほしいのだけど、ビンボー人の悲しさゆえ、今少し買い控えているところです。
なので、今日は、デジカメくんが元気だった頃の、春の写真をお届けしようと思います。季節はずれますが、しばしの間、春の気分をお楽しみください。トップは、近所の空き地の隅に咲いていた、シロバナタンポポです。
これは、おなじみのセンダンの木の生えている公園で見つけた、マツバウンラン。この頃は、花の名前を知りませんでした。見ていると、当時のわたしの気分も見えてきて、ちょっと切なくなりますね。新しい季節を向かえ、楽しいことがいっぱいあるだろうと、期待にいっぱいでした。もちろん、面白いこともいっぱいありましたが、しょっぱいこともありましたね。でも、いつものように、なんとか乗り越えられた。
季節季節、それぞれ、見えてくる新しい課題がある。振り返ると、この頃のわたしが、かわいいような、悲しいような。マツバウンランが少し悲しげに見えるのは、このときのわたしが、まだ何も知らなかったから。
これは菜の花。前のブログで使ったことがあるような気がしますね。冬がおわり、一番最初に歌い始める、金色の花です。この空き地には、なじみのくすのきが立っています。昔、いろいろあってとても孤独だった頃、心を開くことのできた、数少ない友達でしたが、あるときに、無残に半身を伐られてしまい、とても苦しくて、毎日訪れることができなくなりました。
苦しいことを乗り越えると、木も人も、とても美しくなりますが、この木は、苦しすぎることを乗り越えてしまって、一時期、まるで木のようには見えない木になっていました。そしてわたしも同じように、まるで人間ではないようなものになっていました。
今はその木も、わたしも、少し落ち着いています。いろいろありましたが、なんとか生きていけるという、気力が太ってきたような気がします。
これはもちろん、タンポポ。たぶん、長男の入学した高校の、グラウンドのすみで見つけました。16歳になった息子は、なかなか母親と話をしてくれません。細い背中が苦しいのは、息子が、若かった頃のわたしと、とても似ているから。
見えないものを背負って、細すぎる感性のナイフで、風を切って歩いていく。生きているだけで、一歩一歩歩いているだけで、心臓の芯の痛いところが、悲鳴をあげているようだ。
その痛みを知っているのは、自分だけではないってことを、若かった頃のわたしはまだ知らなかった。道端のタンポポも、何気なく目の前をよぎるちょうちょうも、みんなわたしの苦しさを知っていたと、わかったのは、もっと大人になってからでした。
愛してるよ。なんだってしてあげるよ。
世界中のすべてが、そうわたしの耳元でささやいていることを、すべての人の耳元に、同じ音楽が聞えていることを。
すべての人に伝えていくのが、これからもずっと、わたしの仕事です。