老人はいつものように書物を開き、光る文字を読み上げ、書棚の横の赤い紐をひっぱりました。今日は、「氷河の月」という地獄へと向かう予定でした。そこでは、山のように巨大な氷塊の中に、死んだように青ざめた月が凍りついており、何千人の罪びとが、月の光を求めて、何とか氷を溶かそうと、凍えながら舌で氷をなめ続けているはずでした。
しかし、家が横滑りに移動していく途中で、何か、ぎり、という妙な音がして、不意に家が傾きました。老人は、おや?という顔をして書物から顔をあげました。すると家全体ががたがたと揺れ始め、老人は床に尻もちをついて、あわててテーブルの脚につかまりました。オウムは、ばたばたと宙に飛び上がり、くるっ、くるっ、と驚いた声をあげました。
「何事です?何事です!?」オウムが叫ぶと同時に、老人は床に横たわりながら書物を開き、光る文字を確かめました。「いかん、誤植だ。文字に余計な一画がある」その間にも、家はがたがた揺れながら、思いもしない方向へと動き、やがて、ひゅうっと音を立てて下に落ち始めました。
「止めなければ、とにかく止めなければ!」老人は振動する床の上にようやく膝を立て、書棚の横の紐にすがりつき、思い切り引っ張りました。すると家は、悲鳴をあげるように、きいいっと割れるような音を立て、左右にがたんがたんと何度か大きく揺れたあと、次第に静かになり、よほど時間を待って、ようやく静まりました。老人とオウムは、同時にほっと息をつきました。
「やれ、災難だ。しかし困ったぞ。どこまで来てしまったのだろう?」老人は言いながら窓を開き、外の風景を見ました。するとそこには、墨を流したような黒一色の闇があり、その真中に、奇妙に白く光るものが浮かんでいました。よく見るとそれは、白い髪に白い顔、白い服を着た小さな老人でした。オウムが窓辺に飛びついて空を見、叫びました。
「ご老人!ご老人!月が、月がありません!」
その声に老人も空を見上げました。確かに闇空深くどこまで見渡しても、白い月の光のかけらひとつ見えませんでした。それなのに、闇の中に浮かぶ老人は、自ら光るようにはっきりと白く浮かんで見えました。窓の老人は下をも見ましたが、そこにも、どこまで見ても底のようなものはなく、ただ果てもない闇の奈落ががらんと開いているだけでした。
窓の老人は、白い老人の姿を、よく見てみました。すると、白い老人の頭を、月光のこもった水晶の太い大きな釘が、後頭部から額にかけて鋭く貫いているのがわかりました。その釘を見て、老人ははたと思いいたりました。
「これは、イエスを殺した人だ!」オウムはまさにオウム返しに、「イエスを?」と言いました。
窓の老人は書棚の前に戻り、並んだたくさんの書物の中から、一冊の薄い本を探し出しました。「比較的新しい罪びとだ。ほんの二千年前の」書物をぱらぱらとめくりながら、老人は光る文字を探しました。するとページの間から、少し血なまぐさい匂いが漂ってきました。それは、その本に書いてある項目が、まだ新しい歴史の中で起こったことであり、いまだに流された血が乾いていないからでした。薄い本にも関わらず、目指す項目はなかなか見つからず、老人は何度も本をめくりなおして、やっと、かすかに虹色に光る小さな文字を見つけました。「あった!これだ、『キリストの怪』!」
「キリストの怪?」オウムがまたオウム返しに言いました。老人はしばし書物に書かれた文字を読み込み、ほおお、と声をあげました。「これはなんとも、すさまじい」そういうと彼は窓に飛びついて空を見上げ、オウムを呼び、「ごらん」と言いました。老人は闇空を指差し、闇に隠れて見えない雲が動くのを待ちました。やがて、上空に風が起こり、雲が流れて、かすかな白い光が見え始めました。オウムが目を見張りました。
「ご老人!あれは、月ですか!?」「ああ、あれがここの月だ」「しかし、あれは月ではありません!月は丸く、あるいは丸いものが欠けている形をしているものです!」
闇空に浮かぶその光は、細い光の棒を二本組み合わせた、十字の形をしていました。老人は言いました。「書物には確かにこう書いてある。この地獄の月は、白い十字架の形をしていると」。老人とオウムは、ふたりで、目の前に浮かぶ白い老人を見つめました。しばらく見ていると、老人は、十字架の月から白い光の糸が一筋下りていて、それが白い老人を突き刺している水晶の釘に結び付けられ、彼が闇の中にマリオネットのようにぶら下がった格好になっているのに気付きました。老人は、なるほど、と言い、「あの一本の糸がキリストの愛なのだ。それが彼の存在を、奈落に落ちてすべて否定されることから助けている。あれほどの目にあいながらも、彼はあの人たちを、すっかり見捨てることはできないのだ」と言いました。
老人は窓辺を離れ、部屋を歩きながら書物に深く読み入りました。「二千年の昔、ユダヤの国に、イエスという理想に生きる若い愛の人がいた。彼はただ、愛のみを動機として人々に語りかけ、彼らの魂を、幸福な神の国へと導こうとした。だが彼の言葉は、当時の人々には理解できず、彼はかえって人々の誤解と嫉妬を買い、群衆の憎悪によってむごく辱められ、暴力に苦しめられ、最後には木の十字架に釘打たれて死んだ。その罪によって、ユダヤの民族は、一日にして滅んだ…」
「はい、それは今、だれもが知っているお話です。たくさんの神話的な尾ひれがついて、地球上に広がり、イエスは今、神としてたくさんの人に信仰されています」
「そのとおり、たぶん彼の名を知らぬ者は地球上にほとんどいない。…彼が死んだ後、自分たちの罪を何とかしようとした人々が、彼の生きていた証しを、神の域にまで高めて、命すらかけながら、あらゆる国にキリスト教を広めたのだ。人々は、十字架にはりつけられたキリストの像を繰り返し描き、あるいは木や石に彫り、それを神として崇め、祈りの対象としてきた。地球上で彼を信仰する人は今や本当にたくさんいる。実数として、あらゆる宗教の中ではキリスト教徒が一番多いだろう。だが、彼らは、そのキリスト教に奇妙な呪いがかかっていることを、知らない」
そう言うと老人は指をぱちんとはじき、目の前に大きなキリストの磔刑図を出しました。それはゴシック様式のいかにも豪華な絵で、金箔をはられた輝く背景の中に、十字架にはりつけられて死んだ痩せ細った男の絵が描かれていました。男は貧相でありましたが、頭上には神の子の証拠である光る金の輪をかぶっていました。
老人はその絵を指差しながら、「これを、『キリストの怪』という」と言いました。
「キリストの怪?」オウムはまたまた、オウム返しに言いました。老人は、そう、と言い、悲しげな目で、茨の冠に血を流している男の顔を見つめました。「なんとみじめな姿だろう。なぜ、人々はかわいそうなこの姿を、あんなにも崇めるのだろう?考えたことはあるかい?」
「さあ?いろいろと解釈する人はいるようですが?」
「これは、いかにも悲しい誤解なのだ。人々はこの図に神の姿を見、祈り続けてきた。しかし彼らは、この図の後ろで、ひそかな呪いが、繰り返し同じ言葉をささやいていることに、気付かなかった。それはこう言っていたのだ。『もし、この世界で、この男のように、愛や善や正義を行おうとすれば、必ずこのような目にあう』と」
それを聞いて、オウムは老人をふりかえり、呆れてものが言えないというようにぽかんと口をあけました。「それは、…たしかに。たしかに、そういえば、そんな声が、聞こえる…」オウムは茫然と磔刑図を見上げました。老人は続けました。
「そう、人々はこの惨い図を通して神に祈りながら、ずっとその呪いを聞いていたのだ。そして、人々は、とても『賢く』なった。もともと賢くはあったが、それがずっと巧妙になったのだ。彼らはイエスのようにはなりたくなかった。地球上で、本当に良いことや正しいことをやろうとすると、多くの人々がそれに嫉妬し、みんなでそれをやめさせ、神への高みから地上の地獄に引きずり落とした。それでも言うことを聞かぬ者は、イエスのように全員でいじめて、殺した。そして、表面上は善き信者のふりをして、よく言うように、裏で、うまいことをやった。つまり、悪を行ったのだ。中世の魔女狩りなどはその最も惨い例だろう。彼女らは多く、ただ美しいという理由だけで燃やされて死んだ。多くの善き信者たちによって」
老人は再び指をぱちんとはじきました。すると磔刑図は消え、代わりに、黒い髪と髭をのばした若い男の肖像が現れました。それは一見、さっき見たやせ細った男の顔に似ていなくもありませんでしたが、その青い眼は鋭く澄み渡り、見る者の胸を深くつかむものがありました。オウムは思わずその図に近寄り、「こ、この方はどなたです?!」と叫びました。どこかで会ったことがあるような気がしたからです。老人はそれには答えず、言いました。
「あれから二千年、人類はようやく、イエスが本当は何を言いたかったのかを、理解しようとしている」老人は指をまたはじき、オウムの目の前のイエスの肖像を消しました。すると窓の向こうの、人形のようにぶら下がっている白い老人の姿がまた現れました。窓の老人は、白い老人に向かって、言いました。
「そして人類は、茨の道を歩き始める。ただひたすら、まっすぐに。彼の人の待つ、神の国へと向かって」
オウムはごくりとつばを飲み込みました。と、目の前の白い老人が、かすかに顔をゆがめたように見えました。窓の老人はその顔を見据え、その口元が震えて、何かを言ったのを聞き逃しませんでした。オウムが口を開き、その言葉を代弁するように、恐れ多くも厳かな声で、ささやきました。
「イエス」