世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-02-22 11:15:57 | 月の世の物語・別章

「出せ!ここから出せ!!おれはやってない!悪いことなんかしてない!馬鹿はやめろ!ここから出せえ!!」
一人の男が、井戸のように深く暗い穴の底で、繰り返し叫んでいました。一人の青年と、一人の少年が今、その穴の底にいる男の元を訪ねようと、穴の上からそれぞれに綱を下ろし、その綱を手繰って、ゆっくりと下に降りてゆきました。

「すみません、手伝ってもらって。僕だけではどうしても手に負えなくて」綱にそって用心深く下を目指しながら、少年が言いました。「いや、困った時はお互い様だ。それにしても、めんどうだな。普通ならひとっ飛びで降りられるというのに」青年が綱を伝って降りながら言うと、少年が答えました。「罪びとが僕らの導きを拒否してるからなんですよ。こうやって綱で降りて行かないと、底の方から風圧が起こって僕たちを中に入れてくれないんです。とにかく彼は、自分の罪を認めたくなくて、ただ、いやだいやだって、ああしてずっと叫んでるんです。で、そうやって叫ぶたびに穴が深くなっていくんですよって、何度も何度も教えたんですけど、ずっとああして叫んでるんですよ」青年は、月光をこもらせた水晶の板をはめ込んだ眼鏡で、深い穴の闇の中、はるか下に小さく見える、男の方を見下ろしました。男は相変わらず、穴の壁をたたきながら、叫んでいました。

「ああそうだよ!おれはやったよ!あの下品な馬鹿野郎に、たらふく金を食わせてやったよ!でもそんなことは誰でもやってることじゃないか!おかげで会社は太ったしみんな儲けていいことになった!それがどうだっていうんだ!なんでこうなるんだ!おれがどうしてこうなるんだ!!」

「下品な馬鹿野郎って?」と青年が尋ねると、少年は少々ため息をついて答えました。「某元議会議員のことです。彼はまだ地球にいて、立派な邸宅で悠々と余生を送ってます。要するに贈賄ですね。罪はそれだけじゃないんですけど。…困ったなあ、また深くなってるよ。これじゃあ、どんなに追いかけても追いつかない。先輩、『天使の術』の免許、持ってますよね?」「…ああ、持ってるが?」「じゃ、それ使ってくれませんか。彼、一応キリスト教徒だし、天使の姿なら、僕たちを受け入れてくれるかもしれない」「あれは、よほどのときじゃないと使えないんだ。この場合はどうかな?」少年は困ったように下を見ながら、またため息をつきました。「そうですねえ、やっぱり綱で降りていくしかないか…」。

彼らが懸命に綱をつかみながら下に降りている間も、男はぶつぶつと穴の底で文句を言っていました。
「ちきしょう、ちきしょう、みんな、みんな、おれのせいにしやがって。死人に口なしだって、みんなおれのせいにしやがって。のうのうと生きてやってやがる。おまえらもやったじゃないか!あの野郎、あの野郎!おれがやってやったのに、おれがみんなやってやったのに!」そうして彼が文句を言うたびに、穴はどんどん深くなり、彼はますます青年たちから遠ざかってゆきました。

青年は困ったように顔を歪め、息をふっと吐くと、目の前に書類を出して、それを読みました。そしてしばらくして、「…おお」と声をあげました。少年は、「わかりましたか?」と言いました。「ああ、なんとまあ、立派なキリスト教徒だ。彼は七人も、イエスを殺してるんだ」「…ええ、そうです。しかも美しい女性ばっかり」青年は書類を読み込みながら、呆れたように頭を振りました。『イエスを殺す』とは、彼らの隠語で、集団で一人をいじめて殺す、あるいは破滅させるということを意味しました。

「ひどいな、これは」「ええ、彼はある会社の社長になって金と力を手に入れると、それを使って社員を操り、とんでもない卑怯な方法で裏から手を回して、きれいな女性ばっかりいじめて陥れているんです。それで彼女らの人生を破滅させています。そのうちの一人は、ビルの上から飛び降りて、死後彼にとりついて復讐したために、月の世で今罪を償っています」少年はできる限り早く手足を動かして綱を下りながら、言いました。青年は手の力を緩め、少しの間綱の上を滑るようにしながら下に降りていきました。しかし、彼らがどんなに急いで降りていっても、男は文句を言うことを止めず、どんどん穴は深くなり、青年たちはどうしても彼のいるところに追いつくことができませんでした。

「ええい、仕方ない!」青年はそういうと、呪文を唱え、天使に姿を変え、少年に自分の背に乗るよう合図しました。少年が天使の背に乗ると、天使は綱を離し、穴の中で翼を広げました。すると、まるで待っていたかのように風が起こり、天使は吸い込まれるように底に向かって降りて行きました。穴の底の男は、光をまとって降りてくる天使の姿を見ると、自分を救いに来てくれたものだと思って、その姿に向かって手を組み、「て、天使さま!」と叫びました。

「罪びとよ」天使は穴の底に舞い降りて、言いました。「あなたの罪は暴かれた。あなたは逃げることはできない。どのような深い闇に隠れようとも、神のまなざしを避けることはできない。神は全てをご存じである。見なさい」そういうと天使は、右手を舞うように降りあげ、天を指差しました。すると、穴の闇の中に、七人の女性の顔が次々と浮かび上がりました。それを見た男は、くっと息を詰め、目を見開きました。

「あなたはこのひとたちを知っている。神は全てをご存じである。さあ、あなたの罪を述べなさい」天使が言うと、男はおろおろと穴の底を後ずさり、震えながらかぶりをふりました。「ち、ちがいますう。おれは、知らない。こ、こんな女、み、見たこともありません……」その答えに天使は眉をつり上げ、厳しく深い声で呪文を唱えました。すると闇に浮かび上がった女たちの顔が笑い出し、それぞれに彼がやったことをしゃべりはじめました。

「天使さま、彼は私の夫に金をつかませて、私を離縁させました。そして私が孤独になったところにつけこみ、みんなを使って卑怯な罠に陥れ、惨い女の地獄へと突き落としました」「ええ、ええ、そうですわ。私もそうされました」「私もです」「私も」「私も」「私のときは、彼は職場の女性社員数人を使って、私を酒場に誘い込みました。私は薬を混ぜた酒を飲まされて罠にはまり、ある役員の妾にされ、いいように弄ばれたあげく、用がなくなると捨てられました」「この人です、裏から手を回して私を殺したのは。私は一生懸命やったのに、仕事で何をやっても失敗しました。それは彼が、部下を使って裏で私の仕上げた書類を書き直させ、巧妙に私のミスを作ったからでした。そのために私は解雇され、愛していた夫さえもが彼の金に目をくらまされて私と離婚し、私は全ての希望を見失って、自ら死を選びました」。

女性たちは彼を取り囲み、がやがやと騒ぎながら彼の罪を責めたてました。男は、ひいひいと声を上げながら穴の底を這いまわり、「いやだあ、いやだあ、ちがう、ちがう、やってないよ。おれはやってない。ちがう、ちがう……」と言い続けました。そして彼が、いやだと言うたびに、穴はどんどん深くなっていきました。

少年が天使の背後で、ささやきました。「まずいですよ。このままでは彼、怪の地獄まで落ちてしまう」天使は再び手を踊らせ、闇に浮かぶ女性たちの顔を消しました。そして静かにも厳かな声で、言いました。
「罪びとよ。なぜあなたはちがうというのか。あなたはあなたゆえに知っている。あなたのしたことのすべてを。なぜそれから逃げることができようか。それなのになぜあなたはちがうというのか。答えなさい」すると罪びとはまた天使の前に手を組んで、頭を横に振りながら言いました。
「ちがいます、おれはやっていません。あの女ども、あれらはみんな嘘つきです。おれはいやだ。こんなのはいやだ。なんでなんだ。こんなのは無しだ。いやですよお。まってください。なんでこんなことになるんですか。おれはなにもやっていない…」

すると、穴は、ぐるん、と回転し、ずん、と重い衝撃を起こして一気に下に落ちたかと思うと、罪びとの足元にぱくりと穴が開き、彼はひいっと声を上げながらその向こうの暗闇に滑り落ちました。天使は一瞬迷いましたが、指をさしてそこから光の糸を出し、その糸で闇に落ちていく彼の腕を捕まえました。彼は天使の糸に片腕をようやく支えられ、闇の中にゆらゆらとぶら下がりました。男がほっとしたのもつかの間、やがて、眼下に広がる暗闇が、霧のように退いたかと思うと、うっすらと下に光が見え始め、彼の足のはるか下に、無数の蜘蛛やムカデのうごめく、怪の地獄が、見えてきました。罪びとはそれを見て、背筋がぞわりとし、天使の糸にすがりつきました。「た、たすけてくださあい!怪だ!怪だ!怪に食われる!」彼は叫びました。

天使は苦悩を表情ににじませながら言いました。「罪びとよ、これが最後のチャンスだ。もう一度問う。あなたはなぜ、ちがうというのか。あなたは、あなたのしたことを、すべて知っているのに、なぜ、知らないというのか」。
すると罪びとは言いました。「なぜ、なぜってそりゃあ、やってないからですよお!いやなんだ!いやなんだ!あんなことをやったら、おしまいじゃないですか。とおんでもないことに、なるじゃないですか。やってないですよ。やってないですよ。ほんとです。信じてください!おれはいやだあ。あんなことになるのは、いやだあ!」

罪びとの言葉に、天使は顔をゆがませ、ああ、と嘆く声をあげました。彼は一本の糸で彼を支え続けましたが、罪びとはただ、「自分はやってない」と言うばかりでした。少年が、たまらなくなって、天使の後ろから姿を現し、彼に向かって叫びました。
「お願いです!はい、と言って下さい!やった、と言ってください!そうでないと落ちてしまう。このままでは、あなたは怪に落ちてしまう!」しかし男は、少年の声には耳を貸しませんでした。

「いやです!おれはやってない。なんでって、おれはいやなんだ!あんなことをやって、全部罪を償えって、そんなのは絶対いやなんだ!おれはやってないいい!!」

そのときでした。彼を支えていた天使の光の糸がぷつんと切れ、彼は高い悲鳴を上げながら、まっさかさまに、怪の地獄へと落ちて行きました。

「ああ!!」少年が叫びました。天使が、目を閉じました。

「ちがああううううう!!!!」

男は、薄闇の向こうに見えるはるか深い怪の地獄の底に向かって落ちていきながら、まだ叫んでいました。


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