天文台は、地下にありました。なぜなら地上に建てては、常に空を照らしている日の光の、眩しい気高さをおそれて、小さな星の光は身を隠してしまうからです。そこで星の運行を研究している魔法学者は、日の都のほど近く、山を越えて少し離れた平地の地下に、広い空洞があるのを見つけ、そこに魔法で金の天文台を造りました。
天文台に備えた水晶を磨いた大きなレンズの望遠鏡は、闇の次元を超えて簡単に空の星を透き見ることができました。魔法学者はそんな大きな魔法の天文台を、一人で造れるほど、かなり高い智と力を備えており、それゆえに高い誇りを持ち、氷のように冷たい横顔の奥に、愛の灯を、高い塔に処女を閉じ込めるように隠していました。
魔法学者は、女性でした。彼女は長い髪を丁寧に編みこみ、魔法学者のしるしである四角い帽子をかぶり、黒い道服を着ていました。彼女は、天文台の中にある大きな知能器のキーボードをカチカチと打ちながら、画面に映る小さな星を見ていました。それは太陽系をひそかに回っている、まだ誰も知らない名もない氷の小惑星でした。彼女はだいぶ前からその星が、妙な振動をして軌道を回っているのに気付き、それをずっと観察していました。
と、部屋の扉がぎいと開き、誰かが入ってきて、彼女に「先生」と声をかけました。振り向くと、彼女の助手であるひとりの青年が立っていました。彼は、首から下は普通の人間の男性のようでしたが、頭だけは狼のように耳を立てた白い犬の容をしていました。彼は普通に人間の言葉を話し、魔法学者に言いました。
「調査結果が出ました。星の振動の原因は、地球が発した惑星探査機でした。探査機に潜んでいた邪気が、たまたま軌道上に落ちて、星がその汚れをこわがっているのです」
それを聞いた魔法学者は、深々とため息をつき、言いました。
「やはりね。人類は愚かだわ」
「先生、それを言ってはおしまいです。確かに人類は、高い技術をあまりに無邪気に使いすぎますが、私たちの仕事は、星を調査することによって人類を助けることなのですから」
「無邪気にね。それはとても優しい言い方ね」
魔法学者は冷たく言い放ちました。すると犬の頭をした助手は、かすかに片目を歪め、彼女を見つめました。彼は思いました。女性とは、なんと不思議な存在だろう。母のように優しく全てを受け入れるかと思えば、物事を丸ごと冷たく切り捨てることもある。それでいて、その笑顔ときたら、花のように愛らしいのだ。
「このまま放っておいて、この星が汚れに触れてしまっては、地球の運行にも影響が出るわ。真空の精霊が軌道を清めているはずだけれど、それでも追い付かないほど、汚れてしまったのね」
「はい、影響は少ないとは思いますが、決していいことではありません。人類の運命にも、影をさしかける恐れがあります」
「太陽系の運行は、全て神がおやりなさっている。精霊でも清められないのなら、神がそれをおやりになるはず。だのになぜ、神は地球のために、それをおやりにならないのかしら」
犬の顔をした助手は、しばし魔法学者から目をそらして、それを言うべきかどうか考えました。しかし彼の口は彼のためらいを無視して開きました。
「それはたぶん、神が私たちにそれをやれと言っているせいではないでしょうか。神は私たちがその星を常に観察し、研究していることをご存知です。神は私たちなら、軌道を清められるだろうと、私たちにおっしゃっているのではないでしょうか」
すると魔法学者は、その答えは当然だというように驚きもせず立ち上がり、同じ部屋にある別の知能器の前に移りました。その知能器のキーボードの中の白いキーをカチリと打つと、目の前の中空に大きな天球儀の幻が現れました。透き通った天球儀のあちこちには、星座を表す紋章がたくさん描かれて、それぞれの色に美しく光っていました。魔法学者は、キーボードを右手でカチカチといじりながら、しばらく知能器を相手にゲームのようなことをして、天球儀の紋章を動かしたり、裏返したり、光の色を変えたりしていました。そして左手には細い光のペンを持ち、見えない紙に何かをしきりに書いていました。
犬の頭の青年は、魔法のち密な計算に熱中している魔法学者を見ると、ふとそこから姿を消し、どこかへ行ってしまいました。
よほど時間が経って、ようやく魔法学者は「ふむ」とうなずき、言いました。「確かにできないことはないわ。とても難しいけれど。神がこれをやれと私たちにおっしゃっているのなら、やるしかないわね」彼女がそう言ったとき、犬の頭の青年はもうそこに戻っていました。そして小さな白い紙を、魔法学者に差し出し、言いました。
「そのとおりだと思います。お役所からも、許可が出ました」魔法学者は許可証を受け取り、そこに押してある日照界の紋章を見つめながら、「あなたの気が利くことといったら、天才的ねえ」と、明るい笑顔を見せました。
魔法学者は息をふっと吐いて、手の中に厚い書類の束を出し、それを半分助手に渡しました。「これが呪文よ。今すぐに覚えてね」助手は受け取った書類を風のような速さでぱらぱらとめくり、光る目でそれを読んで行きました。そしてそれを三度繰り返した後、「はい、覚えました」と言って書類から目を離しました。そのとたん、書類は彼の手の中から消えました。
魔法学者は手に杖を出し、「では行きましょう、あまり時間はないわ」と言いました。そして杖を振って天文台の隅に次元のカーテンを作り、そこをくぐりました。犬の頭の青年も、その後に続きました。カーテンの向こうには、闇の中に星々が散らばる、宇宙空間がありました。魔法学者は目を光らせ、空間のあるところに、ひどく傷んだガラスの割れ目のようなものがあるのに気付きました。魔法学者は驚き、「計算以上に、ひどいわ」と言いました。
魔法学者と助手は、その割れ目の放つ汚れの悪臭に顔をゆがめながらも、そこに近づいていきました。そして事前に言い合わせた通り、声を合わせて長い呪文を歌い始めました。魔法学者は呪文に合わせて、杖を踊るように動かし、中空に数々の魔法の印と紋章を描いてゆきました。すると割れ目はそれに反応し、少しずつではありますが、小さくなってゆきました。しかし、半分ほどに割れ目が縮まると、どんなに呪文を歌っても、割れ目はそれ以上小さくならなくなりました。魔法学者は焦りました。彼女の計算では、長い呪文の流れの六割程度のところで、汚れはほとんどなくなるはずでした。しかし、呪文がその六割を過ぎて、七割、八割のところまで来ても、割れ目は一切反応せず、暗い口を中空に開けたまま、そこにありました。
呪文の九割を読み終えた時、魔法学者は、星が、軌道をわたって、だんだんとこちらに近づいてくるのに気付きました。いけない、と彼女は思いました。このままでは星が汚れに触れ、太陽系での役目を放棄してしまう恐れがある。危機を感じた彼女は素早く頭の中で計算し、ある魔法を行うことを瞬時に決めました。助手は、隣にいる魔法学者が、突然、予定とは違う呪文を唱え始めたのに気付き、叫びました。
「先生!いけません!それをやっては!!」しかしもう呪文は放たれた後でした。その呪文が割れ目の中に飛び込んだと同時に、割れ目はがしゃりとしまり、一瞬にして汚れは消えました。しかし同時に、次元の衝撃からくる反動が、絶対零度の冷酷な刃の破裂となって彼女に襲いかかり、彼女はその衝撃で自分の杖と腕を一瞬にして砕かれました。
自らの力を超える魔法を使い、両腕と杖をいっぺんに失い、それゆえに魔法の力をも全て失った魔法学者は、疲れ果て、力なく宇宙空間に浮かびました。助手は、飛びつくように彼女の体を抱き上げ、涙を流しながら言いました。
「なぜ、このようなことを!」彼がそれを言うと同時に、小さな星は無事に汚れの消えた軌道を渡り、通り過ぎてゆきました。魔法学者は助手の腕に抱きかかえられながら、言いました。
「愚かねえ、わたしも。愛には、かなわないわ」
助手は涙を流しながら、彼女を抱きしめ、そのままカーテンをくぐり、元の天文台へと戻りました。彼は彼女を天文台の隅の長椅子の上に寝かせると、ひとしきりそのそばで、泣き声をあげていました。
「なぜ、なぜ、神はこのようなことを…!」助手が泣きながら言う言葉に、魔法学者はやさしく答えました。「心配しないで、腕はまた再生するわ。時間はかかるけれど。魔法の力も、だんだんと戻ってくる。神の御心は、わかっているの。私たちは時に、愛を全うするために、自らの存在を賭けて挑まねばならない。そうして、今の自分を超えた自分の力が自分のどこにあるかということを、神に教えられるのよ」
魔法学者の言葉に、助手は頭を抱え、耐えきれぬというように、激しい嗚咽をあげました。
「愛は、愛は、このようにも惨いことを、人にさせるものですか!」
「私は自分の意志でやったの。誰に命じられたのでもないわ。愛を責めてはだめよ。あなたのためにならない。それよりも、助けてちょうだい。疲れたから、少しお水が欲しいの」
その言葉に助手はすぐに反応し、右手の魔法で、清い水の入ったガラスのコップを出し、腕のない魔法学者を助けて、それを飲ませました。
「ありがとう。おいしいわ。誰かに優しくしてもらうのは、ずいぶんとひさしぶりね」
魔法学者は、少女のように微笑み、ほんとうにうれしそうな顔で、助手を見つめました。助手もまた、涙を流しながら、笑ってうなずきました。
天文台の中で、二人はしばし沈黙の休息をともにし、ひそやかにも清らかな愛の、耳には聞こえぬ声を、交わしていました。