ある日、月のお役所の、ある一室では、大騒ぎが起こっていました。
「ちょっと待て!ちょっと待て!なんだこの紙の山は!」役人の一人が大声をあげました。すると別の役人が悲鳴を上げるように言いました。「印刷機が勝手に動いてるんですよ! スイッチ押しても止まらないんです!」
「うわ、うわ、うわ、紙が紙が紙が、印刷機に吸い込まれる。誰か魔法使ってるんですか?」
「誰もそんな魔法使ってませんよ!」
中でただ一人の女性の役人が、紙の束に書かれた文字を読みながら言いました。
「ちょっと待ってこれ何? 怪の分類表だわ。全百五十二種、ムカデに蜘蛛にネズミに蝙蝠にゴキブリに犬、……犬? 犬の怪なんているの?!」
「それよりこっちを何とかしてください、指が、指が止まらないんですう!」中で一番若い役人が、木製の知能器のキーボードを猛スピードでたたきながら、言いました。彼の頭上では、青い水晶が、宙でくるくる回りながら青い光で彼を照らしていました。
「うわ、これのことだったのか!」ある役人が紙に書いてある文字を読みながら言いました。「なんだ?」と別の役人が問うと、彼は言いました。「伝説ですよ。昔ある聖者が、船に乗って地球に行って、猿の姿をした精霊と一緒に、大きなムカデの怪を倒したっていう」「ああ、そりゃ史実だ。実際大昔にそういうことがあったんだよ!」
「班長、班長、字が、字が逃げます!」「なあにい?!」「ほら、ほら!」見ると山のように積み重なった書類の中から、文字が行列をなし、ちらちら青く光りながら、紙を離れて虫のように宙に泳ぎ出していました。
役人たちはそれぞれに呪文を叫び、文字を捕まえて紙に戻そうとしましたが、呪文の言葉が奇妙に滑り、文字たちは全く従いませんでした。
「これは大変だ、大変だぞ」班長は室内の大騒ぎを見渡しながら言いました。
「班長! 彼の様子がおかしいです!」その声に、班長は狂ったようにキーボードを打っている若い役人を見ました。彼の目が異様に光っていました。髪もざわざわ伸びて肌の色も変わり、口のはたから白い牙が見え始めていました。「いかん、変化(へんげ)の病を起こしてる」「このままでは大変なことになりますよ」「どうにかしなきゃ」「だめだ、もうだめだ、誰か、誰か、誰でもいいから聖者様を呼んで来い!!」班長のその声と同時に、女性の役人がふっと姿を消しました。そして数分後、一人の小柄な老人の姿をした聖者をつれて、現れました。
聖者は部屋の様子を見ると、何も言わずに、光を放ちながら回っている青い石に近づき、ひとこと呪文を唱えると、杖でとんと石をたたきました。すると青い石の光が消え、すとんと若い役人の背中に落ちました。同時に、若い役人はキーボードの上に顔を落として倒れました。聖者は指で古い紋章を宙に描き、口笛の歌を一節吹きました。すると変化を起こした役人も元の姿に戻り、部屋中で泳いでいた文字たちも一斉に紙に戻りました。印刷機も止まり、さっきまでの騒ぎが嘘だったかのように、部屋は静まりかえりました。
騒ぎを聞きつけて、他の部署の役人が何人か集まってきました。
「何が起こったんだ? 一体」誰かが聞くと、「いや、何と言っていいか」班長は事情を説明しました。それによると、金の文字の最初の一画が案外簡単に読め、それが青い石の使い方と文字の訳し方、それを起動する呪文であったということでした。
「それを実際にやってみると、こうなったんです。お騒がせして申し訳ありません」
「いや、みな無事であったからいいが、それにしてもすごいな、この書類の量は」
すると、部屋の隅に座っていた聖者が、くっくっと笑い始めました。聖者は、女性のようにやさしい声で、言いました。「書類の中のどれかに、多分青い石の制御の仕方が書いてあるはずだ。魔法で探しなさい」すると女性の役人が、はい、と言って、口笛を吹きました。と、部屋中を埋め尽くす書類の山から紙が一枚飛び出し、彼女の手の中にするりと入ってきました。
「ああ、ほんとだ、制御の呪文が書いてある」彼女は頭を抱え、床にへたりこみました。
騒ぎが収まり、班員以外の役人はみな自分の部署に帰っていきました。聖者もみなに挨拶し、部屋を出ました。と、廊下に散らばった書類の中に、一枚だけ、奇妙に光っているものがありました。聖者はその紙をかすかな口笛で呼び、それを手にして読みました。そこにはただ一言、こう書いてありました。
「もうすぐ彼が来る」
聖者は、一瞬眼光を鋭くし、その文字を逃げ出さないように紙に縛りつけました。そして静かに紙を折りたたみ、一つの小さな白い石に変えて、それを口に入れ、飲みこみました。