その夜、天の国は、弓張月でございました。いつもの花のお庭で、天女たちが今宵の最後の曲を奏でていました。鈴を振る天女がその最後の旋律の始まりを告げ、竜笛がそれを追い、光に導かれたかすかな風に流されるまま、皆がそれぞれの音の和に酔うて流れるように指を動かし、美しい幸福を光の中に描き出しました。やがて琴が最後の音をはじき、それが風の中に消えて聞こえなくなるまで、彼女たちはじっと動かず、静かな歓喜の余韻に浸っていました。
一拍の沈黙があり、皆はふと目を覚ましたかのようにそれぞれの楽器から口や手を離しました。そして天女たちはさわりとさわめき、皆の目が一斉に、一人の天女の方へと注がれました。その天女の名は菜花の君といい、奏楽の天女たちの中でも最も若い天女でした。菜花の君は、震えながら、竜笛を口から離し、目をひざに落としました。梅花の君が、皆をたしなめようとしたちょうどその時、王様がお宮からお出になり、手をぱちぱちと打ちながら、今宵の奏楽はまことに素晴らしかったと、皆をほめたたえました。天女たちは頬を染めながら無邪気にそれを喜び、王様に深くお辞儀をすると、また、それぞれの持つ別の仕事の元へと、帰ってゆきました。
皆がいなくなった後、梅花の君だけは後に残り、いつものように何かとりおとしはないかと花の庭を見まわしていました。すると、王様が梅花の君を呼び止め、何事かを、彼女にささやきました。
その頃、菜花の君は、ひとり自分の仕事には戻らず、天の国の端にある銀の川のほとりに降り、竜笛を口にして吹き始めました。今宵の奏楽において、彼女は三度も音を間違い、そのたびに他の天女の奏でる音に助けてもらっていました。その自分のふがいなさが苦しく、彼女は空を突くように、高い音を鳴らしました。
「菜花の君」ふと、背後から呼ぶ声がして、菜花の君は振り向きました。するといつしか、そこに梅花の君がいらっしゃり、微笑んで彼女を見つめていました。梅花の君は、まだ童女の面影の残る菜花の君のお顔に、母のような慈愛を感じながら、やさしくおっしゃいました。「今宵はお花のお世話はなさらないのですか?」すると菜花の君の目から涙が流れ、今宵の奏楽の失敗を悔いていることを、素直に告白しました。梅花の君はおっしゃいました。
「天の国の愛と幸福をたたえる奏楽の天女が、音を間違えるなど、滅多にないこと。菜花の君、本当のことをおっしゃってください。もしかしたら、どこかお心のお具合でも悪いのではないですか?」
すると菜花の君は、くっと唇をかみしめ、目を伏せて少し顔をそむけました。まだ幼さの残る頬が、かすかに震えていました。梅花の君は懐から小さな薬入れを取り出し、その中から小さな白珠を一つ、手のひらの上に落としました。「蓮花の君から、いただいてまいりました」梅花の君は言いながら、それを菜花の君に差し出しました。菜花の君は驚いてかぶりを振り、言いました。「いけませんわ。それは王様のためのお薬。わたしなどがいただいては…」
「その王様が、ぜひあなたに、これをさしあげてくれと、おっしゃったのですよ」「王様が?」「はい、そのとおりです」
菜花の君はしばしためらった後、王様のために深く頭を下げ、その白珠をありがたくいただきました。彼女はそれを口に入れると、奥歯でこりりとそれを噛みました。するとえも言われぬ澄んだ香りが全身をめぐり、胸に空いた小さなうつろを豊かに温かく埋めてくれるような気がしました。菜花の君はしばしその感覚の中に浸ったかと思うと、突然たまらぬというように声をあげ、岸に膝をついて泣き始めました。
「わからぬのです。わからぬのです。国は、こんなにも豊かで、平和で、幸福に満ちているというのに、なぜか、なぜか、わたしは、さびしくてたまらないのです。なにかが、なにかが、足らぬような。なにか、なにか、忘れているような…」菜花の君は笛を握りしめると、訴えるような目で梅花の君を見上げました。
「天の国の幸福をほめたたえるためにある奏楽の天女が、さびしいなどとどうして言えましょう。わたしは、わたしは…」そうして涙を流し続ける彼女に、梅花の君は駆け寄ってやさしく抱きしめました。菜花の君は姉の君の胸に素直に甘え、その腕の中で細い嗚咽をあげて泣き続けました。
(この方も、何かを感じていらっしゃるのだわ)梅花の君は思いながら、やさしく菜花の君の背中をなでました。そのときでした。
銀の川の岸辺から、少し離れたところにある小さな州に、一羽の白い鶴が、音もなく静かに、ひらりと舞い降りました。梅花の君はそれを見て、一瞬、激しい衝撃を受け、菜花の君を抱いたまま石のように固まりました。そして、自分の中に奔馬のように駆けだそうとする感情を感じたかと思うと彼女は瞬時にそれを手綱でしばりあげました。それでも心が言うことを聞かぬとわかると、彼女は一寸の迷いもなく、それを自らの手で引きちぎり、投げ捨てました。そうして彼女は、何もなかったかのように美しく微笑み、菜花の君にわからないように、白い鶴に向かって、かすかに頭を下げました。
鶴はしばし、梅花の君の顔を見つめたかと思うと、白い翼を広げ、ゆらりと姿を変えました。そしていつしか、小さな州の上には、なつかしい真の王様が、一本の若木のように凛々しく、まっすぐに立っていらっしゃいました。王様は、激しくも気高い梅花の君の心を、悲哀にも似た澄み渡る瞳で受け止め、かすかに微笑みました。そして彼女の心の中にしか聞こえぬ声でおっしゃいました。(梅花の君よ。冷酷な冬の厳しい刃さえ恐れぬ、美しい花の君よ)梅花の君はかすかにうなずき、彼女もまた、王様にしか聞こえぬ心の声で、おっしゃいました。(おやさしいお方。すべてに、おやさしいお方)。
王様と梅花の君は、しばし静かに見つめあいました。そして王様は目を閉じ、かすかな息をつくと、再び目を開け、この上なく愛に満ちた瞳で梅花の君を見、おっしゃいました。(みなのことを、たのむ)。すると梅花の君は、小さくうなずき、目を伏せて頭を下げ、(承知いたしましてございます)とおっしゃいました。そして彼女がまた目をあげたとき、もうそこに王様の姿はなく、代わりにまた白い鶴が、細い一本の脚を州に刺して、静かに立っていました。
梅花の君は微笑みながら菜花の君の背中をたたき、おっしゃいました。
「菜花の君、ほら、ごらんなさい」
すると、菜花の君は顔をあげ、梅花の君の指さす方を見て、驚きの声をあげました。「まあ、なんとすばらしい鶴!」彼女は驚きのあまり、梅花の君の胸を離れ、岸辺に駆け寄りました。鶴は彼女の突然の動作に驚くこともなく、ただじっと州に立っていました。
「あれが何なのか、ご存知ですか?」梅花の君が問うと、菜花の君はすぐに答えました。「もちろんですわ。あれは、地球上に今生きる、善き人の夢の化身なのです。地球の生に苦しむ善き人が、夢で鳥となり、ひととき安らうため、この国の岸を訪れるのです」
「そう。昔は、それはたくさんの鳥が、ここを訪れたものでした。シギやチドリ、カモメなど…」
「ツバメやスズメ、ムクドリやハトなども、見ましたわ。でも最近ではとんと見なくなりました。きっと、今の地球の生が、苦しすぎるせいでしょう…」
菜花の君は、さっきまでの涙を忘れ、足指を水に浸すほど川ににじりより、笛に唇をつけ、強く息を笛に吹き込みました。笛の音は高く響き、岸辺の上を吹く風を揺り動かし、花がそよ風に揺れるような旋律に笛を導き始めました。菜花の君は、ただ純真に、岸辺に訪れた人の魂を、なぐさめたいだけでした。笛の音に、鶴は一声、こう、と高く鳴いて答え、しばし耳を傾けたかと思うと、やがて白い翼を大きく広げ、空高く飛び上がりました。
梅花の君は、鶴が闇空の向こうに消えて見えなくなるまで、じっと見守っていました。そして菜花の君は、目を閉じて、ただ一心に、笛を吹いていました。