「ずいぶんと広いですねえ。…予想以上だ」
一人の日照界の役人が、角ばった高い岩山のてっぺんに立って、眼下に見える風景を見渡しながら、言いました。そこには、はるか向こうの地平線まで、果てもなく続く、広い荒野がありました。石と岩と泥砂ばかりの茶色い大地がどこまでも敷かれ、所々に枯れかけた草むらや、刺だらけのイバラの茂みや、奇妙に歪んだ形のサボテンの行列などがありました。空は灰色で、月は白い薄紙で包んだミルク飴のようでした。
後ろにいた月の世の役人が、書類を手に風景を見回しながら、言いました。
「…ここまで規模が大きくなるとは、わたしたちも思っていませんでした。これは少々、大変なことになりそうだな」
「この地獄が完成するまで、どれくらいかかるのですか?」日照界の役人が振り向きながら尋ねました。すると月の世の役人は書類を、眉を歪めて見ながら、答えました。
「…二年、というところじゃないでしょうか。これも、地球浄化計画の一環なもので、相当、用意周到に、細部にわたるまで丹念に作られるそうです。何せ、ここに落ちる人間たちは、とんでもないことになりますから」
日照界の役人は腕を組んで、眼下の荒野を見渡すと、苦しそうに目を歪めながら、ため息をつき、首を振りました。その足元では、ふと小さな丸い石が鼠のように動き始め、彼らより少し後方の、棒状に立ちあがった奇妙な形の岩の上に登って、そのてっぺんでくるくる回ったかと思うと、ぽう、と鳥のような声をあげました。よく見ると、眼下の荒野でも、石や岩が、鼠や兎や山猫のように、自分の位置を探して、ころころと動きまわっていました。時々、笛のように鳴いて、他の石を呼び、荒野の上に並んで、星座のような印を描くものもありました。
「…むごいな。まあ地獄とはもともとそういうものではありますが…、しかし、これからどういう創造がなされてゆくのだろう。花や木や鳥はここには来ないのだろうか」日照界の役人が声に苦悩を混ぜながら言うと、月の世の役人が苦笑しながら言いました。
「…きてくれればいいですが、彼らは花や木や鳥なんぞ、目もくれないでしょうな。彼らにとっては、いても何の意味もないものだ」
「それは、そうかもしれません…、しかし花や木や鳥は罪びとを必ず愛してくれる。それが救いになることもある…」
月の夜の役人は、右手でさっと胸をこすると、手元の書類を消しました。そして自分の顔をなでながら、ゆっくりと眼下の荒野を見渡すと、かすかに、ああ、と聞こえるため息をついて、言いました。
「日照界では、もうすでに印が現れ始めている人がいるそうですね」
「…ああ、ええ、そうです。ほおや額や、特定の位置に、妙なアザができ始めている。ことこの件に関しては、日照界の男性も自分には関係ないと言ってはいられません。これは何せ、人類の男性すべての、罪ですから」
「ええ、女性を、軽んじすぎてきた。軽んじるなどというものではない。まるで人間とは思わず、自分の欲望を満たすためだけの肉塊のようにさえ扱ってきた。女性の苦しみはあまりにひどかった。そして男性は女性を惨く辱めてきた罪を、今まで一度も払ったこともなく、女性に謝罪したこともない」
「そうです。それです。だからこのたび、人間の男性は神によって試験を課されるのです。女性に、今までやってきたことの全てについて、謝罪することができるかと、人間の男性は神に試される。女に頭を下げ、謝ることができるかと」
「そしてその問いにNOといえば、この地獄に来ることになる。…むごい地獄だ。これを人間の男性が耐えることができるかと言ったら、正直、とても無理ではないでしょうか」
「耐えることができても、三日あたりが限度でしょうね。しかし、どんなに短い人でも、百年はここにいなければならない。そしてその間、彼らは性的飢餓感にもだえ苦しみながら、この荒野の泥にまみれて這いつくばることになる」
日照界の役人と月の世の役人は、顔を見合わせると、黙ってうなずきあい、指を回して一息風を起こすと、空に飛び上がり、岩山から下りて荒野に降り立ちました。そしてしばらくの間、荒野を歩き回り、要所要所を見回しながら、それぞれに、気付いたことを帳面にかきとめたり、キーボードに打ち込んだりしていました。その間も、石や岩はあちこちを転がりながら、所々に奇妙な石の印を作ったり、ピラミッドのような小山を作ったり、珍妙な迷路や複雑な紋章を作ったりしていました。
月の世の役人は、帳面を繰りながら、荒野の中に生えている、小さなイバラの茂みに、片手を差し込みました。鋭い刺が役人の手を傷つけましたが、役人は特に気にもせずに、イバラの茂みを少しかきわけて、中を覗き込みました。そのとき、イバラの根元から、突然小さな泥の塊を投げつけられたかのような、気味の悪い声が聞こえてきたのです。
「思い知るがいいわ」
月の世の役人は驚いて、思わず、汚いものをぬぐうように顔をなで、清めの呪文を唱えました。それは低い女性の声でした。役人は、刺に手を痛く刺されながらも、茂みをかきわけて、イバラの奥の根元の方をのぞき見ました。するとそこに、血のように赤い小さな女の唇があったのです。役人は声をのみ、あわてて帳面を取り、銀のペンを出して呪文を唱え、帳面にその唇の写真を焼き込みました。唇は花弁のようにひらひらと震えながら、思い知るがいい、思い知るがいい、と繰り返しました。月の世の役人がしばし呆然とその唇を見ていると、その声に気付いた日照界の役人がキーボードをかかえて、近寄ってきました。その間も、女の声は、まるでネコ科の猛獣の唸り声のように、繰り返すのです。
「思い知るがいいわ、思い知るがいいわ。どんなに、どんなに苦しかったか、つらかったか。全部、全部、思い知るがいいわ」
近くに寄ってきた日照界の役人も、しばし唇を見詰めながら、それを茫然と聞いていました。やがて唇はにやりと口の端をゆがめ、ははは、と声をあげて嘲笑いはじめました。彼ら二人は、声もないまま顔を見合わせました。そして彼らは再び荒野を歩き始め、あちこちにあるイバラや草の茂みや、奇妙な形のサボテンなどに、手や足で刺激したり、息をふきかけてみたりしました。すると草むらの奥やサボテンの根元に、花の咲くように赤や薄紅やオレンジ色の女の唇が現れ、それらはみな、女のうらみがましい声で、風に毒を振りまくように言うのでした。
「思い知るがいい。思い知るがいい。どんなに、どんなに、恥ずかしかったか、痛かったか、辛かったか、怖かったか。おまえたたちが、わたしたちに、何をしたのか、思い知るがいい」
役人たちは、目をとじ、地に膝をついて、しばし神に祈りを捧げました。そしてふたりとも、得られた情報をきちんと帳面やキーボードに放り込むと、片方は目を閉じて上を見あげほおに涙を一筋流し、片方は両手で顔をおおって、口を噛みしめて嗚咽をあげそうになるのを必死にこらえていました。
「…むごい。それが自らのなしたことの結果とはいえ、男は、性的興奮状態が持続したまま、ここに放り込まれる。そして長い月日をこの荒野で女性の声にののしられながら、性的飢餓感に苦悶していなければならない」月の夜の役人が言いました。「どう考えても、人間の男には耐えられないでしょう。七日もてばいいほうだ。必ず、死ぬか、狂うか、してしまう」日照界の役人が答えました。すると月の世の役人は言いました。「いや、そこは、修羅地獄と同じで、どうやっても死ねないようにされるらしいです。それに、死んでも性的飢餓感からは逃れられない。一層苦しいことになる」「女性を軽んじて、辱め続け、一切の負債を払わずにきた結果がこれか」「いや、正確には、結果の一つです。男の苦しみは、ほかにもまだある」
日照界の役人は、キーボードをカードに戻してポケットにしまうと、こめかみをもみながら、しばし考え込み、言いました。
「これは、男性たちに、教えておいたほうがいいでしょう。試験がどういう形で彼らにふりかかってくるかは、わたしたちに知ることはできはないが、もし試験に失敗したら、どういうところに落ちるかは、教えておいたほうがいい」
「ええ、わたしも、そうは思うんですが…。気になるのはこの規模だ。こんな広い地獄は月の世にも滅多にない。一体どれだけの男が、ここに落ちるのでしょう」
「確かに、広すぎる。実際にこの地獄が機能し始めたら、どういうことになるか、予測もできない」
そのとき、ふと、月の世の役人が目をあげて月を見、「おお」と声をあげました。
「…ごらんなさい。月が、衣を脱ぎますよ」
「ほお?」
見てみると、さっきまで薄紙をまとっていたようだった月が、その白い薄紙を風にさらりと脱がされ、その奥にある本当の色を見せたのです。それを見た日照界の役人は、驚いて思わず顔を背け、小さく呪文を唱えて目を清めたあと、急いで自分の記憶の中からその月の映像を消しました。月の夜の役人がねぎらうように云いました。
「どうしました。気分を悪くされましたか」
「いや、少し」
「わたしたちは慣れているので、それほどのショックは受けないが、確かに、気持ちのいいものではありませんね」
言いながら、月の世の役人は、もう一度月を見上げました。その月は、ほんのりと薄桃色をしていて、まるで女性のやわ肌のようになまめかしく、やわらかく見えたのです。そして風には女の肌の匂やかな香りがかすかに混ざり、まるで薄絹のようにふわりと、なまあたたかく吹くのでした。月の世の役人がその月を見ながら、帳面に何事かを記すと、月はやがて、もう一度、白い薄紙をさらりと身にまとい、元のミルク飴のような姿に戻りました。風もまた、元の荒野の風に戻りました。
荒野を並んで歩きながら、役人たちは語り合いました。
「この地獄が完成するまで、二年あるとおっしゃいましたね」日照界の役人が言うと、月の世の役人が「ええ」と答えました。日照界の役人は、月を背に荒野をまっすぐに進みながら言いました。「その間に、男性たちに、できるだけ女性に謝罪をするように、教え込んでおきましょう。でないと、ここはむごすぎる」
月の世の役人が彼と肩を並べて歩きながら言いました。「そうですね。我々にできる努力はしておいた方がいいでしょう。わたしも思います。男があれだけのことを女にしておいて、一言も謝らないのは、人間と言えません。男は、言わねばならない。やらねばならない」
「ええ、そのとおり」
日照界の役人が、口から石を吐くように厳しくそう言った時、ふと、彼の足が、小さな草むらを踏みました。するとまた、草むらの奥に花弁のように小さな薄紅の唇が咲き、微笑みの形をして、少女のような声で、冷たく言うのでした。
「絶対に、許さないわ」