近所の空き地の、フウセンカズラです。その空き地は駐車場になっているのですが、隅の草むらに、小さな星屑のたまりのように群れています。青い風船のような実もとても愛らしくて、見るだけで涼しくなります。
小さな白い花に目を近付けると、とても清らかな声で何かをささやいてくれているような気がします。
花とお話しをしたいなと思うのですが、今日は、あまりしたいと思いません。何気なくそばにいって、ほっとするようなきらめきをもらってくる。それだけで今はいいような気がする。
お花と話をするのにも、けっこう力がいるのですよ。心を開いて、お花と話をできるフィールドを、つくるのです。そこでは、お花とわたしはほとんど対等の立場になって、いろんな話ができる。花はいろいろなことを教えてくれる。けれども、花と人間はやっぱり違いますから、それが少し疲れることもあるのです。そんなときは、何も話をしないで、花の美しさに甘えても、花は怒ったりしないでしょう。
いろいろなことに疲れはてて、じっとしているとき、麻痺して動かない心の中を、いろいろな感情の影がうごめくのを見ることがあります。ほんとうのわたし自身は、真ん中の少し奥まったところにいて、自分の心に映る、いろいろな影の踊るのをみているのです。そして、自分の疲れている理由がわかったりする。
その影は、ふらふらと泳ぎながら、何もかもを悪いことにしたいと、いろいろな悲しいささやきを繰り返すのです。おまえは悪いやつなんだ、なにもかもいやなことになるよ、なんでもいたいことになるよ。そういうことを繰り返している。そういうものが、自分の心の中にうごめいている。
わたしが疲れているのは、影のささやきがひどいからではなくて、おどろおどろしい影達が、とても悲しんでいること。そして疲れ果てていること。もういやだと思っているのは、わたしではなく、影だということ。だからわたしも、疲れ果ててしまうのだということ。
そういう心の影達は、だれの心にも潜んでいるものですが、それはいつも、人間を馬鹿にして、いやなことをします。それで人間は、とても自分がいやになって、生きるのが苦しくなって、いやなことをする人間になってしまうことが、よくあるのです。けれども、最近では人間も強くなって、この心の影達を、自分の中の本当の自分と、切り離して考えることができるようになった。
これはおかしいぞ。自分の感情だと思っていたけど、ちがうみたいだ。自分をいやだと、自分の中でいうやつは、どうも自分ではないみたいだぞ。
そう、それは自分ではない。人間に嫉妬して、人間をいやなものにしようとしている、心の世界の影なのです。影達は、自分の正体が人間にばれてしまったので、とても悲しんでいるのです。苦しんでいるのです。
正体がばれてしまっても、影達は、人間から離れていくことができません。どうしても、人間をいやなものにしたいのに、できないから、もっとひどいことをしようとして、どうしようもなく、自分たちの仕業だとばれてしまって、もっと悲しくなる。それで際限なくいやなことをしてしまって、もう疲れ果ててしまって、泣きながら、ふらふらと踊っている。
どうしてなんだ。なんでなんだ。どうしてなんだ。いたいよ…
最近、わたしの写真の中の花が、悲しげな顔をしているのは、影達の苦しみがわかるからです。わたしが、花と話をするのに困難を感じるのは、影達が、花から逃げたがっているからです。なぜなら、花は、影たちがどうしてそんなことになったか、みんな知っているからなのです。
すべてのことは、みな、自分たちのやったことの結末なのですが、それがあまりに苦しいのは、あまりに愚かなことだったからです。みんなが、愛してくれていたのに、それをいやだといって、馬鹿にして、逃げた結果だったからです。
愛してると言われたら、ほんとうにうれしいと、素直に答えたらよかったのです。
それだけで、なにもかもはよくなったのに。
べつにいいんだよという顔をして、何もかも馬鹿なことだと、背を向けて行ってしまう影達の向うところが、ほんとうに苦しい荒野だと、花は知っているから。
だから悲しそうな顔をしているのです。