祖父が中年に差しかかったある夜のこと、家業の小さな製材所から疲れて帰宅し、そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。
それが、ふと頭を上げると、向こうの部屋の隅に若い女が立っている。
幽霊かと思ったが、こちらを怖がらせる様子もない。
そのうちに女の声が頭の中に響いた。
なぜそんなに悲しそうな顔をしているのか。
「すべてがうまく行かなくて。」
女はじっとこちらを見ながらまた頭の中で言った。
一生懸命やるといい。私が見ている。
女がそのまま消えてしまうのではないかと焦って祖父は尋ねた。
「アンタはどこで見ているのだ。」
女は答えた。
私はこの家の中にいる。しっかりやりなさい。
それからというもの、祖父はさらに身を粉にして働いた。
物事は良い方向に進んだ。
製材所はめきめき大きくなり、製品の評判も上がった。
客は平日・休日関係なく先を争って押しかけた。
祖父は莫大な財産を築いた。
日本赤十字社へ多額の寄付を行ない、勲章を得た。
金で勲章を買ったとやっかみから陰口をたたく者も多かったが、彼は気にせず、大きくなった身代とは裏腹に、古い小さな家に住み続けた。
またそれをケチだからだと言う者もいた。
祖父が亡くなる前日、私は入院先の特別病室に呼び出された。
彼は言った。
お前の父母はオレの気性を理解しようとせず、長く疎遠になっているが、一方でオレの財産の恩恵には十分過ぎるほど浴している。
のっけからの毒舌に私はたじろいだ。
祖父は構わず続けた。
お前に頼みがある。
家の仏壇下の戸袋に、オレが叙勲された際、肖像画家に依頼して描いてもらった絵が二枚入っている。
オレの絵は捨てて構わない。
もう一枚は昔オレが会った女の絵だ。
そして彼は先に書いた経緯を話してくれた。
その絵を、お前が死ぬまで保管してほしいのだ。
一族の命運がかかっているものだから、必ず大事にしてくれ、頼む頼む。
翌日、一代で財を成し、立志伝中のひとと称された祖父は亡くなり、父母は涙も見せずに一切を淡々と片付けた。
私は依頼のとおり、祖父の家を訪ねた。
金紗の袋に入った二枚の絵が確かにあった。
一枚は、必要以上に難しい表情をした祖父だった。
もう一枚は―私は背筋が凍りついた。
額に入った古ぼけたカンバスには、何も描かれていなかった。
私は頭の上を何かが飛び去ったような気配を感じていた。