日本海海戦は日露戦争末期の明治38年(1905年)、日本海軍の連合艦隊と、(旅順およびウラジオストックを拠点とする)ロシア海軍太平洋艦隊への増強として派遣されたバルチック艦隊が対馬沖で戦い、連合艦隊はロシア海軍を撃滅して戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という、世界海戦史上稀な一方的勝利となった。
<戦力>
○連合艦隊:司令長官東郷平八郎中将
戦艦4隻、巡洋艦20隻、その他約70隻
○バルチック艦隊:司令長官ロジェストウィンスキー少将
戦艦8隻、巡洋艦10隻、その他約20隻
(ロシア太平洋艦隊:戦艦7隻、巡洋艦12隻、駆逐艦等48隻)
<海戦>
5月27日13:55、戦闘開始。
Z旗(「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」)を旗艦三笠が掲揚した連合艦隊は距離8000メートルで取舵回頭し、バルチック艦隊をT字戦法により左から圧迫した。
14:10、距離6000メートルで三笠が発砲、バルチック艦隊は隊列を乱し、各方向に逃れた。
夜間には日本の駆逐隊、水雷艇隊による徹底的な水雷攻撃が行われた。
翌28日午前5時ごろ、欝陵島南方で駆逐艦ベトウイが降伏旗を掲げたため、重傷を負い、沈没した旗艦から移乗していたロジェストウィンスキー長官乗艦のまま拿捕した。
<結果>
○バルチック艦隊
沈没21隻、拿捕6隻、ウラジオストックへ入港2隻、他国へ入港して抑留されたもの6隻
戦死5800名、捕虜6100名、抑留2000名
○連合艦隊
沈没3隻(水雷艇)、戦死117名
日本海海戦の関連書籍を、僕は時々読み返す。
雄々しい戦記物として読むのではない。
なぜバルチック艦隊は敗れたのか、なぜ連合艦隊は完勝できたのか、その後の日本がどうなったのかを、思い起こすためだ。
日露戦争後、東郷の神格化が意図的に行なわれ、薄氷を踏むようにして得られた勝利は天佑と神助によるものとされ、これを成功体験とした軍部は戦艦対戦艦の海戦に勝利すべく「大艦巨砲主義」を推し進めて行く。
その結果、40年後の昭和20年(1945年)8月、多くの将兵と国民を犠牲にして、連合艦隊は消滅するのだ。