電話の最後にビギンの「三線の花」のCDをかけていっしょに歌った。かつて彼女の母親がお世話になっていた施設でオルガンでこの曲を弾いて歌ったのだという。
先輩のMさんがたまたまこちらに電話してくるのは、石川啄木のかつての思いに幾分重なるのだろうと、理解している。「ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの ひとごみのなかに そをききにゆく」(『一握の砂』)
というのは、沖縄県人会もあるカリフォルニアだけれども、Mさんは日本の古典文学を愛し、アメリカの大学で博士号を取得し、自ら古典を翻訳し、ドイツ語も堪能な方である。米軍人と結婚してアメリカにやってきた女性たちとは、「ちょっと話があわなくて、文学の話など、できないしね」は、彼女の率直な思いに違いない。
先輩の彼女は、アメリカ留学時代に知り合った。あれこれの年月の中で、秀逸な彼女のアメリカ生活と沖縄や京都、東北への旅などを含た人生の経緯は、英語に翻訳された古典と自らのエッセイに表出されている。弁護士で法学部教授だったパートナーがお隣にいることは、Mさんにとってとても幸運だったのかもしれない。フリッツさんはドイツ系アメリカ人で、退職されてからは悠々自適な生活を維持している。人生の晩節を汚す著名人の方々も見受けられが、表現者として、彼女は自らの思念を存分に今まとめている。いつでもエールを送りたい女性だ。
「故郷は遠くにあって思うもの」と電話での対話の中に出てきた。彼女の「我が故郷」についてのエッセイは良かった。それは日本語で書いていた。故郷への思いは動物の帰巣本能に類似するものに思えたのだが、なぜか、もっと掘り下げてもいいね、と何年前か、名護の「やまぶき」で読んでくれた時、感じたことだった。いつもアメリカと沖縄の中間の太平洋の真ん中に魂が宙ぶらりんにあるのかな、などと思ったのだが~。Mさんはしっかり自らも掘って、それをことばで形にしている。
「君は君、我は我だけど仲良し」と彼女は話した。友達との小さな齟齬は許してあげなさいよ、がアドバイスだった。
A friend in need is a friend indeed.
(まさかのときの友が真の友)
(まさかのときの友が真の友)
When a friend of yours is in trouble and in need of help, are you more than happy to lend a helping hand? If so, you are “a friend in need” for that friend in need indeed.
(あなたの友人が困っていて助けが必要なら、喜んで手を差し伸べますか。そうするなら、確かにあなたはその困っている友の「まさかのときの友」ですね。)
(あなたの友人が困っていて助けが必要なら、喜んで手を差し伸べますか。そうするなら、確かにあなたはその困っている友の「まさかのときの友」ですね。)
小林秀雄集をまた読み直さなければ、と切に思う。文学者、芸術家の覚悟と語り、そして西行と実朝の歌を諳んじてくれたMさんの思いを汲み取りたい。
古い日本文学全集の一冊である。
昨今、ゆっくり本を読む時間が取れなくなった。詩に関してはなぜか構想が浮かんでいる。
そう言えば、先日、同じ詩誌『あすら』同人の喜納昌吉 - Wikipediaさんに偶然、ある大型ショッピングストアでお会いした。「同人会をLive&Bar チャクラでやりましょう」のお話は嬉しかった。
喜納さんは沖縄を代表するアーティストだ。詩は雄大な宇宙観を顕現している。