なぜか地元の新聞は辺見庸のエッセイを随時掲載している。マメに読むことも読まないこともあるが、「三つの終焉」は良かった!21世紀の混迷を見事に言い表していると感じた。「資本と商品経済とデジタル革命がしかし、すべてを統べ、人の意識を収奪し、脱臭し、漂泊しつくし、不逞も異形も異風も商品として売れるか売れないかのただのファションになり下がりつつある」--。歴史の死斑というすごいことばもちりばめられている。この時代の空気がまさにそのように感じられる。しかし辺見庸の感受する空気とこの沖縄の空気は幾ばくかの違いがある。
作家であり、メディア学者のレジス・ドブレが語った「三つの終焉」はその通りだろうと、また感じさせるが、つまり紙の媒体は電子書籍に移行中であり、技術が全てに優っていく。巨大な電子頭脳が、すべてを統べる勢いだと、日々その仕組みをよくわかっているわけでもない電子機器に囲まれながら生きている。
科学技術が世界を席巻していく。その最先端の技術を取得した者たちが新たな世界秩序の権力を牛耳る。それに乗り遅れまいと多数の人間たちが藁をもつかむ思いでまた激しい競争原理に追い立てられる?!そのコアは「格差」!暴力的・差別構造はそのままに木の根っこのようにはびこるなかで世界は動いている。人間の価値に差別はありえないはずで、同一労働同一賃金が世界で普通になるべき価値体系であるはずが、人種、民族、国、通貨によって差別化が図られ、差別化によって収奪される者たちと収奪しほほ笑む者たちに別れる。5000年前から何が変わったのか?
最も文化などの面でのそれぞれの個性化(差別化)は推奨される。売れるために、売るための差別化(固有性)ということだが、その点はもっと熾烈になっていくだろう?人は同じリンゴをいつも食べるのは飽きてしまうゆえに、違った風味にまた憧れる。
そして、沖縄だが、世界が何かに囚われた空間だとすると、同じ人類としての共感・運命が付与されている限られた命の営みがある。死すべき存在としての運命、しかしそれすらも科学技術はクローンによって永遠の生命を追求して続けるだろうが、世界が格差の構造の中にある限り、経済・軍事・科学技術の強い者たち(国や地域)が世界に君臨する潮流はこの地球が滅亡しない限り続いていくのだろうか?その中にあってかつ私たちは自らが生存する空間・場を世界の中心として生きている。そしてその中心が世界の人々と連帯し、共存し、互いの歴史・文化を尊重しあい、互いに享受しあう方向へ向きあいたいと考えている。それゆえに国連の機能・強化を推進したいと考える。
この沖縄だが、昨今辺野古の基地移設に関して、日本政府は沖縄住民の意向を無視してごり押しせんとする非民主主義的アプローチを取ろうと模索している。しかし、名護市民ははっきり市長選でも市議会選挙でも移設を反対した。それでも民主党政権が自民党政権と同じくアメリカの威光に従って沖縄の基地機能強化を図ろうとするならば、もはや日本人には、良識も、良心もないわけで、他者を餌食にして自己保身を図ろうとする輩者たちの集合体でしかない。それはブッシュのイラク攻撃に加担した日本国であり、多数のイラク人民が劣化ウラン弾などで苦しみを味わっている現実をもたらした当事者でもあり、罪深い者たちの集合体国家でもあるわけである。しかもこの沖縄からも戦闘機は飛んでいった。
居ながらにしてアメリカの世界戦略に加担させられる沖縄島であり沖縄住民である。それを否定したい!アメリカ軍事帝国は崩壊しつつあるかもしれない。しかし彼らの軍事力は世界を襲う力をもって君臨している。日本国はそれをまた恐れているのだろう。広島・長崎に核を落とし、イラクに劣化ウラン弾を情け容赦なく落とせる国である!そしてプラズマ兵器でありF22が飛んでくる嘉手納飛行場である!アメリカは自由に好きなように沖縄を利用し踏みにじっている。ということは日本もそうだ!この構図を辺見庸さんのエッセイは伝えることはできない。
辺見庸さんの時代の空気はなるほど、そうだ!しかしそれすらも微温的である。嘉手納飛行場の騒音の中に彼はいない。沖縄から世界に日本に発信すべきことばが必要なのである。しかし時代のデジタル化する空気の薄さは同じだ。死人さえも、あるいは生きた人間さえも餌食にする資本である。生きながらに殺され、生きながらに死人になる。恐ろしい時代である一方で技術を謳歌し、個人の自由は普遍だと錯覚させられる。
すべてを疑ってかかれ!skepticismだと黒板に書く!君たちの教授たちのことばも疑って聞いた方がいいよ!と学生に言う。一方でcuriosityとwhy?を--。もちろんWhat is the truth?もーー。真実とは何か?は常に大きな問!
琉球大などは英語の授業に経費節約のために業者PCテストGテックを導入した。授業の評価の半分はコンピューターが決める。教師は授業の50%の価値しかないのである!コミュニケーションの基本は人間と人間が向き合い語りあう場、それが基本だと思うが、同じ資格のある教員を削減するためにPCである。沖縄の英語高校教師の80%が反対したシステムの導入である!それを来年も続けるという!琉球大学の英語・英文同窓会の役員(まだ?)をやっているが、先輩・後輩たちがそのシステムを推し進めている現況に違和感を持ちつつ教壇に立つのはものすごい圧迫が伴っている。これが辺見庸が言う「人間主体の原因不明のけいれん」の一つの現れかもしれない!
ワタシは琉球大のフリンジ教員として、また博士後期専攻学生として、恥ずべき実態だと危惧している。ゆがみは身近にはびこっている。麗しい身近な方々の教育や研究業績が弱者を踏みにじった上で成り立っている現実そのものである!いったい学問の真理の追求とは何だろうか?真理や正義を語る大学の実態もまたおぞましい!だからこそ、辺見庸のエッセイにはまだ力があるのだろう!本当に痛みを身体で感じつつ論を書いている者たちに真実は宿っているのだと考えたい!私の意識の原点には、なぜかアメリカで「人類館」(英語バージョン)を演出した時遭遇したイオネスコの「授業」がある。不条理演劇を代表するその劇は、暴力装置の中枢にいる権力の三つの顔が強烈だ。政治権力(経済&軍事)、知識人、宗教人!ゆえに大学で教える立場にあって、かつ研究する立場にあってこの大学の知や教育とは何か、いつも気になる。ワタシの立場もまた搾取される立場でもあるゆえに!
作家であり、メディア学者のレジス・ドブレが語った「三つの終焉」はその通りだろうと、また感じさせるが、つまり紙の媒体は電子書籍に移行中であり、技術が全てに優っていく。巨大な電子頭脳が、すべてを統べる勢いだと、日々その仕組みをよくわかっているわけでもない電子機器に囲まれながら生きている。
科学技術が世界を席巻していく。その最先端の技術を取得した者たちが新たな世界秩序の権力を牛耳る。それに乗り遅れまいと多数の人間たちが藁をもつかむ思いでまた激しい競争原理に追い立てられる?!そのコアは「格差」!暴力的・差別構造はそのままに木の根っこのようにはびこるなかで世界は動いている。人間の価値に差別はありえないはずで、同一労働同一賃金が世界で普通になるべき価値体系であるはずが、人種、民族、国、通貨によって差別化が図られ、差別化によって収奪される者たちと収奪しほほ笑む者たちに別れる。5000年前から何が変わったのか?
最も文化などの面でのそれぞれの個性化(差別化)は推奨される。売れるために、売るための差別化(固有性)ということだが、その点はもっと熾烈になっていくだろう?人は同じリンゴをいつも食べるのは飽きてしまうゆえに、違った風味にまた憧れる。
そして、沖縄だが、世界が何かに囚われた空間だとすると、同じ人類としての共感・運命が付与されている限られた命の営みがある。死すべき存在としての運命、しかしそれすらも科学技術はクローンによって永遠の生命を追求して続けるだろうが、世界が格差の構造の中にある限り、経済・軍事・科学技術の強い者たち(国や地域)が世界に君臨する潮流はこの地球が滅亡しない限り続いていくのだろうか?その中にあってかつ私たちは自らが生存する空間・場を世界の中心として生きている。そしてその中心が世界の人々と連帯し、共存し、互いの歴史・文化を尊重しあい、互いに享受しあう方向へ向きあいたいと考えている。それゆえに国連の機能・強化を推進したいと考える。
この沖縄だが、昨今辺野古の基地移設に関して、日本政府は沖縄住民の意向を無視してごり押しせんとする非民主主義的アプローチを取ろうと模索している。しかし、名護市民ははっきり市長選でも市議会選挙でも移設を反対した。それでも民主党政権が自民党政権と同じくアメリカの威光に従って沖縄の基地機能強化を図ろうとするならば、もはや日本人には、良識も、良心もないわけで、他者を餌食にして自己保身を図ろうとする輩者たちの集合体でしかない。それはブッシュのイラク攻撃に加担した日本国であり、多数のイラク人民が劣化ウラン弾などで苦しみを味わっている現実をもたらした当事者でもあり、罪深い者たちの集合体国家でもあるわけである。しかもこの沖縄からも戦闘機は飛んでいった。
居ながらにしてアメリカの世界戦略に加担させられる沖縄島であり沖縄住民である。それを否定したい!アメリカ軍事帝国は崩壊しつつあるかもしれない。しかし彼らの軍事力は世界を襲う力をもって君臨している。日本国はそれをまた恐れているのだろう。広島・長崎に核を落とし、イラクに劣化ウラン弾を情け容赦なく落とせる国である!そしてプラズマ兵器でありF22が飛んでくる嘉手納飛行場である!アメリカは自由に好きなように沖縄を利用し踏みにじっている。ということは日本もそうだ!この構図を辺見庸さんのエッセイは伝えることはできない。
辺見庸さんの時代の空気はなるほど、そうだ!しかしそれすらも微温的である。嘉手納飛行場の騒音の中に彼はいない。沖縄から世界に日本に発信すべきことばが必要なのである。しかし時代のデジタル化する空気の薄さは同じだ。死人さえも、あるいは生きた人間さえも餌食にする資本である。生きながらに殺され、生きながらに死人になる。恐ろしい時代である一方で技術を謳歌し、個人の自由は普遍だと錯覚させられる。
すべてを疑ってかかれ!skepticismだと黒板に書く!君たちの教授たちのことばも疑って聞いた方がいいよ!と学生に言う。一方でcuriosityとwhy?を--。もちろんWhat is the truth?もーー。真実とは何か?は常に大きな問!
琉球大などは英語の授業に経費節約のために業者PCテストGテックを導入した。授業の評価の半分はコンピューターが決める。教師は授業の50%の価値しかないのである!コミュニケーションの基本は人間と人間が向き合い語りあう場、それが基本だと思うが、同じ資格のある教員を削減するためにPCである。沖縄の英語高校教師の80%が反対したシステムの導入である!それを来年も続けるという!琉球大学の英語・英文同窓会の役員(まだ?)をやっているが、先輩・後輩たちがそのシステムを推し進めている現況に違和感を持ちつつ教壇に立つのはものすごい圧迫が伴っている。これが辺見庸が言う「人間主体の原因不明のけいれん」の一つの現れかもしれない!
ワタシは琉球大のフリンジ教員として、また博士後期専攻学生として、恥ずべき実態だと危惧している。ゆがみは身近にはびこっている。麗しい身近な方々の教育や研究業績が弱者を踏みにじった上で成り立っている現実そのものである!いったい学問の真理の追求とは何だろうか?真理や正義を語る大学の実態もまたおぞましい!だからこそ、辺見庸のエッセイにはまだ力があるのだろう!本当に痛みを身体で感じつつ論を書いている者たちに真実は宿っているのだと考えたい!私の意識の原点には、なぜかアメリカで「人類館」(英語バージョン)を演出した時遭遇したイオネスコの「授業」がある。不条理演劇を代表するその劇は、暴力装置の中枢にいる権力の三つの顔が強烈だ。政治権力(経済&軍事)、知識人、宗教人!ゆえに大学で教える立場にあって、かつ研究する立場にあってこの大学の知や教育とは何か、いつも気になる。ワタシの立場もまた搾取される立場でもあるゆえに!
『2010年国際ジュゴン年に~基地ではなく ジュゴン保護区を』の署名を、集めています。どうぞ、ご協力よろしくお願いします。
☆署名用紙の署名とインターネット署名(日本語・英語)があります。
できれば全てにご協力お願いします(重複OKです)。
*インターネット署名(日本語版)
http://www.shomei.tv/project-1384.html
*インターネット署名(英語版)
http://www.thepetitionsite.com/1/no-to-military-baseyes-to-dugong-protection-area
*署名用紙のPDFはこちら
http://www.sdcc.jp/iucn/2009-2010-sign.pdf
*署名の詳細はこちら
http://www.sdcc.jp/iucn/2009-2010-petision.html
もしよろしければ、この署名の拡散もお願いします!