真喜志康忠生誕100年-役者一代の歩み
(1923年8月15~2011年12月16日)
真喜志康忠は生前二冊の貴重な書籍を出版している。『沖縄芝居50年』(1983年)と『沖縄芝居と共に』(2002年)である。沖縄芝居や組踊に対する氏の思いが存分にまとめられている。それだけではなく、沖縄芸能、とりわけ沖縄芝居に関する講演も数多くこなし多くの県民を魅了してきた。
以下は著書『沖縄芝居と共に』の年表を簡略にまとめた芸歴である。
1923年8月15日、父真喜志宗英、母マカトの4男として那覇市高橋町二丁目に生まれた。1932年、数え9歳にして真境名由康座長の「珊瑚座」へ役者見習いとして入座、其の後翁長座、真楽座、伊良波尹吉一座を経て1944年、21歳で満州に出兵。48年、3年のシベリア拘留から生還、翌49年、弱冠26歳で「ときわ座」を旗揚げした。1972年の日本復帰以降も大伸座、乙姫劇団と並び、沖縄芝居の人気を独占した。
2024年6月8日に国立劇場おきなわ大劇場で上演予定の「落城」は、第三回琉球新報主催演劇コンクールで入選し、真喜志が最高演技賞を受賞した作品である。因みに第一回は「多幸山」、第二回は「復員者の土産」が入選している。真喜志康忠の演劇に対する情熱は沖縄タイムス主催芸術祭入選の「流れ雲」(1959年)、「悪を弄ぶ」(1960年)、そして今回上演する芸術祭賞の「こわれた南蛮がめ」(1961年)にも如実に表れている。創作意欲も旺盛で「按司と美女」「てんさぐの花」「口なしの花」「首里子ユンタ」など、24作品以上の新作を創作し、上演してきた。
復帰後の活躍も目を見張る。「真喜志康忠ショー」は常に大入り満員で、復帰十年後の82年、大城立裕作「世替りや世替りや」の主役を切っ掛けに劇団創造の現代劇「海の一座」に主演するなど、常に演劇に対する渇望が絶えることはなかった。復帰前から真境名由康に師事し組踊を修練してきた真喜志は1972年7月、真境名組踊会結成初の発表会ですでに「二童敵討」のあまおへ役で出場し、其の後も「大川敵討」の谷茶の按司の主役で組踊の舞台に立ってきた。1986年、63歳で、沖縄芝居役者としてはじめて国指定重要無形文化財「組踊保持者」に認定されるのも十分な実績があった故である。
その翌1987年に作家大城立裕、演出家幸喜良秀と共に「沖縄芝居実験劇場」の立ち上げに尽力、真喜志は新たな沖縄芝居推進の文化活動に役者かつ顧問として舞台に立った。1988年、「沖縄芝居実験劇場」は「世替わりや世替りや」で紀伊国屋戯曲賞特別賞を受賞するに至る。1989年、真喜志は県の無形文化財に指定された「琉球歌劇」の4人の保持者の一人に認定された。
1900年からおよそ11年間、琉球大学で非常勤講師として手書きの芝居脚本71作品を紹介、そのテキスト化に多大な貢献をした。1985年、文化庁地域文化功労賞受賞、97年、沖縄文化功労賞受賞。
沖縄演劇史の中で100年に一人の名優(役者)であり、劇作家、演出家、琉球舞踊家、座長として役者一代を駆け抜けた人生だった。真喜志康忠の功績は今後の沖縄芸能文化の「にぬふぁぶし」(北極星)であり続けるに違いない。
(二童敵討のあまおへを演じる真喜志康忠、『琉球芸能辞典』より転載。
この写真は、なんと韓国で開催された国際演劇学会の研究発表で、台湾の研究者がパワーポイントで紹介していた事に驚いた。確か2010年だった。)
(道場にて)
(谷茶の按司、『琉球芸能辞典』より転載)