【 上海に今も残る、大日本帝国軍隊の慰安所跡 】《前篇》
中国各地の女性たちが兵士向けの売春婦として強制的に働かされていた事実を証明する、レンガとモルタルで出来た動かぬ証拠
「どうすれば女たちを長持ちさせられるか」、そのための組織的研修も行なわれていた従軍慰安所
スー・アン・トレイ / ザ・ガーディアン 4月24日
ある晴れた日、夢花街、このロマンチックすぎる程の名前を付けられた場所は、いつも通りの喧騒の中にありました。
住民たちが自転車やスクーターにまたがって忙しそうに走り回り、飲食店では店員が手打ちの麺をきびきびと客の前に運んでいました。
ここは上海の旧市街の中心部で、周囲取り囲む城壁は1554年、日本の倭寇が付近の沿岸を荒らしまわっていた時代に海賊防ぎのために建設されました。
ここに1930年代に中国人実業家が建設した瀟洒な集合住宅が立っています。
建物には『子孫繁栄』を意味する『希孟廬(Ximeng Lue)』という名がつけられました。
中国の伝統的なデザインにヨーロッパの形式を取り入れたエレガントなデザインの事の建物は、20世紀初頭当時中国を支配していた清王朝が西欧列強の圧力により開国を迫られ上海を開港場とした結果、西洋の文物が短期間になだれ込み、市内の建物にも西欧風の影響が浸透して行ったことを証拠立てています。
アールデコ風のモチーフが壁と天井一面に広がっているのとは対照的に、床一面に仏教の卍のモザイクが敷き詰められています。
そして富の伝統的な中国のシンボルである一対の獅子の石像が、バルコニーの軒下に鎮座しています。
希孟廬は中国各地に何百とあった慰安所のひとつであり、下級兵士向けの施設でした。いくつもの部屋の中にびっしりとベッドが並べられ、その間を区切るものは薄いカーテン一枚だけでした。
吹き抜けの階段の先にある部屋の中からは男性のうなり声、女性の押し殺した呻き声、そして安物のベッドがきしむ音が聞こえていました。
こうして数多くの女性たちが、繰り返しやってくる日本軍の兵士たちを相手に、売春行為をさせられていたのです。
この施設の中には、兵士に対し厳しい規則を守るように壁に大きな文字で書かれた場所がありました。
入場者は登録を義務づけられ、「入場券とコンドームを買ってから入ること。入場券を買ったら指定された部屋に入ること。滞在時間は30分以内に限る。」等の指示が壁に書かれていました。
この場所で働かされている女性たちは、性病の蔓延を防止するために定期検査を受けさせられ、さらには避妊処置をされていました。
日本軍人の一部は、慰安婦として徴用されたと女性たちを保健衛生上どのように扱えば、『長持ちするか、あるいは短期間で使い物にならなくなってしまうか』、『慰安所の管理方法』と称する研修を受けていました。
上海を占領した日本軍は勢いに乗って南京に向かって進軍しました。
そしてその場所で一般市民と武装解除された中国軍兵士を、最大で300,000人殺戮したという報告があります。
後に『南京大虐殺』の名で知られるようになった、多数の一般市民が殺され、あるいは不具にされてしまったこの事件では、年少者や年配者も含め20,000人の女性が強姦されました。
中国全土の日本軍占領地区に慰安所が設けられた理由の一つが、こうした日本軍兵士による強姦事件の発生を予防することでした。
上海はその慰安所の数が最も多く158か所を数え、中国国内の『慰安』設備の一大根拠地の観を呈していました。
〈 後篇に続く 〉
http://www.theguardian.com/cities/2015/apr/24/shanghai-comfort-house-history-cities-buildings
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翻訳していて気が重くなる、場合によっては胸が悪くなるものもあります。
当時の慰安所内の様子の描写など、女性たちにとっても地獄だったでしょうが、私に言わせれば兵士たちも人間扱いされていなかった点、彼らにとっても快適な場所では無かったでしょう。
要は戦争という、人間を兵器に作り変えなければ遂行できない『事業』を始めてしまったことが最大の間違いだったというほかありません。
従軍慰安婦の問題は、安倍政権が否定し無視すればするほど、そしてそれに韓国や中国が反発すればするほど、世界のメディアが取り上げる頻度が上がっているように感じます。
内容ではなく存在したのかどうかということに善悪などは無く、記録が完全に揃わない以上、100%信頼できる見解というものもありません。
日本と中国、日本と韓国、これ以上主張をぶつけ合ったところでどんな益も無いと思います。
生存者が一人でも多いうちに、一日も早く合同で調査を始めること以外にこの問題の解決の途は無いと思うのですが、いかがでしょうか?
【 上海に残る大日本帝国軍隊の慰安所跡 】《後篇》
中国各地の女性たちが兵士向けの売春婦として強制的に働かされていた事実を証明する、レンガとモルタルで出来た動かぬ証拠
従軍慰安婦として使役された挙句、戦争終了とともに自殺の途を選んだ女性たちがいた
スー・アン・トレイ / ザ・ガーディアン 4月24日
南京虐殺発生から4年、第二次世界大戦(太平洋戦争)は日本軍の敗北、そして中国共産党軍が勝利者の地位を中国国民党から奪い取る形で終了しました。
そして夢花街にある大邸宅は、公営住宅という形で再び人間が生活を営む場所へと戻りました。
政治的、経済的背景から選ばれた10家族以上がひとつ屋根の下で、すし詰め状態で暮らすことになりました。
労働者、そして共産党員は通りに面したスペースに余裕のある部屋を割り当てられる一方、資本主義者と烙印を押された家族は日の当たらない裏側の狭い部屋で暮らすことになりました。
この建物を最初に建造した資本家の子孫が、未だに最上階の狭い部屋で静かに暮らしていると言われています。
数十年間、増え続ける人口はこのマンションの部屋をさらに細分化させることになり、最終的にこの建物で暮らす家族の数は倍増することになりました。
1979年に始まった改革開放政策により中国経済の自由化が進みましたが、上海の住宅事情にはその後も大きな変化はありませんでした。
豊かになった居住者などがこの建物を出て、市中に次々と建設される新しくて広いマンションなどに移っていきましたが、彼らはこの建物内の部屋を上海への移住者へ賃貸し、ぎゅうぎゅう詰めの状態は変わっていません。
この建物に住んでいる人々は皆、かつてここがどんな場所だったかを知っています。
いまでも冒涜された女性たちが残した何がしかの痕跡を感じることができますが、あえて触れようとする住民はいません。
従軍慰安婦として使役された後、戦争の終了とともに自殺の途を選んだ女性たちもいました。
忌まわしい施設が一般住宅へと様変わりしてしばらくすると、今度は住民たちが精神的に痛めつけられる時がやってきました。
1960年代から70年代にかけ、毛沢東主席の下で展開された文化大革命です。
住民たちが互いに監視し合い、資本主義的家族あるいは政敵の烙印を押されると、情け容赦なく攻撃され、多くの人々が死にました。
この時の記憶について語ろうとする年配者はほとんどいません。
希孟廬(Ximeng Lue)、上海市内のにぎやかな場所に立つこの建物は、20世紀に日本軍の慰安所が設置されていたところであり、中国各地の女性たちが強制的に兵士向けの売春婦として働かされていた事実を証明する、レンガとモルタルで出来た動かぬ証拠です。
中国に現代の資本主義がなだれ込み、富を象徴する高層建築が次々と現実になっていくのと同時に、上海では近隣の古い建物が次々と壊されて行きました。
しかし希孟廬は未だにその場所にあり、上海市の歴史の暗い側面を代表する場所にあり続けています。
中国政府や地方政府の官僚たちは、上海市内に残る歴史的建造物を保存すべく取り組みを続けていますが、多くは成功していません。
特に不動産価値の高い場所となると、歴字的意義、建造物としての価値などには関係なく取り壊されてしまう場合がほとんどです。
希孟廬(Ximeng Lue)の住人は、この建物も数年の内には同様の運命を辿ることになるだろうと考えています。
中国人従軍慰安婦について、その犠牲になった人々に関する公式の記録を残すべきであるという要請がほとんど無いのと同様、かつての日本軍の慰安所を史跡として残すべきであるという意見もほとんど聞かれません。
上海師範大学に中国慰安婦研究センターを設立し、その所長を務める歴史家の蘇智良(Su Zhiliang)教授は、過去に行われたこの女性にとって極めて残酷な行為について、正式な記録を残し、正しく的を得た処理が行われるよう、証言を集めています。
彼は長い間上海市当局に対し、最初に設けられた慰安所を博物館として残すよう求めてきました。
希孟廬のような建物は傷みが激しい上、はちきれる程の住民がその場所で暮らしており、蘇教授の取り組みが成功するかどうかは解りません。
希孟廬は正史には残されていない、別の歴史を語り続けています。
願いがかなうようにと作られた建物は今、そこに連れてこられた女性たちの絶望の思いを後世に伝える遺跡として、その場所にあります。
〈 完 〉
http://www.theguardian.com/cities/2015/apr/24/shanghai-comfort-house-history-cities-buildings
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こうして従軍慰安婦にされた女性たちの思いを突きつけられると、日本人としてはこの問題はスキップしたいと考えたくなる、その気持ちも解ります。
まさにやりきれない思いに駆られますが、だからと言って『いっそ問題の存在そのものを否定してしまおう』、あるいは『売春行為は皆自発的なものだ』などと主張するのは、第三者、実際には英国をはじめとする欧州各国や米国、世界のジャーナリズムからは、戦時中の残虐さをそのまま引き継いでいると見られかねません。
私は強制徴用もあった、中には自発的なものもあった、ただ現時点ではその比率を具体的数字で表すことが出来ないのだと思います。
前回も書きましたが、日中韓の共同調査プロジェクトを立ち上げて、できるだけ事実に近づく努力を重ねていく必要があると思います。
その結果を受けて、謝罪が必要なら国家として謝罪すべきか、日本人として謝罪すべきかという議論も行うべきだと思います。
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A former Shanghai 'comfort house' – a history of cities in 50 buildings, day 23
The Ximeng mansion – once used as a military brothel where occupying Japanese soldiers raped local women – is a bricks and mortar testament to Shanghai’s tumultuous 20th century history
On a typical day, the romantically named Menghua Jie (Dream Flower Street) is a hive of activity. Residents hurry around on bicycles and scooters, and food vendors do brisk business selling hand-pulled noodles. This is Shanghai’s Old Town, the traditional core of the Chinese city dating back to 1554, when walls were first erected to ward off Japanese pirates preying in nearby waters.
In the street stands a handsome mansion, built in the 1930s by a capitalist called Lin Guisheng, who named it Ximeng Lu, meaning “Hope for an Heir”. An elegant mix of European and traditional Chinese designs, the building was reminiscent of early 20th century Shanghai when western influences, a result of foreign concessions that forced the city open, seeped into local culture, design and architecture. Touches of Art Deco motifs line the walls and ceilings; mosaic tiles with Buddhist swastikas cover the floors. A pair of stone lions, traditional Chinese symbols of wealth, sit under the eaves of a balcony.
But Ximeng is emblematic of a darker side of Shanghai history that is often forgotten in the wake of rapid urbanisation: during the second Sino-Japanese War in 1938 the mansion was turned into a “comfort station”, a military brothel where local women were forced into sexual slavery by the Japanese army.
Hundreds of thousands of women from China, Korea and other occupied territories were forced into sexual slavery by the Japanese army. Peipei Qiu estimates there were 400,000 victimsXimeng is emblematic of a darker side of Shanghai’s history that is often forgotten in the wake of rapid urbanisation
When the war reached Shanghai – leaving parts of the city buried in rubble and corpses – Lin fled for Hong Kong, and his mansion was abandoned to a dark legacy of sexual violence and rape.
For low-ranked soldiers using Ximeng, or one of the hundreds of other “comfort stations” across China, sex was conducted in one of many rooms with beds placed in rows, separated by thin curtains. One can imagine the sounds of masculine grunts, creaking beds and muffled cries echoing across the wooden stairwell as the women were raped by scores of Japanese soldiers.
Strict rules governing soldier behaviour were displayed prominently within the mansion: “The entrant must register and pay to obtain an entry voucher and a condom”; “The entry voucher holder must enter the designated room and has an allotted time of 30 minutes”.
Strict regulations were displayed in the so-called ‘comfort stations’The women endured routine examinations to prevent the spread of venereal diseases and were given contraception.Some Japanese military personnel even received accountancy classes on “how to manage comfort stations, including how to determine the actuarial ‘durability or perishability of the women procured’”.
Following victory in Shanghai, an emboldened Japanese army marched to the then-capital Nanjing where it unleashed a massacre, killing up to 300,000 Chinese civilians and disarmed combatants. An estimated 20,000 women – including infants and the elderly – were raped, with many subsequently mutilated and killed in what became known as the Rape of Nanjing. One reason for Japan’s rolling out of comfort stations across China was to regulate the sexual aggression of its soldiers, and Shanghai was home to an estimated 158 stations, more than any other city in China.
After the war ended in 1945 and the Communist party takeover four years later, the mansion resumed its residential purpose in the form of social housing. More than 10 families were assigned rooms in the mansion, a cross-section of political and economic classes crammed under one roof. Families labelled as capitalists were reduced to small rooms in the back, with workers and party members assigned more generous spaces. A descendent of Lin, the original owner, is believed to still live quietly in a small room on the top floor of the mansion.
More than 10 families now live in Ximeng mansion, each occupying a room assigned by the Communist party in 1949. Photograph: Sue Anne TayOver the decades, rooms were further halved to accommodate growing families. This was the reality of communal living across Shanghai, a cheek-by-jowl arrangement that remained largely unchanged even after China opened up post-1979. Housing reform allowed some Shanghainese residents to move out to newer and more spacious properties; they then rent their rooms to migrant families, maintaining the compressed state of affairs.
All those living in the building know of its history but uncomfortably try to ignore the aura left behind by the violated women, some of whom killed themselves after the war. Residents endured further trauma during Chairman Mao’s Cultural Revolution of the 1960s and 70s, when neighbours turned on each other and capitalist families and political opponents were mercilessly attacked, and many died. Few of the older generation like to talk about those times.
Places like Ximeng mansion are bricks and mortar testaments to Shanghai’s tumultuous 20th century history. As the city demolishes vast swaths of old neighbourhoods to usher in gleaming new facades, they represent the dark side of a forgotten history that helped shape the city. Championing the preservation of old houses in Shanghai, whether on the grounds of historical or architectural significance, is bureaucratically challenging and rarely successful, especially when they occupy prime real estate. Residents of Ximeng mansion expect their home will suffer a similar fate in the coming years.
There are few calls for the preservation of former comfort stations, with the memorialisation of their victims channelled through official narratives and designated sites. Historian Su Zhiliang, who founded the Research Centre for Chinese Comfort Women at Shanghai Normal University, collects testimonials to campaign for justice and recognition of past atrocities. He has for years called for city authorities to turn Shanghai’s first comfort station into a museum. Like Ximeng mansion, the building is decaying and crowded with families.It is unclear if Su will be successful.
Ximeng mansion is another story. Once built out of hope, all that is left behind is a legacy of despair.
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【 ガンを引き起こしているかもしれない代表的食品10種 】《5》
ブルーヘア・テイヴ / ブレティン・デイリー・ニュース 3月10日
9.養殖のサケ
アメリカ合衆国で流通しているサーモンの60%以上は養殖魚です。
その餌は自然界のものではない化学物質、抗生物質、殺虫剤その他、発がん性物質として知られる成分が含まれ、それが健康であるとないとに関わらず、すべてのサケに与えられています。
調査研究の結果、養殖サケからはPCBと水銀も検出されました。
10. ダイエット食品
ダイエット食品に使われている人工甘味料の中にはアスパルテームを含むものがあり、あまり健康に良いとは言えません。
さらに味を調えるために過度のナトリウム、着色料や香料などが加えられる場合もあります。
総体的に『低脂肪』『低カロリー』食品には、実際には表示されている以上のカロリーを含んでいる場合もあります。
※ 以上の見解は下記サイトに掲載されたものを、そのまま翻訳・ご紹介しているものであり、【星の金貨】として独自に見解を示している訳ではありません。
http://bulletindailynews.com/2015/03/10/10-top-foods-that-might-be-causing-cancer/