うちなーぐち(沖縄語)で書かれた詩篇がある。沖縄語や琉球語と言っても現在ユネスコは6言語を区別している。ゆえに首里那覇語で書かれた詩があれば、奄美語や宮古語、八重山語で書かれた詩篇もある。また共通日本語と沖縄/琉球諸語と混ざりあった詩もある。多様、つまり言語のダイバシティーが見られる詩篇がある現在の沖縄だ。
例えば宮古語を直に詩にするのではなく、うまくその音韻のリズムを共通日本語の中にあぶり出して書かれた詩篇もある。リズムが鍵に見える。直截にうちなーぐちで表現する方法と独特な表現で日本語の幅を広げる創造の極みのような創意がある。
この『あすら』第65号の中で知念ウシさんとローゼル川田さんが首里那覇言葉で詩を書いている。ウシさんの詩篇が面白いと思ったので、ここに紹介したいと思う。ショッピングセンターの駐車場で目撃したことなのだろうか、それともご本人が体験したことなのだろうか、それはわからないが、車社会沖縄の駐車場でありえる光景を対話形式で描いている。
登場するのは家族(子供連れ)のウチナーンチュと明らかに大和人(日本人)と沖縄人の警備員である。ウチナーンチュはうちなーぐち(首里那覇語)で語り、日本人と警備員は日本語で語っている。齟齬がある。焦点は満杯の駐車場で空きをまって待機していたのらしい日本人の車を差し置いて、いきなり家族連れのウチナーンチュの車がそのスペースに車を入れて駐車したゆえに、日本人の、おそらく男が、クレームをつけているという状況を描いている。
ウチナーンチュはなぜか、うちなーぐちで話し、日本人はわけがわからないので、日本語で話せとどなっている。そして警備員にもこの場所は自分が駐めるつもりでいたのだと訴え、ウチナーンチュにそこをどかせと迫っている。
そのうちなーぐちと大和口(日本語)のやり取りは面白い。結構、ショッピングセンターや大きなスーパーの駐車場で経験するような光景だ。
かれらのやり取りの中で、日本人に、Yナンバーの車にもそこをどけと言えるかとウチナーンチュの男は問いかけている。その辺になると、知念ウシさんの作為、この詩に込められた構図と意図がちょっと見えすぎて、少し引いてしまった。ウチナーンチュの男は日本語を理解できるし、話せないわけではないのらしい。しかしあえて齟齬を演出している。
この光景はウチナーンチュ同士でもありえる光景なのだ。駐車場の空きをまっていた所へ、空いたと思ってそのスペースに入れようとした所に、ちょーど通りかかった車がスーッと入っていくことがある。こちらとしては「ああやられた」とは思っても、車から降りて「ここは私が駐めようとしたところだ、どけよ」とまで強引にクレームをつけない。クレームをつける人がいないとは限らないが~。
ああ、空いたと思ってすんなりそこへ入っていった車はまっている車に気が付かなかったこともありえるので、そこはクレームを付ける方が普通は良識がないように思える。たかが駐車場ではないかと思える。しかしこの詩篇の中では沖縄語の解せない日本人が乱暴にも、既得権を主張して(?)ウチナーンチュに駐めたスペースからどけよと迫っているという物語である。
「すみません。気が付きませんでした。こちらも家族連れで子供も一緒だから、どうかゆずってください」ですみそうだが、そうではないのらしい。
ウチナーンチュは沖縄語で語り、自らを主張し、日本人は日本語で語れと対立したままで終わっている。「ここはおれのものなんだ」と喚く日本人も滑稽だが、かといってうちなーぐちで語り続けるウチナーンチュも意固地にも見える。そこで「Yナンバーでも同じ用におれのものなんだ」と喚くのかと聞く。元々沖縄人の土地だから、ここからどかされても、どくわけにはいかないと突っぱねている。
駐車場のスペース争いをネタに日本と沖縄、アメリカの関係性(力学)を比喩した詩にしているのだが、つまり面白いのだが、このような光景は同じウチナーンチュ同士でも起こっていることゆえに、すこし興ざめにもなった。