琉球舞踊は復帰後、特に日本舞踊を真似た家元制度が目白押しに普及していった。誰でも自己申告すれば家元になれるのだろうか、と思える復帰後から現在に至る沖縄の状況である。尾上さんによると日舞は100以上の流派があり、源流はおそらく10ほどとのことだ。
レッスンプロとトーナメントプロがあり、舞踊はレッスンプロがほとんどで、文化の産業化という時、家元制度は厳しいと話した。展望に関して、トップの舞踊家が必ずしもいいレッスンコーチではありえない。舞踊は家元を真似る芸能である。模倣芸であるゆえに家元や師匠は手本になる芸を見せないとならない。「この人のような踊りを手本にしたい」という芸能者にならないといけない。流儀に差異はあまりない。人の差、家元の差でもあろうか。無形ゆえに著作権はない。家元会議をもって、拘束をかけない新しい運動を起こす必要がある。レッスンプロは成長する。教えさせていただき成長するのだ。
何流でもいい能力のある舞踊家に機会を与えないといけない。必死になっている舞踊家がいる。トーナメントプロがいない。
家元制度のピラミッドがある。先輩の意向、忖度がある(闘い)、時代の流れ、スターを作る。興行化→実現しない。
家元制度(名取制度)師範。
家元制度に疑問を持っていない。相反しないやり方ー。
プロとアマの境界を曖昧にする。弟子を名取にできる。100万円掛る。収益になる。その金は師匠に分配される。
名取はプロではない。自負と自覚(名取になってもプロではない)
プロとアマの線を引く。キャスティングは平等という不平等。技(業)を磨いて生きていく。
上は箇条書きのメモを並べただけだ。琉球舞踊の家元制度の実体、システムが知りたい。類似すると尾上さんは話したがー。
**********************************
1976年生まれ 東京都出身
日本舞踊尾上流三代家元・二代尾上菊之丞の長男として生まれる。
2歳から父・尾上菊之丞に師事し、1981年「松の緑」で初舞台(5歳)。1990年に尾上流・尾上青楓の名を許されて以降、日本舞踊家として本格的に活動を開始。自身主宰のリサイタルをはじめとして、尾上菊之丞主宰の冬夏会や(社)日本舞踊協会主催公演、国立劇場主催公演などに出演。更には歌舞伎俳優、その他幅広いジャンルのアーティストとのコラボレーションなどにも積極的に挑戦している。また、振付師としても、歌舞伎公演「NINAGAWA十二夜」(2007)をはじめとして、宝塚歌劇団、万博などの振付も手掛けている。主な主宰公演は「尾上青楓日本舞踊公演」(1999〜)「近くで観る日本舞踊」(2000〜)。
主な参加公演
明治座特別芸術公演「伝統芸能の若き獅子たち」(2001.2003)/市川染五郎プロデュース傾奇「魑魅魍魎的」(2002)「麻布十番ん」(2004)「不二才」(2006)/サントリーホール主催「旬翔るin Suntory」(2003)/カウントダウンライブ「傅‐未来へ」(2003)/スペインセビリア万博(1992)/リトアニア「ジャパンウィーク」(1995)/愛・地球博(2005)/日本舞踊協会創作舞踊劇場公演「安土切支丹能」(2000)「火の鳥(黎明編)」(2001)「火の鳥(転生編)」(2004)「陰陽師」(2005)「予言(マクベス)」(2007)/「至高の華」(2007)/能楽劇「夜叉ケ池」(2007)主な振付活動
新作「風波」(1999)尾上青楓日本舞踊公演にて発表/義太夫「那須の興一」(2001)明治座「伝統芸能の若き獅子たち」/「天の浮橋」(2003)明治座「伝統芸能の若き獅子たちⅡ」にて林英哲氏との合同作品/「にっぽん華座特別催事・創生歌舞伎踊り」(2005)愛・地球博にて/歌舞伎公演「NINAGWA十二夜」(2007)歌舞伎座受賞歴
1995年
日本舞踊協会主催新春舞踊大会大会賞
1996年
日本舞踊協会主催新春舞踊大会大会賞
1997年
日本舞踊協会主催新春舞踊大会大会賞・会長賞