This is an individual and specific experience tor such person ,and can never be explained with theory and doctorine . Such a view is called kyoge-betuden which means transmitting ideas without reliance upon sutras and other written materials.
「これは、個別的で具体的な体験であり、理論や教義では、決して説明できない、この立場が教外別伝であり、経や文字によることなくアイデアを知らせることを意味する」
銀椀裏に雪を盛る
イギョウ宗は商人で、イ山とキョウ山の巧みなやりとりが商人の駆け引きに似ている、この辺が面白い、商人は近代的だ、商人が近代を切り開いたんだろう、あの平家が商人的政権で、厳島神社に見られるように、この政府は海外との貿易を押し進めた、だから、本当は、もっと違った内容があったんだろう、そんなスマートな彼らにとって、人を突いたり切ったり殺したりするほど、バカバカしいことはない、
「こまった連中だな」
「そんなことをして いったいどれほどの利益になるのか」
だが、この列島が近代になるには、ちょっと、いや、だいぶ早すぎたようだ、法眼(ほうげん)宗は公卿、おっとりした公卿の宗風、そして雲門宗があるのだが、この宗派のキャッチコピイが天子、どんなものか、あるヒネクレ者が、雲門の弟子のハリョウに向かって、
いかなるか 提婆(だいば)宗
これに対して、
銀椀裏に雪を盛る
言いも言ったり、言い切った、我が宗風は、銀のお椀に雪を盛る、そういった純一な行為、「銀器に白雪を盛る」、凄絶な感覚の世界だ、
「シュールだな」
言語表現の極致、精密にして絶妙、こまったものだ、唐の時代とは、なんともシャレた時代で、最高のおとこたちの舞台だった、
「人類史の華」
青春の一時期、この宗派を復興できないものかと思ったことがある。
これに対して、現代はどうか、ちょっと信じられないことだが、坐禅の会にお金を取るトコロがあるらしい、会費を徴収するのだ、
木喰(もくじき)を とうとい人とたずねくる
たずねる人は なおもとうとき
「悟中迷あり」の出家者は。ただひたすらにやって来る凡夫の姿に「迷中悟あり」の端的を知るはずだが、それほどのボーズはおるまい、まあー 相手にするのも時間の無駄だろう、とにかく、来るところまで来ているようだ、駅前に、日曜の朝、坐禅会をやっている寺があるというので早速出かける、けっこうなビルデイングだ、相当な収入なんだろうね、儲かって儲かって仕方がないのかな。
朝の6時半、豆タヌキみたいな中年の僧侶が出てきた、
「どうやっても ソンケーできそーもないな」
「なにか いいましたか」
「いいえ けっこうなお寺で」
「ぐふふ 3階なんですよ ぐふふ」
自慢なんだろうね、3階の道場に向かったのだが、その途中でクチブルに指を当て、
「しいー」
「・・・」
「子供が 寝ているんです」
なるほど、コダヌキたちが、
「グースー グースー グビグビ・グググ・グビグビ ブリブリのブリー」
寝ながら「ヘ」をしている、
「ずいぶん器用だな」
それにしても、なんと寝ぎたないんだろう、出家の子供という気配が、まるでないのがおもしろいね。
始まったと思ったら、すぐにジ・エンド、30分も経っていない、そして、
「これから 作務(さむ)をします」
「・・・」
「作務は動く坐禅です しっかりやってください」
「きょとーん」
坐禅会に集まった十数名に、それぞれ作業が割り当てられた。