The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

The Birth of Cafholic Zen 10

2014-12-28 04:36:25 | 世界経済

 This is an individual and specific experience tor such person ,and can never be explained with theory and doctorine . Such a view is called kyoge-betuden which means transmitting ideas without reliance upon sutras and other written materials.
 「これは、個別的で具体的な体験であり、理論や教義では、決して説明できない、この立場が教外別伝であり、経や文字によることなくアイデアを知らせることを意味する」

     銀椀裏に雪を盛る
 イギョウ宗は商人で、イ山とキョウ山の巧みなやりとりが商人の駆け引きに似ている、この辺が面白い、商人は近代的だ、商人が近代を切り開いたんだろう、あの平家が商人的政権で、厳島神社に見られるように、この政府は海外との貿易を押し進めた、だから、本当は、もっと違った内容があったんだろう、そんなスマートな彼らにとって、人を突いたり切ったり殺したりするほど、バカバカしいことはない、
 「こまった連中だな」
 「そんなことをして いったいどれほどの利益になるのか」

 だが、この列島が近代になるには、ちょっと、いや、だいぶ早すぎたようだ、法眼(ほうげん)宗は公卿、おっとりした公卿の宗風、そして雲門宗があるのだが、この宗派のキャッチコピイが天子、どんなものか、あるヒネクレ者が、雲門の弟子のハリョウに向かって、
   いかなるか 提婆(だいば)宗    
 これに対して、       
   銀椀裏に雪を盛る

 言いも言ったり、言い切った、我が宗風は、銀のお椀に雪を盛る、そういった純一な行為、「銀器に白雪を盛る」、凄絶な感覚の世界だ、
 「シュールだな」
 言語表現の極致、精密にして絶妙、こまったものだ、唐の時代とは、なんともシャレた時代で、最高のおとこたちの舞台だった、
 「人類史の華」
 青春の一時期、この宗派を復興できないものかと思ったことがある。

 これに対して、現代はどうか、ちょっと信じられないことだが、坐禅の会にお金を取るトコロがあるらしい、会費を徴収するのだ、
  木喰(もくじき)を とうとい人とたずねくる
         たずねる人は なおもとうとき
 「悟中迷あり」の出家者は。ただひたすらにやって来る凡夫の姿に「迷中悟あり」の端的を知るはずだが、それほどのボーズはおるまい、まあー 相手にするのも時間の無駄だろう、とにかく、来るところまで来ているようだ、駅前に、日曜の朝、坐禅会をやっている寺があるというので早速出かける、けっこうなビルデイングだ、相当な収入なんだろうね、儲かって儲かって仕方がないのかな。

 朝の6時半、豆タヌキみたいな中年の僧侶が出てきた、
 「どうやっても ソンケーできそーもないな」
 「なにか いいましたか」
 「いいえ けっこうなお寺で」
 「ぐふふ 3階なんですよ ぐふふ」
 自慢なんだろうね、3階の道場に向かったのだが、その途中でクチブルに指を当て、
 「しいー」
 「・・・」
 「子供が 寝ているんです」
 なるほど、コダヌキたちが、
 「グースー グースー グビグビ・グググ・グビグビ ブリブリのブリー」
 寝ながら「ヘ」をしている、
 「ずいぶん器用だな」
 それにしても、なんと寝ぎたないんだろう、出家の子供という気配が、まるでないのがおもしろいね。

 始まったと思ったら、すぐにジ・エンド、30分も経っていない、そして、
 「これから 作務(さむ)をします」
 「・・・」
 「作務は動く坐禅です しっかりやってください」
 「きょとーん」

 坐禅会に集まった十数名に、それぞれ作業が割り当てられた。