昨日はいつもと違いキューバダンスのレッスンはお休み。
家族全員集合で父の古希を祝う夕食会だった。
実は昨年父が「数えでは今年」ということで私達夫婦と両親でお祝いはしたのだけど、今年は弟一家が5年ぶりにアメリカから帰国したのでもう一度ということになった。
3世代そろうとやはり古希という感じ。途中何度か一時帰国の時に会ってはいるんだけど小学校の入学式後すぐ向こうに行った姪がもう六年生。お受験だ。甥も4年生。今はサッカーで忙しいらしい。弟もにわかコーチになり小学生の体力には参っているようだ(笑)。向こうで生まれた甥が3歳で幼稚園。言葉が遅いと母は心配していたけどなんのその。今は一番おしゃべりだ。せっかく米国籍があるんだけど、残念ながら英語は話せない。末っ子らしく要領がいい。子供達の成長を見てると私達が年取るのも無理ないなあと思う。
昨年は父の子供のころの話も聞いたりしてしみじみした感じだったんだけど、今回は何しろ一番小さな甥がにぎやかでやはり子供が中心になる。でも両親もうれしそうでほっとする。子供のエネルギーって不思議だ。お祝いはこのくらいにぎやかなほうがいいなと思う。
話は変わるが今イスラエルによるレバノン空爆と、キプロスへの脱出、国連による援助などがニュースになっている。
ちょうど30年前、1975年、父の転勤で小学校3年生になった直後レバノンに行った。ちょうど今の弟一家ぐらいの頃だ。私が3歳ぐらいのときから父は会社命令で英会話教室にずっと通っていた。夜も家でテープを聴いて苦手な英語をずっと勉強していた。大学受験は英語で失敗したという父なのに家族のためにがんばったのだと思う。
その後研修や出張で海外に行くようになり、いよいよ駐在となった。海外旅行は今ほどは気軽で普通な時代ではなかったので今では考えられないけど出発のときは両祖母、叔父、叔母、父の会社の人、近所の人が羽田空港まで来て見送ってくれた。
先に父が行ってしまったので、母と弟と私の3人は初の飛行機で(小さいDC8だった)南周りで香港、バンコク、ボンベイ、カラチを経由してようやくベイルートに到着した。ベイルートで降りたのは私達三人と共同通信の記者だけだった。夜遅く着いて、人気のない道路を車で行くと周囲はパレスチナ難民のキャンプだった。
当時レバノンは「中東のパリ」と呼ばれていて、農家の3男である父のごくフツーのサラリーマン家庭だった我が家は外国に行ったというだけでなくまたライフスタイルの点でもカルチャーショックを受けた。何しろそれまでは旅行といえば会社の寮か民宿だったのが、最初に泊まったのが瀟洒で大きなホテル。
前任者の方に家族で食事にと連れて行かれた先が仏料理。パンといえばヤマザキの食パン。紅茶はリプトン、洋食といえばハンバーグかナポリタンだったのにいきなりエスカルゴ。にんにくがきいていてとてもおいしいとはいえなかったし、フルコースは面食らうばかりだった。
家はマンションで4ベッドルームにリビングが2つあった。何と14歳のメイドさんがいた。外人ばかりが住んでいるマンションだった。
ものすごく貧富の差があり、日本人学校の友達の家に行くときも必ずハイヤーで移動した。変な感じだった。父が母にプレゼントしたペンダントを見てキリスト教徒の人が「それは私達の前では見につけないでくれ」と言われたりと、やはりカルチャーは大きく違った。
でも子供はお気楽なのでピジョンロックというはとの形をした岩が見える海岸で遊んだり、レバノン杉という国旗にもなっている杉を見にいったり、遺跡を見たり、屋台のオレンジジュースを飲んだり、とエンジョイしていた。それもつかの間、治安がどんどん悪化していった。
夏ごろになると日本人学校は早々に休校になり、近所の先生の家で時々勉強した。台所のドアを開けると、山の上の方で絶え間なく機関銃の音がした。父の車で出かけても検問でいろいろチェックされた。装甲車もしょっちゅう見かけた。
そうするうちにとうとう日本人が住む地区でもベッドルームに銃弾が飛び込んできたということになり、そしてついに家の前で夜中銃撃戦があった。両親はあわてたらしいが私も弟も目を覚まさないので仕方なく家の一番奥に抱えていったそうだ。
そして翌々日ロンドンに避難したのだった。そして何と父は私達を残してどうするか決めるために日本に帰ってしまったのだった。当時は家族を移動するのはコストがかかったからだ。
結局2ヵ月後、ベイルートに荷物をとりにかえり、JALの臨時便で帰国した。
そして翌年あらためてギリシャに行った。その後レバノンには一度も行っていない。高校ぐらいのときTVで廃墟と化したベイルートを見た。そして確か去年、最新のリゾートとしてレバノンが紹介されそこまで戻したかとほっとしていたら今回の爆撃だった。普通の人にとってはただただ受難である。やりきれないものを感じる。
父はいまのんびり過ごしている。仕事を完全にやめて7年になる。今は管理組合の理事がやりがいのようだ。ネットも好きだ。細かいことを言うひとではなかったけれどやはり父の影響は大きい。
次は母の古希、そしてその次は父の喜寿、みんなでお祝いできればいいなと思う。
家族全員集合で父の古希を祝う夕食会だった。
実は昨年父が「数えでは今年」ということで私達夫婦と両親でお祝いはしたのだけど、今年は弟一家が5年ぶりにアメリカから帰国したのでもう一度ということになった。
3世代そろうとやはり古希という感じ。途中何度か一時帰国の時に会ってはいるんだけど小学校の入学式後すぐ向こうに行った姪がもう六年生。お受験だ。甥も4年生。今はサッカーで忙しいらしい。弟もにわかコーチになり小学生の体力には参っているようだ(笑)。向こうで生まれた甥が3歳で幼稚園。言葉が遅いと母は心配していたけどなんのその。今は一番おしゃべりだ。せっかく米国籍があるんだけど、残念ながら英語は話せない。末っ子らしく要領がいい。子供達の成長を見てると私達が年取るのも無理ないなあと思う。
昨年は父の子供のころの話も聞いたりしてしみじみした感じだったんだけど、今回は何しろ一番小さな甥がにぎやかでやはり子供が中心になる。でも両親もうれしそうでほっとする。子供のエネルギーって不思議だ。お祝いはこのくらいにぎやかなほうがいいなと思う。
話は変わるが今イスラエルによるレバノン空爆と、キプロスへの脱出、国連による援助などがニュースになっている。
ちょうど30年前、1975年、父の転勤で小学校3年生になった直後レバノンに行った。ちょうど今の弟一家ぐらいの頃だ。私が3歳ぐらいのときから父は会社命令で英会話教室にずっと通っていた。夜も家でテープを聴いて苦手な英語をずっと勉強していた。大学受験は英語で失敗したという父なのに家族のためにがんばったのだと思う。
その後研修や出張で海外に行くようになり、いよいよ駐在となった。海外旅行は今ほどは気軽で普通な時代ではなかったので今では考えられないけど出発のときは両祖母、叔父、叔母、父の会社の人、近所の人が羽田空港まで来て見送ってくれた。
先に父が行ってしまったので、母と弟と私の3人は初の飛行機で(小さいDC8だった)南周りで香港、バンコク、ボンベイ、カラチを経由してようやくベイルートに到着した。ベイルートで降りたのは私達三人と共同通信の記者だけだった。夜遅く着いて、人気のない道路を車で行くと周囲はパレスチナ難民のキャンプだった。
当時レバノンは「中東のパリ」と呼ばれていて、農家の3男である父のごくフツーのサラリーマン家庭だった我が家は外国に行ったというだけでなくまたライフスタイルの点でもカルチャーショックを受けた。何しろそれまでは旅行といえば会社の寮か民宿だったのが、最初に泊まったのが瀟洒で大きなホテル。
前任者の方に家族で食事にと連れて行かれた先が仏料理。パンといえばヤマザキの食パン。紅茶はリプトン、洋食といえばハンバーグかナポリタンだったのにいきなりエスカルゴ。にんにくがきいていてとてもおいしいとはいえなかったし、フルコースは面食らうばかりだった。
家はマンションで4ベッドルームにリビングが2つあった。何と14歳のメイドさんがいた。外人ばかりが住んでいるマンションだった。
ものすごく貧富の差があり、日本人学校の友達の家に行くときも必ずハイヤーで移動した。変な感じだった。父が母にプレゼントしたペンダントを見てキリスト教徒の人が「それは私達の前では見につけないでくれ」と言われたりと、やはりカルチャーは大きく違った。
でも子供はお気楽なのでピジョンロックというはとの形をした岩が見える海岸で遊んだり、レバノン杉という国旗にもなっている杉を見にいったり、遺跡を見たり、屋台のオレンジジュースを飲んだり、とエンジョイしていた。それもつかの間、治安がどんどん悪化していった。
夏ごろになると日本人学校は早々に休校になり、近所の先生の家で時々勉強した。台所のドアを開けると、山の上の方で絶え間なく機関銃の音がした。父の車で出かけても検問でいろいろチェックされた。装甲車もしょっちゅう見かけた。
そうするうちにとうとう日本人が住む地区でもベッドルームに銃弾が飛び込んできたということになり、そしてついに家の前で夜中銃撃戦があった。両親はあわてたらしいが私も弟も目を覚まさないので仕方なく家の一番奥に抱えていったそうだ。
そして翌々日ロンドンに避難したのだった。そして何と父は私達を残してどうするか決めるために日本に帰ってしまったのだった。当時は家族を移動するのはコストがかかったからだ。
結局2ヵ月後、ベイルートに荷物をとりにかえり、JALの臨時便で帰国した。
そして翌年あらためてギリシャに行った。その後レバノンには一度も行っていない。高校ぐらいのときTVで廃墟と化したベイルートを見た。そして確か去年、最新のリゾートとしてレバノンが紹介されそこまで戻したかとほっとしていたら今回の爆撃だった。普通の人にとってはただただ受難である。やりきれないものを感じる。
父はいまのんびり過ごしている。仕事を完全にやめて7年になる。今は管理組合の理事がやりがいのようだ。ネットも好きだ。細かいことを言うひとではなかったけれどやはり父の影響は大きい。
次は母の古希、そしてその次は父の喜寿、みんなでお祝いできればいいなと思う。