標記はジェームズ・マクブライドという人のナショナル ジオグラフィック 日本版 4月号の記事。
「ヒップホップを話すように歌う『スピーチソング』の一種と考えるとそこには長い歴史がある」という。「民族音楽の研究者によれば、ヒップホップは西アフリカの語り部グリオによる踊りや太鼓、歌が起源で、言葉と音楽を融合し、アフリカからの長い航海を生き延びた奴隷の苦難を表現したものだという・・・」
そのあたりはカリブ海諸国の音楽のルーツとも共通だけれども、その後の発展という意味ではヒップホップやラップの存在と影響はコマーシャリズムという面で圧倒的だ。私は年齢的にも個人の嗜好としてもあまりヒップホップは好きではない。
でも私が興味を持ったのはこの記事の後半部分だ。
私が昨年末キューバに行って、いろいろ見て、今までブログに書けなかった理由を言い当てている。それは子供時代レバノンに、そして新婚時代バンコクに4年住んでいたときの何となくげんなりした理由でもある。
「ニューヨークから飛行機で8時間。揺り起こされて目を覚ませば、そこはもうアフリカ西部、セネガル共和国の首都ダカールだ。私はアフリカにやってきた。ヒップホップの起源を探りにきたのだ。ところが、取材するつもりが、取材対象に飲み込まれてしまった。鼻を刺激するあまりにも強烈な貧困の臭いが、ヒップホップの起源を探るなどというロマンチックな考えを抱いていた私を、一気に現実に引き戻した。」
「ホテル・テランガは要塞さながらに頑丈なコンクリートの壁に守られていて、表門の周辺には物乞いが群がっている。その前を、ジーンズにハイヒールをはいたフランス人観光客が、知らん顔で通り過ぎる。彼らはダカール市外を王侯貴族のように闊歩し、市場で値切って買い物をしたり、子どもと一緒にホテルのプールで泳いだりする」
「その光景は1950年代の米国南部をほうふつとさせる。浮かれ騒ぐ白人に、黒人が仕えるという構図だ。500メートルほど離れたところでは、住民がピーナッツを売ったわずかな稼ぎで、極貧にあえいでいる。あたりに不穏な空気が漂い、何かが間違っているという意識が根深く巣くっている。」
「セネガルには現在、何百というラップグループがあり、ナイトクラブにはフランスのテレビ局スタッフがしょっちゅう出入りして、コラという弦楽器やタマという打楽器の演奏を撮影している。だが、ドラムの演奏やダンス教室、観光客の投げ入れるチップが立てる音の裏には、セネガル人の絶望的な怒りが静かに煮えたぎっている。」
「何かが間違っている」と本当に思う。8歳のときベイルートに行って14歳のメイドさんがいたこと。1975年の中東戦争でベイルートを脱出したこと。バンコクで信号待ちの車に花を売ったり、山のように廃材を積んだリヤカーを押す子供の横で運転手が運転するベンツで1人で通学する小学生がいたこと。経済格差のため日本では考えられないような生活をする自分。無意識に見ないようにしているけれど日本にも存在する同様の問題。
その一方で人種的には私は黄色人種で差別される対象でもある。海外では中国人とからかわれることもしょっちゅう。卒業旅行で友人とロンドンの赤い二階建バスに乗って運賃を払おうとしたら、車掌さんが「内緒だけどいいから」と受けとらなかった。どうやら私たちはpoor little asian girlsに見えるのだ(おそらく12歳位と思ったのだろう)。パリやニューヨークのアッパーイーストのレストランにでも行けば他の白人の客に露骨にいやな顔をされることも多い。
人は生まれる環境も人種も選べない。この問題のあまりの重さに対し個人は無力だ。批判はあるだろうが私にできることは元気なうちは働いて少しでも税金を払うことぐらいと思っている。
「ヒップホップを話すように歌う『スピーチソング』の一種と考えるとそこには長い歴史がある」という。「民族音楽の研究者によれば、ヒップホップは西アフリカの語り部グリオによる踊りや太鼓、歌が起源で、言葉と音楽を融合し、アフリカからの長い航海を生き延びた奴隷の苦難を表現したものだという・・・」
そのあたりはカリブ海諸国の音楽のルーツとも共通だけれども、その後の発展という意味ではヒップホップやラップの存在と影響はコマーシャリズムという面で圧倒的だ。私は年齢的にも個人の嗜好としてもあまりヒップホップは好きではない。
でも私が興味を持ったのはこの記事の後半部分だ。
私が昨年末キューバに行って、いろいろ見て、今までブログに書けなかった理由を言い当てている。それは子供時代レバノンに、そして新婚時代バンコクに4年住んでいたときの何となくげんなりした理由でもある。
「ニューヨークから飛行機で8時間。揺り起こされて目を覚ませば、そこはもうアフリカ西部、セネガル共和国の首都ダカールだ。私はアフリカにやってきた。ヒップホップの起源を探りにきたのだ。ところが、取材するつもりが、取材対象に飲み込まれてしまった。鼻を刺激するあまりにも強烈な貧困の臭いが、ヒップホップの起源を探るなどというロマンチックな考えを抱いていた私を、一気に現実に引き戻した。」
「ホテル・テランガは要塞さながらに頑丈なコンクリートの壁に守られていて、表門の周辺には物乞いが群がっている。その前を、ジーンズにハイヒールをはいたフランス人観光客が、知らん顔で通り過ぎる。彼らはダカール市外を王侯貴族のように闊歩し、市場で値切って買い物をしたり、子どもと一緒にホテルのプールで泳いだりする」
「その光景は1950年代の米国南部をほうふつとさせる。浮かれ騒ぐ白人に、黒人が仕えるという構図だ。500メートルほど離れたところでは、住民がピーナッツを売ったわずかな稼ぎで、極貧にあえいでいる。あたりに不穏な空気が漂い、何かが間違っているという意識が根深く巣くっている。」
「セネガルには現在、何百というラップグループがあり、ナイトクラブにはフランスのテレビ局スタッフがしょっちゅう出入りして、コラという弦楽器やタマという打楽器の演奏を撮影している。だが、ドラムの演奏やダンス教室、観光客の投げ入れるチップが立てる音の裏には、セネガル人の絶望的な怒りが静かに煮えたぎっている。」
「何かが間違っている」と本当に思う。8歳のときベイルートに行って14歳のメイドさんがいたこと。1975年の中東戦争でベイルートを脱出したこと。バンコクで信号待ちの車に花を売ったり、山のように廃材を積んだリヤカーを押す子供の横で運転手が運転するベンツで1人で通学する小学生がいたこと。経済格差のため日本では考えられないような生活をする自分。無意識に見ないようにしているけれど日本にも存在する同様の問題。
その一方で人種的には私は黄色人種で差別される対象でもある。海外では中国人とからかわれることもしょっちゅう。卒業旅行で友人とロンドンの赤い二階建バスに乗って運賃を払おうとしたら、車掌さんが「内緒だけどいいから」と受けとらなかった。どうやら私たちはpoor little asian girlsに見えるのだ(おそらく12歳位と思ったのだろう)。パリやニューヨークのアッパーイーストのレストランにでも行けば他の白人の客に露骨にいやな顔をされることも多い。
人は生まれる環境も人種も選べない。この問題のあまりの重さに対し個人は無力だ。批判はあるだろうが私にできることは元気なうちは働いて少しでも税金を払うことぐらいと思っている。